新HPCの歩み(第39回)-1967年-
IBM社はSystem/360シリーズの中で、科学技術計算向けに設計したmodel 91を出荷した。これは浮動小数演算においてout-of-order実行を行う最初のマシンであった。Gene M. AmdahlはいわゆるAmdahlの法則を発表した。 |
社会の動き
1967年(昭和42年)の社会の動きとしては、1/20直江津の長浜トンネルで落盤事故、1/27アポロ宇宙船1号火災事故、2/6米軍、ベトナム戦争で枯葉作戦開始、2/11初の建国記念の日(日本)、2/18 Robert Oppenheimer死去、3/1北千里駅で日本初の自動改札機、3/21ストックホルムオリンピック開催55周年、金森四三が55年前のマラソンをゴールイン、4/15美濃部亮吉が都知事初当選、5/30マツダが初のロータリー車コスモスポーツを販売開始、6/5第3次中東戦争勃発、通称六日戦争、6/10東京教育大、筑波への移転決定、6/17中国、初の水爆実験、6/23家永三郎、教科書訴訟提訴、7/1 EC成立、7/4首都高環状線開通、7/7~10昭和42年7月豪雨(九州から関西)、7/20動力炉・核燃料開発事業団発足、8/8新宿駅構内で、米軍タンク車衝突炎上、8/8 ASEAN発足、8/27ユニバーシアード東京大会開幕(9/4まで)、9/19不忍池ボート池の底が抜け建設中の千代田線トンネル冠水、9/28新清水トンネル開通、10/8第1次羽田闘争、10/9チェ・ゲバラ死亡、10/18ソ連の金星4号、金星に軟着陸、10/18ツイッギー来日、10/20吉田茂死去、10/31吉田茂国葬、11/12第2次羽田闘争、12/3世界初の心臓移植手術、12/11コンコルド1号完成、12/25『帰って来たヨッパライ』シングル盤発売、など。
流行語・話題語としては、「アングラ」「バハハーイ」「核家族」「ハプニング」「フーテン族」「大きいことはいいことだ」「ミニスカート」など。
チューリング賞は、EDSACの開発者であるMaurice Vincent Wilkes(Cambridge大学)に授与された。
Hans A. Betheは原子核反応理論への貢献、特に星の内部におけるエネルギー生成に関する発見」によりノーベル物理学賞受賞。化学賞は、短時間エネルギーパルスによる高速化学反応の研究に対し、Manfred Eigen、Ronald George Wreyford Norrish、George Porterの3名に授与された。生理学・医学賞は、視覚の科学的、生理学的基礎過程に関する研究に対し、Ragnar Granit、Haldan Keffer Hartline、George Waldの3名に授与された。
筆者ら素粒子論研究室の若手は1966年に東京大学大型計算機センターに設置されたHITAC 5020Eを愛用した。筆者は1967年に修士2年になり、当時ヨーロッパから帰国した小沼通二先生の示唆によるSU(3)対称性の現象論的研究や、猪木慶治先生の指導によるRegge pole理論を用いた高エネルギー実験データの解析などを行った。その際、不可欠だったのは、非線形最小二乗法のプログラムである。ほとんど参考書がなかったので、いろいろ工夫して自分で作成し、他の研究者にも提供した。このときの勉強が、後のSALSの開発に役立った。
しかし、われわれの研究室の宮沢弘成先生(当時助教授)は、アメリカ帰りというのに、コンピュータを駆使する若手達にこう嫌みを言った。曰く「一流の物理学者はコンピュータを使わない。」と。しかし先生の言うことに従っていては東大の学生は勤まらない。そんな批判はどこ吹く風と筆者等は計算物理への道を歩み始めたのである。後日談であるが、先生は東大定年後、神奈川大学の何と「情報科学科」の教授となられた。
日本政府関係の動き
1) 電信電話公社(DIPS)
1967年8月、通信回線と情報処理装置を直結し、情報処理を行うデータ通信サービスが郵政省(当時)から公衆電気通信役務として承認され、1967年10月にデータ通信本部を発足させた。
電電公社では、DIPS研究実用化計画を立案した。その骨子はまずオンライン情報処理サービスの経験の取得と要員育成を主目的とするDIPS-0研究計画と、データ通信サービス用の商用開発を目指したDIPS実用化計画であった。
2) 気象庁(HITAC 5020)
気象庁は、1959年に数値天気予報のために導入したIBM704コンピュータを、1967年、HITAC 5020に更新した。
3) 日本学術振興会
1932年12月に財団法人として設立された日本学術振興会は、1967年9月に日本学術振興会法に基づき特殊法人として設立された。2003年からは独立行政法人。
4) 学術審議会
学術審議会は、学術に関する重要事項を調査審議し文部大臣に建議するための文部大臣の諮問機関として、 学術奨励審議会を発展的に改組して1967年に設置された。日本学術会議が担ってきた機能の一部を、学術審議会が担当するようになった。2001年1月、中央省庁再編に伴い、他の審議会とともに科学技術・学術審議会に統合された。
5) 日本情報処理開発協会
同協会は、1967年12月20日、郵政省および通商産業省共管の「財団法人日本情報処理開発センター」として設立された。通称JIPDEC。1976年4月、日本経営情報開発協会、情報処理研修センターと統合し「財団法人日本情報処理開発協会」として発足。2011年4月1日に、一般財団法人に移行し、名称を日本情報経済社会推進協会とした。通称は同じ。
6) 理化学研究所
1967年に、埼玉県北足立郡大和町(現在の和光市)に大和研究所を開設し、本拠地を駒込から移転した。現在の和光研究所である。駒込は縮小し、駒込分所が置かれた。
日本の大学センター
1) 大阪大学(NEAC-2200/200)
大阪大学計算機センターは、1967年9月、NEAC-2200 model 200と通信制御装置及び周辺機器を導入した。1968年1月には、阪大MAC (TSS)システムサービスを開始した。MACは日本電気と大阪大学との共同研究で開発されたものである。全国共同利用施設としての大型計算機センターが設置されるのは1969年4月である。
2) 弘前大学(HIPAC 103)
1967年4月、弘前大学の計算センター発足、パラメトロン計算機HIPAC 103導入。
3) 茨城大学(HIPAC 103)
1967年3月、工学部敷地(日立地区)内に135m2の電子計算機室を新築し、パラメトロン計算機HIPAC103(主記憶4096W)を設置した。
4) 東京農工大学(FACOM 230-20)
1967年6月、東京農工大学に電子計算機室設置、FACOM 270-20導入。
5) お茶の水女子大学
1967年10月、お茶の水女子大学理学部電子計算機室を設置。
6) 神戸大学(OKITAC 5090D)
1964年に計算センターに導入したOKITAC 5090Cを1967年11月OKITAC 5090Dに更新した。
7) 慶応義塾大学(TOSBAC-3400)
工学部計算センター(1961年3月設置、小金井キャンパス)に、TOSBAC-3400を設置。
8) 上智大学(IBM 1130)
1967年3月、上智大学に電子計算機室が発足し、IBM 1130(主記憶8KW=16KB)を導入した。
9) 工学院大学(NEAC-2200/300)
1967年、工学院大学は電子計算機センターを開設した。NEACシリーズ2200モデル300を導入し、運用を開始する。
10) 名古屋市立大学(HITAC 5020)
1967年4月1日、計算センターが発足し、HITAC 5020稼働。
11) 名城大学(HIPAC 103)
1967年名城大学の電子計算機室開室、HIPAC 103導入。
12) 東京大学原子核研究所(PDP-9)
1967年度、同研究所低エネルギー部に、2768万円の予算が認められ、前年の高エネルギー部に続いてPDP-9を設置した。
13) 京都大学数理解析研究所(TOSBAC 3400)
1963年に設立された同研究所に、1967年4月に計算機構部門が設置され、高須達教授が当部門教授に任じられた。この年度内に附属計算機構研究施設にTOSBAC 3400を設置した。
日本の企業の動き
このころ日本の各社は、ICを論理素子とするコンピュータの開発にしのぎを削った。
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MELCOM9100システム グループ30 出典:一般社団法人 情報処理学会Web サイト「コンピュータ博物館」 |
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1) 三菱電機(MELCOM 9100/30)
1967年9月、三菱電機は、科学技術オンライン用コンピュータMELCOM 9100/30を完成した。
2) 日本電気(NEAC-1240, OS/MOD IV)
1967年2月、日本電気はICを用いたNEAC-1240(コアメモリ採用)を発表した。
日本電気は、提携するHoneywellが大型機に関心がなかったので、独自に上位機種NEAC 2200/500, 700を開発し、これらのOSも開発することになった。IBMのSystem/360が持つ機能を実現し、その上にTSS機能を持たせたOS/MOD IVおよびOS/MOD IV EXを開発した。これを搭載した2200/500を大阪大学(大型計算機センター発足前)に納入し、大学との共同研究で1968年1月に阪大MACとして実用化した。
3) 富士通
富士通信機製造株式会社は、1967年6月1日、富士通株式会社に社名を変更した。
4) 日本IBM社
日本IBM社は神奈川県藤沢市での新工場の建設を進め、1967年5月に完成した。これまで東京・千鳥町工場で製造されていたSystem/360の生産を新工場に移し、8月から生産を開始した。
同社は、「IBMコンピュータ・サイエンス・シンポジウム」を1967年にスタートし、毎年1回、同社の天城ホームステッドで開催するようになった。山内二郎が中心となり、学官産の3者を広く統合したシンポジウムである。最初の頃のテーマは以下の通り。
第1回 |
1967年 |
シミュレーション |
第2回 |
1968年 |
ラボラトリー・オートメーション |
第3回 |
1969年 |
R&Dとコンピュータ |
第4回 |
1970年 |
意思決定とコンピュータ |
第5回 |
1971年 |
イメージ・プロセシング |
第6回 |
1972年 |
社会システム |
第7回 |
1973年 |
階層構造と情報処理 |
第8回 |
1974年 |
データ・ベース |
第9回 |
1975年 |
大規模ソフトウェア・システムの開発 |
第10回 |
1976年 |
食糧供給と農業問題 |
第11回 |
1977年 |
コンピュータ・ネットワーク |
第12回 |
1978年 |
地域管理と環境問題 |
標準化
1) FORTRANの日本規格化
1966年にANSIで制定されたFORTRAN規格は1967年5月1日、JIS C 6201(水準7000)として「電子計算機プログラム用言語FORTRAN」という日本規格となった。同時に水準5000および3000も規定された。ALGOL 7000、6000、5000、4000、3000もJIS化された。
2) 文字コード
1967年、7ビットのラテン・アルファベットのコードが、初めてISO/R646-1967として制定された。
ヨーロッパの動き
1) 西ドイツのコンピュータ産業育成
西ドイツ政府が自国のコンピュータ産業育成政策に着手したのは1967年になってからで、重点はソフトウェア技術であった。1967年、第1次情報処理振興計画を実施し、1970年までの4年間に$350Mを投入した。これにより、「政府公共部門の情報処理システムの高度化とネットワークの導入」および「情報処理システムの開発とレベルアップ」を図った。1968年には、この計画の実施期間として研究技術省傘下に、特殊法人GMD (Gesellschaft fűr Mathematik und Datenverarbeitung, Society for Mathematics and Information technology)を設立した。GMDはその後HPC推進の重要な柱となった。2000年にGMDのIT研究センターや研究所はFraunhofer Societyに統合された。
2) Nuclear Research Centre Jülich
1956年12月11日に西ドイツのノルトライン=ヴェストファーレン州政府により設立された研究機関は、1967年、Nuclear Research Centre Jülich (Kernforschungsanlage Jülich GmbH)(原子核研究施設)に名称が変わる。Jülich Supercomputer Centreの先祖にあたる。Jülichはオランダやベルギーとの国境近いAachenの北東30キロほどのところにある。
世界の学界
1) 混合精度による反復改良
Michigan大学(Ann Arbor)のCleve B. Molerは、“Iterative Refinement in floating point”(Journal of the ACM, 14 (1967), 316-321) (論文での所属はスイスのETH)において、連立1次方程式の解法における混合精度による反復改良を提案した。LU分解を単精度(32bit)で行い、倍精度で反復改良を行えば、行列の条件数によっては倍精度で解いた場合に近い精度が、より短い計算時間で得られると主張した。LU分解は次数の3乗の計算量であるが、反復改良の主要計算は行列ベクトル積で次数の2乗であり、当時倍精度計算には単精度演算に比べて何倍もの時間を要したからである。J. H. Wilkinsonは1963年に数値計算の丸め誤差を解析し、連立1次方程式の解を反復改良により高精度化できることを示したが、これは同一精度の計算であった。
その後、倍精度演算が高速に実行できるようになり、メモリも大容量かつ安価になったので、科学技術計算は倍精度(64ビット)で実行するのが常識になった。そのため、このような工夫は忘れられていたが、2006年から発売されたCell Broadband Engineや、初期のSIMD機構や、初期のGPUでは、単精度演算は高速だが、倍精度演算がかなり遅く、混合精度による反復改良が再登場した。また、2019年ごろから、深層学習のために半精度16 bit浮動小数を高速に実行できるプロセッサ(NVIDIA A100やF64FXなど)が出現し、半精度と倍精度の混合演算によるHPL-AIベンチマークが提唱された。その起源はこの論文に遡る。
国際会議
1) ISSCC 1967
第14回目となるISSCC 1967 (1967 IEEE International Solid-State Circuits Conference)は、1967年2月15日~17日にペンシルバニア州Philadelphiaで開催された。主催はIEEE Group on Circuit Theory、IEEE Philadelphia Sections、University of Pennsylvaniaである。前回まで主催者として名前が出ていたIEEE Electronic Circuits and Systems Committeeは今回落ちている。組織委員長はJohn S. Mayo (Bell Labs)、プログラム委員長はRichard H. Baker (MIT)である。電子版の会議録はIEEE Xploreに置かれている。大規模集積回路が大きな話題となっている。
アメリカの企業の動き
1) IBM社(IBM System/360 model 91, CMS)
IBM社は1964年11月、System/360シリーズの中で、科学技術計算向けに設計したmodel 91を発表していたが、1967年10月、NASAのGoddard Space Flight Centerに一号機をやっと出荷した。1968年から利用された。これはTomasuloのアルゴリズムを採用し、浮動小数演算においてout-of-order実行を行う最初のマシンである。ビジネス利用を想定していないので、十進演算命令は用意されていない。4台の社内利用を含め、15台のmodel 91が製造された(台数については異説あり)。Wikipediaの”IBM System/360”の表には1966年1月に発表とあるが、後のCDC訴訟との関係から微妙である。
IBM社のCambridge Scientific Centerでは、MITのProject MACとの密接な関連の下に、System/360 model 40用に、仮想OSであるCP-40とCP-40/CMSが研究用に開発された。これにより、一つのコンピュータ上に複数の仮想コンピュータを作成し、それぞれでゲストOSを稼働させることができるようになった。CMSはCambridge Monitor Systemの略で、各ユーザが独立のsingle user仮想マシンを占有する形となる。その後、Conversational Monitor Systemに改名された。System/360 model 67用の商用初の仮想OSであるCP-67やCP-67/CMSも発売された。これに基づいて、1972年、最初のVM (Virtual Machine)であるVM/370が発売された。のちに筆者は筑波大学の全学情報処理教育システムIBM 3090でVM/CMSを利用した。
2) IBM社(Amdahlの法則)
また、IBM社のGene M. Amdahlは、1967年8月のAFIPS Spring Joint Computer Conferenceにおいて、”Validity of the single processor approach to achieving large scale computing capabilities”においていわゆるAmdahlの法則(Amdahl’s law)を発表した。並列処理による速度向上の限界については、本文中にはあまり明確に書いてないが、Guihai Chenが補足を加えて有名な公式を提示している。
他方Amdahl自身は、ACS(Advanced Computing Systems)のリーダーの一人として新しいコンピュータを開発していた。本部はCDC 6600に似たACS-1を提案していたが、AmdahlはSystem/360と互換性をもたせたAEC/360を推進していた。結局、東海岸で進められていたSystem/360の改良と衝突することとなり受け入れられなかった。これが1970年の、AmdahlのIBM退社に繋がる。
3) Sperry Rand社(UNIVAC 9000)
IBMのSystem/360に対抗するため、Sperry Rand社はUNIVAC 9000 series (9200、 9300、 9400、 9700)をこのころ発表した。正確な年は不明。これらはSystem/360の下位機種への対抗馬である。
9200と9300は、IBM 360/20のような、System/360命令体系の16ビット部分集合が実行できる。9400は32ビットのフルセットに対応し、UNIVAC 9400はほぼIBM 360/30に相当する。著作権的にこれが可能だったのは、IBMとRemington Randとの特許訴訟判決により、Sperryは360の命令体系をそっくりそのまま使う権利を保有していたからである。
9000 seriesは、メモリとして薄膜メモリを用いていたが、これは磁気コアとほぼ同様な機能を持ち、非破壊読み出しができるという特徴を持つ。
4) Burroughs社
1967年、B6500 を発表した。ALGOL指向のスタックマシンである。
5) DEC社(TOPS-10)
DEC社は、1967年、PDP-10のためのTOPS-10というOSをリリースした。1971年9月、これを搭載したPDP-10システムがDECsystem-10の名前で販売された。 なお、TOPS-10と呼ばれるようになったのは1970年からである。TOPS-10のファイルシステムでは(ピリオド+)3文字の拡張子を含む。この形式は、CP/Mを経てMS-DOSや初期のWindowsにも継承された。PDP-8用のOS/8の2文字の拡張子は1971年なので3文字の拡張子はこれより古いことになる。
企業の創業
1) Itel社
Peter RedfieldとGary Friedmanは1967年、リース会社のItelを創立した。当初、IBM System/360のリースの事業を行った。IBMより安くリースを行ったので、一時はIBM社自体に次ぐリース収入を記録した。System/370出現時の危機は、多くのリース会社とは異なり、投資者とユーザ間のリースを斡旋する方式により乗り切った。投資者は名目だけコンピュータに投資することで、償却費を損金に算入でき、アメリカの投資減税制度を活用できた。ユーザはリース料を節約でき、Itel社はリスクなしで手数料を受け取れる、という三方一両得のビジネスであった。IBMは損をしたが。
1977年、Itel社はIBM互換機ビジネスに参入した。National Semiconductor社と日立製作所との合弁会社(会社名、要確認)と契約して、AS (Advanced Systems)ブランドのIBM互換機を製造し(日立製作所のOEM)、200システムを出荷し$73Mの利益を得た。1979年、National Semiconductor社が買収してNAS (National Advanced Systems)部門としたが、1989年、日立の子会社Hitachi Data Systemsとなった。
企業の終焉
1) Zuse KG
Konrad Zuseが1949年11月8日にHaunetal-Neukirchenに設立したZuse KGは、Z4をはじめとして1967年までに251台のコンピュータを販売したが、経営的に行き詰まり、政府の要請によりSiemens社に吸収された。
1968年中ごろ、ARPAは全米にまたがる「多機種のコンピュータ」をつなぐネットワーク計画を作成し、提案を公募した。多くのコンピュータ企業はARPAの計画案を絵空事だとみなしてまじめに考慮せず、見積もりは12件だけであった。
(アイキャッチ画像:MELCOM9100システム グループ30 出典:情報処理学会コンピュータ博物館)
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