提 供
HPCの歩み50年(第1回)-1964年(a)-
HPCwire Japan のご厚意により、HPC (High Performance Computing) の歩みを多少の個人的な想い出を交えながら連載したいと思う。1年分を1~3回で取り扱う予定であるが、事情によって調節する。間違いや重要な欠落などがあると思うが、もし気づいたことがあれば連絡していただきたい。歴史の部分では敬称を原則省略した。いちいち出典は記さないが、主要な資料は下記のとおりである。
- 情報処理学会「コンピュータ博物館」http://museum.ipsj.or.jp/
- HPCwire(電子ニュース、1993年以降)http://www.hpcwire.com/
- Wikipedia http://en.wikipedia.org/wiki/Main_Page (含日本語版)
- 各社、各機関などのweb page
- 各種新聞・雑誌
後述するように1964年(昭和39年)は、いわばHPC元年と言ってもよい年である。この年から連載を始めることとする。それ以前の話は、機会があればHPC前史として書きたいと思う。詳しくは、岩波講座「計算科学」第1巻『計算の科学』参照。
1964年はちょうど50年前、東京オリンピック(10/10-24)の年である。競技会場には行かなかったが、聖火台の聖火が赤々と燃えているのが外からもよく見えた。8/1これに合わせて首都高速が開通し、9/17東京モノレールも開通し、7/25東海道新幹線全線試運転(5時間)、10/1東海道新幹線開通(4時間)。世界的には、1/27フランスが中国と国交樹立、1/29インスブルック冬季五輪開幕、2/8南ベトナムでクーデター、7/2アメリカ議会、公民権法を制定、8/2トンキン湾事件(ベトナム戦争の発端)、10/15フルシチョフ首相解任、10/16中国核実験、キング牧師ノーベル平和賞受賞など多彩な1年であった。日本の出来事としては3/21ライシャワー事件、5/27富士スバルライン開通、6/16新潟地震、9/17東京モノレール開業、11/9佐藤栄作が首相就任、11/17公明党結党などが上げられる。シャープ(早川電機工業)は、3/18日本で初の国産電卓CS-10Aを発表し、6月に発売した。価格は何と53万5000円であった。ソニーも電卓MD-5をシャープの出荷と同日に発表し、67年に発売した。
この年、筆者は理学部物理学科の3年生であったが、初めてコンピュータに触った。物理学教室のあった理学部1号館(旧館)の1階にいつの頃からか「データ処理センター」があり、そこのOKITAC 5090(トランジスタ方式、コアメモリ、1語50ビット、十進法、出荷1961年)を使った。なぜ50ビットかというと、十進法1桁を4ビットで表すので12桁で48ビット、それに符号1ビットとパリティ1ビットという訳である。浮動小数は、指数が十進2桁(50の下駄履き)、仮数が10桁であった。
後藤英一先生の授業の一部に、清水留三郎先生がやってきて、OKISIPというアセンブリ言語を習い、プログラムを学んだ。入力媒体は紙テープであった。問題は勝手に考えろ、というので、よく覚えていないが4次の内挿のテーブルを作ったような気がする。自慢ではないが、筆者の第1言語はアセンブリ言語であり、その後同じコンピュータでALGOLIPというアルゴル風の言語を使った。これが第2言語である。FortranはOKITAC 5090ではサポートされておらず、HITAC 5020で初めて使ったので第3言語にあたる。今から思えば、このときコンピュータなるものに触れたのが筆者の運命を決めたのかも知れない。
後藤先生の「計算機械」という授業ではチューリング・マシンの話が面白かった。ライプニッツが、人間の思考を少数の概念の組み合わせに分解し汎用言語で記述することにより、「人間思想のアルファベット」で諸学を統一することを夢見ていたという話を面白く聞いた。そうすれば哲学者間の論争は計算により決着するだろうというわけである。前半は記号論理学で実現したといえるが、後半は否定的に解決された。つまり、機械によって解けない問題があることが、チューリング・マシンによって示されたのである(停止問題)。このあたりについては前述の『岩波講座計算科学』第1巻に書いた。後藤先生の最終レポートは「2次元テープのチューリング・マシンを通常のチューリング・マシンに写像せよ」という問題であった。一生懸命解いたが、先生は果たして読んでくださったのか?
CDC 6600の登場
CDC 6600 (画像出展:Wikipedia) |
なぜこの年がHPC元年かというと、まずは初の科学技術用コンピュータともいうべきCDC (Control Data Corporation) 社(1957年創業)のCDC 6600 が出荷されたからである。CDC社のSeymour Crayは、CDC 3600の基本を設計した(1963/6出荷)。これは1語48ビットのマシンであった。なぜ2のべき乗でないかというと、当時入出力装置として用いられていたテレタイプのテープが6孔(+パリティ)であったからではないかと思う。
Seymourは、本格的な科学技術用高速コンピュータを目指してさらに設計を進め、CDC 6600を完成させた。これはなんと60ビットのマシンであった。今なら64ビットとするところであろう。筆者は使ったことがないが、CRC総研など日本にも何台か輸入された。10個の並列動作する機能ユニットを持ち、その中には浮動小数加算器(400 ns) 1台や、浮動小数乗算器(1000 ns) 2台が含まれている。Daxpyのように加算と乗算が同数とすると、1μsに加算と乗算が2回ずつ実行できるので、理論性能としては4 MFlopsと言っていいであろう。当時の文献によると、実効性能は1 MFlops程度であったと言われる。6600はまだパイプライン方式になっていない。パイプラインはCDC 7600からである。
当時、BNL (Brookhaven National Laboratory, USA) にいた先輩の実験物理学者(故人)によると、CDC 6600がBNLに設置されたときまだまともなコンパイラが付属していなかったそうである。ところが研究所では自作のFortranコンパイラが曲がりなりにも動いており、「DO文の端末はCONTINUEに限る、しかも多重ループの場合には共有してはならない」などの制限があったがとにかく使用可能であった。CDC社は早速これをもらい受け、対価としてもう1台CDC 6600を置いていったとか。なんでも使いこなすのが物理屋です。
1964年の話の続きは次回に。
1件のコメントがあります
懐かしいお話をありがとうございます。私は先生のお話にあるOKITAC5090の保守員としてセンターに常駐しておりました。
当時はOKITAC5090が二台ありその二台が同時に障害を発生寝ないで修理した事など懐かしく思い出されます。清水先生も宇宙飛行士のグレン氏の訪問を受けたりテレビに出演されたりと多忙でした。二年くらいで東京天文台に移動、数年で退職札幌に帰りましたが70年安保の時学生があそこに閉じこもる事件が起こりました。テレビ中継を見ていて私の青春を掛けたOKITACの惨状を思い涙が出ました。