世界のスーパーコンピュータとそれを動かす人々


5月 31, 2021

新HPCの歩み(第45回)-1970年(b)-

HPCwire Japan

IBM社はソフトウェアのアンバンドリングを実施した。Digital Equipment社はベストセラーPDP-11を発売した。Intel社は世界最初のDRAM 1103(1024ビット)を発売した。今はなきFPS (Floating Point Systems)社も創立された。

性能評価

1) Livermoreループ
Roy LongbottomのPC Benchmark Collectionによれば、1970年に14 kernelsからなるLivermoreループが公開された。これは、UCRLL (University of California Radiation Laboratory at Livermore、1971年からLLL、1981年から LLNL)で使われていた主に核融合における大規模計算の中核FORTRANコードから主要なループを14個選定したものである。当時はベクトル計算機登場以前なので、プラットフォームとしては、メインフレームやCDC 6600/7600などであろう。1980年代になって10ループ追加され、24 kernelsとなった。正式なレポートになったのは、1986年12月の、F. H. McMahon “Livermore fortran kernels: A computer test of numerical performance range”(Technical Report UCRL-53745)である。1988年にはC言語版もできた。

アメリカ政府の動き

1) America Computer Show ‘70
日本政府の保護政策に穴をあけるためであろうか、アメリカ合衆国商務省は、1970年10月12日~17日に、東京晴海の貿易センターにおいて、コンピュータの端末機器などの展示会を開催した。あわせて、10月13日~16日には、ACM主催で、7セッションにわたる技術セミナーが開催された(bit誌1970年12月号)。1972年にも同様な展示会が開催される。

だいぶ後のことになるが、同じく商務省は、1987年6月28日、スーパーコンピュータメーカ等13社からなる貿易使節団を日本に送り、圧力をかけて来た。6月30日には、都内において、スーパーコンピュータセミナーを開催した。筆者も参加したのではっきり覚えている。

ヨーロッパの政府関係の動き

1) イギリス(ICL)
1970年の総選挙で保守党が大勝しEdward Heathが首相となった。保守党政権は、労働党の政策を次々と改め、企業の自主努力に基づく自由経済政策を取った。技術省を廃止して、貿易省を合わせた貿易産業省を新設し、IRCを解散し、産業拡大法も廃止した。しかし、1971年8月、Heath内閣はICL社を援助することを決定し、ヨーロッパのコンピュータ産業の中核を目指した。

世界の学界の動き

1) GAUSSIAN
イギリスの理論化学者Sir John Anthony Popleは、分子軌道法の理論を開発したが、1970年、計算科学ソフトウェアGAUSSIANを開発した。この名前は、スレーター軌道の代わりに導入したGauss関数の軌道に由来する。初版はGAUSSIAN70と呼ばれたが、数年に一度改訂されている。GAUSSIAN94から(要確認)並列処理をサポートしているが、並列処理をLindaで記述しているので、共有メモリ並列計算機の利用が主である。Popleは、1998年に「量子化学における計算化学的方法の開発」でノーベル化学賞を受賞した。密度汎関数法のWalter Kohnが同時に受賞。計算科学関連でノーベル賞を受賞した数少ない例である。

2) Relational Data Model
IBMに勤務する英国人のコンピュータ科学者Edgar F. Coddは、1970年、データベースに関しrelational modelを提唱した。Coddはこの功績で1981年Turing賞を受賞する。

3) 『偶然と必然』
フランスの分子生物学者Jacques Lucien Monodは、1965年François JacobとAndré Michel Lwoffとともにノーベル生理学医学賞を受賞したが、1970年に『偶然と必然(Le Hasard et la Nécessité)』を出版し、思想界に大きな論争を巻き起こした。

国際会議

1) ISSCC 1970
第17回目となるISSCC 1970 (1970 IEEE International Solid-State Circuits Conference)は、1970年2月18日~20日にペンシルバニア州Philadelphiaで開催された。主催はIEEE Solid-State Circuits Council、IEEE Philadelphia Sections、University of Pennsylvaniaである。組織委員長はRudi Engelbrecht (Bell Labs)、プログラム委員長はThomas E. Bray (General Electric)である。電子版の会議録はIEEE Xploreに置かれている。

2) ARCS 1970
ARCS(International Conference on Architecture of Computing Systems)の第1回(要確認)が、1970年12月31日、西ドイツのErlangenで開催された。会議録はSpringer社のLNCS13として出版されているが、書名が、Rechnerstrukturen und Betriebsprogrammierungとドイツ語であり、中身もドイツ語のようである。

アメリカの企業の動き

1) IBM社(System/370)
IBM社はソフトウェアのアンバンドリングを1969年1月発表した。。ソフトの販売をハードから切り離し、17種類のプログラムを有償化した。それまでIBMの収益の大部分はハードによるもので、ソフトはハードの付属品として一体で販売されていた。これは独占禁止法違反という批判もあった。アメリカとカナダでは1971年に実施し、日本IBMが全製品に完全実施したのは1972年7月であった。

他方、360の成功で勢いづいたIBM社は、これに続くSystem/370(model 155、165、195)を1970年6月30日に発表した。この3モデルには仮想記憶はない。Model 155は1971年1月に出荷された。Model 195は1971年8月に出荷された。最初の2モデルではコアメモリが用いられた。これは半導体メモリ開発が遅れたためで、Watson, Jr.は残念がったとのことである。360の時代に蓄積された応用ソフトウェアが膨大になっていたので、System/360との互換性を重視した。ハード的には、LSIを論理素子として、195以降ではICメモリ(bipolerまたはMOSのSRAM)を採用した。

続いて、1970年9月23日に中型機model 145を発表した。これは半導体メモリを搭載した最初のIBM機であった。次に述べるmodel 155や165とは異なり、145はマイクロコードの変更だけで仮想記憶を実装することができ、VM/CMSによりTSSを使用することができた。最初のmodel 145は、1971年6月、Cambridge Scientific Centerにこっそり納入された。

システム的には、2プロセッサ構成や、System/360 model 85や195ですでに導入している4倍長(拡張精度)浮動小数演算などの新しい機能をそなえた。ただ、互換性のため24ビットアドレスは保持された。System/370-XAからは31ビット。

日本では、model 155の1号機が三井東圧に、2号機が東洋工業に納入された。

System/370シリーズでよく売れたのは、実はSystem/370-compatibleと呼ばれた大型機IBM 303Xや中型機IBM 43XXなどである。IBM 308Xの一部もSystem/370である(残りはXA)。

System/370と同時に8インチフロッピーディスクが登場した。IBMは1970年、System/370のIPLローダとして、8インチのIBM23 (23FD-2)フロッピーディスクを開発した。容量は80KBであった。

370の衝撃は大きかった。直接の影響かどうかは分からないが、直前の1970年5月にはGE社はメインフレーム事業から撤退し、コンピュータ部門をHoneywell社に売却した。後述のようにRCAもコンピュータ事業から撤退することになる。また370は、1956年のIBM社と司法省との和解によりビジネスを始めた多くのコンピュータのリース会社にも大きな打撃を与えた。リース会社は営業資産の償却期間を10年~12年に想定していたのに、360の6年後に370が発表され、ほとんど償却が進んでいない資産が、一夜にして陳腐化したからである。前述のように、Itel社だけは投資者とユーザ間のリースを斡旋する方式により乗り切った。(『日本のコンピュータ発達史』(1998)の高橋茂の記事による)。

1970年秋、Watson, Jr.は突然の心臓発作に襲われ入院した。その後健康を回復したが、体力的な限界を感じ、1971年6月CEOを辞すことになる。

2) IBM社(ACS解散)
1969年5月にAmdahlらによるACS/360の提案は公式にキャンセルされた。1970年に入ってAmdahlも椎間板ヘルニアから回復して動けるようになり、1970年8月3日、Menlo Parkで最後のミーティングを開いた。この後、ACS研究所は解散し、Amdahlは9月、1955年に続きIBMを再び退社した。その後は、「企業の創業 2) Amdahl社」を参照。

3) RCA社
IBM社がSystem/370を発表すると、RCA社のコンピュータ事業部支配人のDoneganはRCA社での新機種の開発を待ちきれず、System/360の互換機Spectra 70の外装を変え、価格を下げて新シリーズとし、1970年9月にRCA 2, 3, 6, 7の4モデルを発表した。1週間後、IBM社はDoneganの予想を裏切る低価格と高性能で、System/370 model 145を発表した。これに対し、RCA社の新シリーズは全く競争にならなかった。Doneganが雇い入れたセールスマンの大群は、販売目標の達成を迫られ、Spectra 70、しかもRCA社のドル箱であった70/45をRCA 2で置き換えることに奔走した。10月8日付のNew York Timesの記事によれば、Doneganは$80Mを超える購入またはレンタルの注文を得たと豪語している。しかし事業部からは疑問の声が上がり、$30Mの判定エラーが指摘された。翌1971年3月、IBM社がmodel 135を発表すると事態はますます悪化し、1971年9月にコンピュータ事業から撤退することになる。

4) Digital Equipment社(PDP-11)

 
 

DEC PDP-11/45

出典:Computer History Museum

   

1970年1月、Digital Equipment社は、ベストセラーの16ビットミニコンピュータPDP-11を発表し、同年前半に出荷した。日本ではその後、三井造船システム社が、船舶搭載用にPDP-11/34互換のミニコンMAP16を製造した。このMAP16に対し、指数部二進8ビット、仮数部24ビットの単精度浮動小数の乗除算がそれぞれ5μsで実行できるハードウェアも開発した。MAP16は船の上でも使えるために頑丈に設計され、かつ安価だったのでよく使われた。例えば、自動船位保持装置(『船舶』p.11)とか。東京大学情報科学科では、教育用に使ったとのことである。北海道大学汎用シミュレータ施設では、MAP16を32台連結した並列計算機HOSSを1980年3月に完成させる。

また2月には5世代目(最後)の18ビットミニコンピュータPDP-15を出荷した。発表は1969年4月。

5) Intel社
Intel社は、1970年世界最初のDRAM 1103(1024ビット)を発売した。

ヨーロッパの企業

1) CII (Iris 80)
フランスのCII (Compagnie internationale pour l’informatique)は、1968年10月、IC採用の中型コンピュータIris 50を発表したのに続き、1970年9月29日、Iris 80を発表した。出荷は1972年(要確認)。これは、当時ヨーロッパ最大のコンピュータであった。

企業の創業

1) Floating Point Systems社
Floating Point Systems 社は、1970年、元Tektronix社員のNorm Winningstadによってオレゴン州Portland郊外のBeavertonに設立された。最初、ミニコンピュータのためのVLIWの高速演算器(アレイプロセッサ)AP-120Bを1976年に売り出し、1981年にはFPS-164、続いて1985年にFPS-264を発売した。その後、並列処理に乗り出して失敗し、1991年Cray Research社に買収された。ソフトウェア部門はPGI (Portland Group Inc.) に移った。これについては後ほど。

AP-120Bの前には、FP-01、FP-02などの今でいう浮動小数コプロセッサを作っていたようである。1972年3月付の古文書によると、FP-01は仮数部24ビット(符号込み)、指数部8ビット(負の指数は2の補数)で、四則演算や、固定小数との変換などを行う。FP-02は、仮数32ビット、指数8ビット、FP-03は仮数40ビット、指数8ビットである。そのほか、多数の拡張システムもある。三角関数を計算するオプションもあったとのことである。汎用計算機とはI/OバスまたはDMAチャンネルで接続する。後に示すように、上智大学の電子計算機室は、IBM 1130にFP-02を接続したとのことである。

2) Amdahl社
IBM社のACSで新システム開発していたGene Amdahlは、自分のアイデアが否定されると、1970年9月にIBMを退社した。かれは、1970年10月、シリコンバレーの一角SunnyvaleでAmdahl Corporationを創業した。IBMの互換周辺機器ではなく、IBM互換のコンピュータ本体の製造を目指した。

互換機を製造するには資金が必要である。しかし1970年中は12月にHeizerから$2M得ただけであった。1971年には、富士通が、Amdahlの保有する特許の利用を条件に、$5Mの投資をおこない、また1972年には西ドイツのNixdorfが$6M出資した。他の投資を合わせて$20Mほど資金を集めることができた。1973年に株式公開をしようとしたが、引き受け会社が見つからなかった。

AmdahlとともにIBMのACS (Advanced Computer Systems)で働いていた何人かのエンジニアもAmdahl社に移った。そのなかには、Out-of-Orderで有名なR. TomasuloやF. Buelowなどもいた。1971年1月には、MASCORの18人がAmdahlに合流した。

仮想記憶方式のIBM370/168対抗の470V/6を共同で開発し1975年6月に出荷する。その内部アーキテクチャは、かつてIBMのACSで作ろうとして本社から拒否されたAEC/360の技術を継いでいたそうである。この技術はFACOM M-190に生かされた。Amdahl自身は1980年にこの会社を去った。1997年7月に富士通の完全子会社となり、独立した企業としては消滅した。1980年、Gene Amdahlは息子のCarl AmdahlとともにTrilogy Systems 社を創設し、WSI (Wafer Scale Integration)を開発しようとしたが難航し、1985年、残った資金でElxsi社(現、Tata Elxsi社)を買収した。Gene Amdahlは1989年にその合併会社を退職した。2015年11月10日、92歳で亡くなった。

3) Xerox社(Palo Alto研究所)
複写機大手のXerox社は、1970年7月1日、Stanford大学に近いPalo Altoに研究所を開設した。通称PARC (Palo Alto Research Center)。Wikipediaによると、Xerox社の主任科学者Jack Goldmanが、Washington大学(St. Louis, Mo)学長George Pake(物理学)にXerox社の2つ目の研究センターの設立への援助を依頼したところ、PakeはPalo Altoを選んだとのことである。

PARCでは、Smalltalk(1972)、マウス(1973のXerox Altoで本格使用)、Ethernet(1973年特許登録)、レーザープリンタ(1973年、Xerox 1200発売)などが発明され、GUIやUbiquitous Computingの研究なども行われた。

2002年4月1日独立し、Palo Alto Research Center Incorporatedと称する。Xerox社の完全子会社である。

4) IMSL社
1970年にテキサス州HoustonでCharls JohnsonやEd Battisteらによって創業。数学ライブラリを販売。同年、Fortran用のIMSL (International Mathematics and Statistics Library)がリリースされた。その後Visual Numerics社に社名変更(要確認)。Visual Numerics社は2009年4月Rogue Wave Software社によって買収された。

5) NAG社
イギリスでは、Brian Fordらにより、1970年、NAG (Nottingham Algorithms Group)が組織された。これは、Birmingha, Leeds, Manchester, Nottingham, Oxfortの6大学と、Atlas Computer Laboratory(現在はRutherford Appleton Laboratoryの一部)の共同ベンチャーであった。当初の目的は、イギリスのコンピュータであるICL 1906Aおよび1906Sのための数学ライブラリや統計ライブラリを開発することであった。NAG Libraryの最初の版(Mark 1 Library)は1971年10月1日に公開された。その後、他の機種のユーザが興味をもつようになり、より広いコンピュータに対応する版の開発が始まった。

1973年、プロジェクトはNottinghamからOxford大学に移され、NAG (Numerical Algorithms Group)と改名された。1976年、非営利会社としてNAG Ltdが創立された。

6) 株式会社ソード
1970年、株式会社ソード(SORD)として創業した。創業者は椎名堯慶。社名はSoftとHardの合成語である。一般ユーザにも使えるコンピュータの開発、製造、販売を目指した。多くのパソコンを世に出した。1980年に事務処理用簡易言語“PIPS”を開発したが、これがソード製パソコンでしか動作しなかったので、売り上げを伸ばした。1985年東芝に売却され、1999年、東芝の完全子会社「東芝パソコンシステム」となった。2016年、東芝プラットフォームソリューション株式会社に社名変更。東芝の子会社となった後、1987年、創業者の椎名堯慶が退社し、同年6月1日、プロサイド株式会社を設立する。

企業の終焉

1) General Electric社(商用コンピュータ部門)
1970年5月20日、General Electric社は、メインフレーム事業から撤退し、Honeywell社に商用コンピュータ部門を$100Mと150万株とで売却した。同社は1964年にフランスのMachine Bull社とイタリアのOlivettiの計算機部門を買収した。Olivettiは順調だったが、Bull-GEは1966年末までに$75Mの損失を出した。急速に海外に手を伸ばしすぎたことと、開発の遅れを取り戻すために担当部門で立てた計画が大きすぎて、会社幹部から拒否されたことが原因と言われている。

8月、フランス政府はHoneywell社のBull-GE社の買収を認可した。これに伴い、Honeywell社の会社組織が大変され、9月18日、HIS (Honeywell information Systems)とHoneywell Control systemsとに分かれた。GE-600シリーズはHoneywell 600シリーズとなった。HISは1986年Honeywell Bullとなるが、Honeywell Bullはその後Bullに戻る。

他方日本では、GEは東京芝浦電気と、Honeywellは日本電気と技術提携関係にあったが、この買収により競合する両社がともにHISと提携関係に入った。

さて次回1971年には、田中角栄通産大臣はコンピュータの自由化を決断する。またこの年、@マークを用いてユーザ名とマシン名とを分離した電子メールが始まった。

 

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