新HPCの歩み(第46回)-1971年-
通商産業大臣になったばかりの田中角栄はコンピュータの自由化計画を発表した。Intel社は世界初の1チップマイクロプロセッサIntel 4004を発売した。またこの年、CDC初のベクトルコンピュータSTAR-100が発表された。ARPANET上で電子メールが始まった。 |
社会の動き
1971年(昭和46年)は、また日本で航空機事故が続いた。社会の動きとして、1/1ウィスキーの貿易自由化(日本)、1/1アメリカでUniform Monday Holiday Act(月曜休日統一法)施行、1/15アスワンダムの公式開通、1/24三島由紀夫の本葬、1/24大鵬、32回目の優勝(5/14引退表明)、2/5アポロ14号が月に着陸、2/13イギリス、1ポンド=100ペンスに切り替え、3/5大阪刑務所内で印刷されている2大学の入試問題が盗み出され、医学部受験生らに売られていた事実が内輪もめの殺人から発覚(3/25発覚した不正入学者は退学)、3/26多摩ニュータウン入居開始、3/29青島幸男、国会で「男メカケ」発言、4/5イタリアのエトナ火山噴火、4/7米中ピンポン外交、4/20山手線西日暮里駅開業、5/25集英社が月刊誌「non-no」を創刊、5/30 NASAが火星探査機Mariner 9を打ち上げた、6/5西新宿に京王プラザホテル開業、6/5ネズミ講組織「第一相互経済研究所」に強制捜査、6/13-15漏洩したペンタゴン文書(トンキン湾事件秘密報告書)がNew York Timesに連載、6/17沖縄返還協定調印、6/30ソ連の宇宙船ソユーズ11号が帰還したが、3人の宇宙飛行士全員が窒息死、7/1アメリカ連邦最高裁、ペンタゴン文書掲載差し止め要求を6:3で却下、7/1環境庁発足(日本)、7/1日本医師会保険医総辞退突入(7/28まで)、7/3東亜国内航空のばんだい号が函館空港近くで山に衝突、7/9キッシンジャー補佐官が中国を極秘訪問、7/12山下清死去、7/15ニクソン中国訪問受諾を発表(第1次ニクソンショック)、7/30雫石上空で全日空機と自衛隊機が空中衝突、8/1プリンスホテル設立、8/15ニクソン大統領がドル防衛措置(第2次ニクソンショック)、8/23韓国で実尾島(シルミド)事件、8/28円が変動相場制に移行、9/13林彪の乗った飛行機が墜落し死亡、9/18日清食品がカップヌードル発売、9/27~10/14昭和天皇・香淳皇后、ヨーロッパ7か国歴訪、10/1第一銀行と日本勧業銀行が合併、第一勧業銀行発足、10/1フロリダ州Orlandoにディズニー・ワールド開園、10/18日石本館地下郵便局爆破事件、11/10ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世がガリレオ裁判に関する調査委員会を発足させる、11/11川崎ローム斜面崩壊実験事故、11/14渋谷暴動事件、11/19松本楼炎上、11/27ソ連の火星探査機マルス2号が火星に衝突、12/2アラブ首長国連邦建国、12/2ソ連のマルス3号が火星着陸、12/7沖縄密約疑惑、12/10大阪地方裁判所、結婚退職制度は公序良俗違反と判決、 12/18警視庁警務部長宅に小包爆弾、12/16バングラデシュ独立戦争でパキスタン降伏、翌年分離独立、12/24新宿にクリスマス・ツリー爆弾、12/25ソウルの大然閣ホテル(21階)火災、など。1971年夏、Klaus Schwabは西欧の企業人444人を招いてDavosで会議を開いた。以後、Davos会議は1月末に開かれている。
1971年の話題語・流行語としては、「アンノン族」「脱サラ」「ホットパンツ」「日本人とユダヤ人」「冠婚葬祭入門」「ニクソンショック」など。
チューリング賞は、人工知能の研究に対してJohn McCarthy(Stanford大学)に授与された。かれはLISP言語を開発し、タイムシェアリングを普及させ、ガーベッジ・コレクションを発明した。その後、京都賞「先端技術部門」(1988)、アメリカ国家科学賞(1990)、Benjamin Franklinメダル(2003)を受賞したが、2011年10月24日に亡くなられた。
ノーベル物理学賞は、ホログラフィの発明および発展に対しDennis Gaborに授与された。化学賞は、遊離基の電子構造と幾何学的構造の研究に対しGerhard Herzbergに授与された。生理学・医学賞は、ホルモンの作用機作に関する発見に対し、Earl Wilbur Sutherland Jr.に授与された。
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筆者は、1971年3月に博士課程を修了し理学博士の学位を取得した。写真は修了を前に、研究室での忘年パーティーでシェーカーを振る筆者(1970年12月)。格好つけているだけです。
筆者ともう一人の同級生は、運よく出身研究室の助手となった。「厳密ではないが任期は3年」と言い渡された。筆者は約2年半で高エネルギー物理学研究所に転職した。大学院時代から非線形最小二乗法のプログラムを開発し、素粒子物理の研究に活用していたが、このころから、東大大型計算機センターのライブラリ開発に応募し、「Powellの微分不要な非線形最小二乗法」の公開用プログラムを開発した。筆者はPOWELLと命名したが、公開版の名前はPOW1であった。なぜ「1」がついたかというと、Powellの非線形最適化のプログラムを山本善之らが同時に開発していたからである。こちらはPOW2と名付けられた。当時5020Eは非常に混んでおり、30秒の最短ジョブでもターンアラウンドが1週間を越えたが、ライブラリ開発者らは比較的空いているサブシステム5020を使うことができ、一晩で結果を受け取ることができた。
日本政府関係の動き
1) 特定電子工業及び特定機械工業振興臨時措置法
1957年6月11日に制定した電子工業振興臨時措置法(電振法)は、1971年3月までの時限立法であった。このため、 1971年3月31日に、特定電子工業及び特定機械工業振興臨時措置法(法律第十七号)(機電法)が成立し、独占禁止法の例外として、IBMに対抗しうる機種の開発・試作、周辺および付帯装置の試作、関連する基礎研究、応用システムの開発のため政府が乗り出すことになった。「外資系企業が、大規模な自供を開始または拡大しようとする場合に、政府が既存業界との協調、計画の変更をすべきことを勧告できる」という直接介入的な規定も盛られていた。これも1977年末までの時限立法。
2) アメリカからの圧力
米国国際貿易投資政策委員会(通称ウイリアムズ委員会)は、1971年7月に大統領への報告書”相互依存世界における米国国際経済政策”を出し、その中で「日本の輸入自由化によって十分に相互利益を得るため、対日輸出を直接的にまた間接的に規制する行政指導のようなすべての政府行為を撤廃するよう日本に促すことを、当委員会は勧告する」「アメリカは、日本に対して、外国直接投資の全面的な参入の自由に向かう動きをより早めるよう圧力をかけ続けることを、当委員会は勧告する」などと述べた。これがコンピュータの自由化や、日米繊維交渉などに大きな影響を与えた。
3) コンピュータ自由化
1971年7月13日、7月5日に第3次佐藤改造内閣の通商産業大臣となったばかりの田中角栄は、電子計算機6社首脳と会談し、大幅な助成措置を条件に自由化を促進するとの方針を表明した。7月22日、コンピュータおよびICの自由化日程を決定した。コンピュータの製造、販売、賃貸業に関して、1974年8月4日より50%の自由化、また記憶装置、端末機を除く周辺装置は1972年2月1日、技術導入については、1974年7月1日から自由化と決定。1973年4月には、1874年12月1日より50%が100%の自由化に改められることが決定される。ただ、日米間貿易は、全体としては日本の輸出超過であるが、大型コンピュータについては、アメリカ製のシェアが50%を超えていた。それでもアメリカは強硬であった。
4) 通信自由化
1971年5月19日成立の公衆電気通信法の改正により、専用データサービス(特定企業体等の需要に応じる)、専用データ通信サービス(特定企業体等の需要に応じる)、加入データ通信サービス(不特定多数の需要に応じる)のデータ通信サービスが、電電公社の法定業務として制度化された。ただし通信は1対1に限られ、ホストコンピュータを介した他者とのやりとり(メッセージ交換)は禁止されていた。
5) 日本電信電話公社(DEMOS、DIPS)
電電公社(現・NTT)は、1971年3月29日、都内の建築設計事務所など36社を対象に科学技術計算サービスDEMOSを開始した。6月には大阪センターのサービスを開始した。日本で初の本格的な商用のTSSであった。コンピュータの性能向上と価格低下により、ワークステーションやパソコンが普及し、1995年12月に廃止される。
電電公社電気通信研究所主管のもと、日本電気、日立、富士通の3社とで共同開発していたDIPS計画は、1971年10月までに、各社はそれぞれ1台ずつDIPS-1試作機を完成した。DIPS-1はIBM System/360の影響を受けたアーキテクチャであるが、4台のマルチプロセッサ構成で、ローカルメモリ(キャッシュのことらしい)にNMOS-ICを採用し、メモリには磁気コア、ページング方式の仮想記憶などを実現した。最大主記憶要領16 MBである。ソフトは3社が分担して共同開発した。DIPS-1の構成部品が情報処理学会情報処理技術遺産に認定されている。
1972年3月には東京芝局に商用試験機が導入され、以降、科学技術計算サービス(DEMOS-E)やバンキングシステムなどの商用システムに導入された。マルチプロセッサ構成は意欲的であったが、肝心のキャッシュコヒーレンシがハードによって保証されておらず、FORGET命令で明示的にコヒーレンシを保つ必要があった。3社は、その後も自社製品とDIPSの2本立てで開発したようである。1992年に開発終了。
6) 高エネルギー物理学研究所(KEK)
さまざまな議論の結果、高エネルギー物理学研究所が田無の東京大学原子核研究所を仮の本部として設置された。特定の大学に附置されない基礎科学のための国立の共同利用・共同研究のセンターとしては初めてであった。そのため、制度設計には苦労した。今年(2021年)は創立50周年である。1972年に筑波研究学園都市の新キャンパスに移転する。
7) 情報処理技術者試験
情報処理技術者認定試験から数えて3回目となる、昭和46年度情報処理技術者試験は、11月28日、全国8都市で実施された。区分は、特種が追加され、従前の第1種、第2種を合わせ3区分である。
8) パターン情報処理システム
通産省工業技術院は1970年8月20日にパターン情報処理システム(PIPS)プロジェクトを発表した。6社とともに、大型プロジェクトとして、1971年度から1978年度まで実施する。予算は220億円。文字、図形、物体、音声などのパターン情報を認識する総合システムを開発するプロジェクトである。以下のように分担する。
全般 |
電総研 |
文字 |
東芝(印刷文字)、富士通(手書き文字) |
図形 |
東芝(濃淡)、三菱(色彩) |
物体 |
日立 |
音声 |
日本電気 |
日本の大学センター
1) 北海道大学(FACOM 230-25)
北海道大学大型計算機センターの副システムとして、1971年8月、FACOM230-25が設置された。
2) 東北大学(NEAC-2200 model 700/500)
東北大学大型計算機センターは、1969年から共同利用していたNEAC-2200 model 500を、1971年4月にNEAC-2200 model 700/500にシステム変更した。
3) 名古屋大学(大型計算機センター設置、FACOM 230-60, NUMPAC)
1971年4月に7件目の大型計算機センターとして設置され、FACOM 230-60が稼働した。CPUは2個、メモリは160KW(1語は、データ36 bits、フラグ4 bits、パリティ2 bits)であった。それまでは、綜合計算機室にNEAC-2203(十進法計算機)が設置されていた。
同センター研究開発部では、名古屋大学工学部情報工学科数値解析グループ(二宮市三教授)と協力して、数学ライブラリNUMPACの開発を始めた(二宮市三・秦野甯世「数学ライブラリNUMPAC」情報処理Vol.26、No.9(1985)p.1033-1042)。
4) 東京工業大学(HITAC 8700)
1971年、東京工業大学情報処理センターが設置され、1972年10月からHITAC 8700(1号機)が稼働した。
5) 小樽商大
1973年3月、OKITAC 4500Cを設置し、8月稼働。
6) 三重大学
1971年12月三重大学に計算機センター発足、翌年FACOM 270/20稼働。
7) 島根大学(FACOM 270-20)
1971年2月島根大学に電子計算センター設置し、FACOM 270-20を導入。
8) 大分大学
1971年4月、大分大学において九大大型計算機センターの端局として、連絡所開設。
9) 青山学院大学(IBM S/360-40)
1971年2月、青山キャンパスにIBM System/360‐40を導入した。電子計算センター廻沢分室を理工学部計算室に改組。
10) 東北学院大学
1971年2月以降東北学院大学の各キャンパスにコンピュータを導入。
11) 岡山理科大学(HITAC 8400)
1971年1月、岡山理科大学に情報処理センター開所、HITAC 8400導入。
12) 東京大学原子核研究所(TOSBAC-3400/41)
1971年2月より、同研究所にレンタル予算470万円/月が付き、TOSBAC-3400/41を導入した。9月からは電子シンクロトロンを用いたオンライン実験が、11月からはサイクロトロンを用いたオンライン実験が開始された。
13) 統計数理研究所(HITAC 8500)
統計数理研究所では、1963年3月に導入したTSK IIIハイブリッド計算機(HIPAC 103+ALS-1000)を使用してきたが、これに加えて1971年2月、新しい電子計算機(HITAC 8500改良型)が稼働を開始した。これは2台のCPUから構成され、Iはメモリ524 KBでIIはメモリ64 KBである。パラメトロン計算機をまだ使っているところが注目される。
このシステムには、熱雑音を利用した物理乱数発生器の第2代(日立製作所製)が付属している。この乱数発生器はM280Hまで利用された。
日本の学界の動き
1) 数理解析研究所
京都大学数理解析研究所は、1971年11月4日~6日に前年と同じく高橋秀俊を代表者として「数値計算のアルゴリズムの研究」という研究集会が開かれた。3回目である。報告は講究録No.149に収録されている。この回は比較的数理的なテーマの講演が多い。
2) 数値解析研究会
宿泊形式の数値解析研究会が始まるのは1972年からであるが、1971年5月の土曜日の午後、 高澤嘉光(山梨大)と平野菅保(東芝)を世話役として、東京大学工学部計数工学科の会議室に、20名ほどが集まって研究発表が行われた。終了後、会の継承、運営方法を議論し、名称を「数値解析研究会」とすることとした。研究分野の縦割りではなく、数値計算とコンピュータに広く関連する横断型の研究会とすることを申し合わせた。学会の年会のような形式的な発表会ではなく、夜を徹して気楽に討論できるような合宿形式で行うことなどの方針が決まった。このあたりの事情は、『応用数理』1991年第4号の平野菅保の記事に詳しい。なお、平野は1971年の会を第1回としているが、実際には準備会で、通常は宿泊形式で行われた1972年10月の日光での会を第1回としている。平野の表には1973年11月に開催された(同年2回目の)研究会が抜けており、第4回以降は変わらない。1984年からは「数値解析シンポジウム」と改称。
日本の企業の動き
前年に引き続き、日本の各社はメインフレームの開発を続けた。
1) 日立(HITAC 8800、HITAC 8350, 8450)
日立は、1970年HITAC 8700を発表したが、1971年3月、その上位機HITAC 8800を発表した。8700とソフトウェア的に完全に互換性があり、主記憶装置、入出力装置を両者で共有することもできる。東京大学大型計算機センターでは、当初から各2台の連成システムで運用された。
また、System/370対抗として、価格性能比を大幅に改善した中型汎用機、HITAC 8350、8450を発表した。
2) 日本電気(NEAC-2200)
1971年4月、NEACシリーズ2200のオンラインファミリとして、モデル75、175、275が発売された。10月にはその上位機種のモデル375、575が発売された。これはSystem/370への対抗機種である。メインメモリに高速のコアメモリを使用している。
また、2200/500、700向けに独自に開発したOS/MOD IVの改良を進めてOS/MOD VIIを開発し、これを1971年、東北大学のNEAC-2200/700, 500システムで稼働させた。
3) 日本IBM社(野洲工場)
日本IBMは、1970年から滋賀県野洲(やす)市に工場を建設していたが、1971年に竣工し、藤沢工場からメインフレーム生産を移管した。1981年には、世界で唯一の、半導体からメインフレームまでのコンピュータ一貫生産体制を確立する。日本IBM社は輸出企業となる。しかし、メインフレームの地位低下により、2005年8月に京セラに売却され、2007年7月に日本IBM野洲事業所は閉鎖される。
標準化
1) 電子メール
1971年は(マシンをまたぐ)電子メールが始まった年である。Ray TomlinsonというBBN社の研究者がARPANET上の電子メールシステムを開発し、はじめて@マークを用いてユーザ名とマシン名を分離したとのことである。翌年にはUnix mailとして定式化された。Tomlinson氏は2012年にインターネットの殿堂入りを果たしたが、2016年3月5日に74歳で死去した。
2) Telnet
端末間およびプロセス間の双方向通信プロトコルであるTelnetは、1969年ごろから開発されていたが、初期のimplementationが、1971年8月9日、RFC 206で報告されている。この頃はTCP/IP以前なので、NCP (Network Control Program)上で実装された。
3) FTP
ファイル転送プロトコルFTP (File Transfer Protocol)の最初の仕様が、1971年4月16日のRFC 114に記されている。これもNCP上で実装された。
アメリカ政府の動き
1) Lawrence Livermore Laboratory
カリフォルニア大学バークレー校は、1952年9月2日、核兵器の研究開発を目的としてUniversity of California Radiation Laboratory at Livermoreを設立したが、1971年にはLawrence Livermore Laboratory(LLL)と改名された。1981年、Lawrence Livermore National Laboratory(LLNL)となる。
2) ALOHAnet
Hawaii大学のNorman Abramsonは、1968年に着任し、9月から協力者とともに同大学の各島に分散して設立されているキャンパス間を、無線を使って結ぶコンピュータネットワークの開発を始めた。目標は、低コストの商用無線機器を利用してオアフ島と他の島々を結び、オアフキャンパスにあるコンピュータの遠隔利用を可能にすることであった。これはALOHAnet (Additive Links Online Hawaii Area network)と呼ばれ、1971年6月に運用が開始された。端末はRS-232を用いて、9600 bpsで接続された。世界初の無線パケット交換ネットワークであった。オアフ島がホストで、他はクライアントとしてハブ型に接続した。上りと下りには400 MHz台の別の周波数の電波を用いた。1970年ごろには、24000 bpsの転送速度であった。1972年にはアメリカ本土のARPANETとも接続される。
Abramsonは1969年に来日し、6月5日にAVIRG(視聴覚情報研究会)の主催により機械振興会館で、ALOHAnet構想について講演会を行っている。また、1970年5月23日から28日には、エレクトロニクス協議会とAVIRGとの共催により、ALOHA視察団が訪米し、施設を視察するとともに関係者と意見交換を行っている。(bit誌1970年5月号)このように日本でも関心が高かった。
後に述べるように、東北大学では大泉充郎教授、佐藤利三郎教授を中心として静止衛星ATS-1 (Application Technology Satellite)の受信機を自作して、1974年からデータの受信を開始し、1976年2月には郵政省からATS-1への電波発射の免許を得て、接続実験に成功する。しかし通信が安定せず、実験段階に留まった。
3) 日本への圧力
日本政府関係の動きの「2) アメリカからの圧力」参照。
国際機関の動き
1) UNESCO(IBI)
1951年11月にパリで合意した「国際計数センター」は、1962年にやっと14か国の批准が集まり、正式の「国際計数センター」が発足した。しかしコンピュータの進歩は著しく、この頃には国際協力で設置する必要がなくなってしまっていた。1971年にIBI (Intergovernmental Bureau for Informatics) に転換したが、日本はIBIには参加しなかった。先進国で残ったのはフランス、イタリア、スペインの3国で他は開発途上国であった。
世界の学界の動き
1) NATS project(xxxxpack の元祖)
ANLのWayne Cowellは、Stanford大学とTexas大学Austin校との共同研究として、NSFにNATS (National Activity to Test Software) projectを認めさせ、統一した様式と名前付け規則のもとに数値計算サブルーチン集を作成する計画を始めた。当時、NSFが国立研究所のプロジェクトに資金提供するのは珍しかったようである。各サブルーチンは、知られている限りの最良のアルゴリズムに基づいてANLで(主としてFORTRANにより)実装され、米国内の複数のテスト・サイトに送られ、頑強性、信頼性、可搬性が検証された。このようなアイデアは、現在では常識的であるが、当時はまだ新鮮であった。NATS projectから、EISPACK、FUNPACK、Toolpackなどが開発された。その後、LINPACK、MINPACKなど多くのパッケージが同様なアイデアにより開発されることになる。この間の事情については、Cowell本人のインタビューに詳しい。Wayne Cowellは2021年2月24日に94歳で亡くなられた。なお、NATSという略号は他にも数え切れないほど使われている。
国際会議
1) ISSCC 1971
第18回目となるISSCC 1971 (1971 IEEE International Solid-State Circuits Conference)は、1971年2月17日~19日にペンシルバニア州Philadelphiaで開催された。主催はIEEE Solid-State Circuits Council、IEEE Philadelphia Sections、University of Pennsylvaniaである。組織委員長はJohn A.A. Raper (General Electric)、プログラム委員長はRoger R. Webster (Texas Instruments)である。電子版の会議録はIEEE Xploreに置かれている。
2) IFIP Congress 1971
第5回目となるIFIP Congress 1971は、1971年8月23日~28日にユーゴスラヴィアのLjubljana(現在はスロベニア)で開催された。会議録は1972年North-Holland社から、Information Processing 71, Proceedings of IFIP Congress 71のタイトルで2巻本として出版されている。1巻は基礎理論とシステム、2巻はアプリケーション。
アメリカの企業の動き
1) IBM社(Future Systems Project、System/360 model 195)
IBM社をコンピュータの巨人に育て上げたThomas John Watson, Jr.(初代社長Thomas John Watson, Sr.の長男)は、1971年6月、健康上の理由でCEOを引退した。
1971年5月ごろ、IBM社の当時の副社長John Opelを中心とする国際タスクフォースがArmonkに招集され、これまでのコンピュータすべてにとって代わり、IBM社の技術的優位性を確かなものとする新たなコンピュータ製品の可能性を検討した。このタスクフォースの提言を受けて、1971年9月にFuture Systems Projectが公式に開始された。詳細は非公開で、ディスクを含む単一レベル記憶、マイクロコードによる複雑な命令セット(究極のCISC)などにより革新的なコンピュータを開発するプロジェクトであったらしいが、1975年中止された。成果の一つはIBM System/38(1978年)である。このプロジェクトの詳細は、Telex社対IBM社の独占禁止法訴訟の過程で、証拠書類のなかから1973年明らかになった。
System/360ファミリーの最大型機model 195は1969年8月に発表されていたが、1971年3月出荷された。ちなみに、Sytem/370 model 195は1970年6月30日に発表されていた。ただしこれはSystem/360 model 195とは異なり仮想記憶のためのDATを持っていない。
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CDC STAR system 出典:Computer History Musuem |
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2) CDC社(STAR-100, Cyber 70)
HPCにとって忘れてはならないのは、1971年、CDC社(1957年創業)がベクトルコンピュータSTAR-100を発表したことである。GMが最初の顧客となると発表された。問題は、ETA 10などその後のCDC系のベクトルコンピュータと同様、大規模なベクトルレジスタがなく、メモリ直結のベクトル演算器であったことである。そのためCDC 7600の数倍の性能という謳い文句にもかかわらず初期の実効性能はむしろCDC 7600より低かったと言われている。最適化の工夫により流体力学でCDC 7600の4.5倍の性能を実現することができた。CDC社はSTAR-100を4台製作したが、2台はLLLに、1台はNASA Langleyに、4台目はCDC社のData Service Centerに収められた(『日経コンピュータ』1981年12月28日号のFernbachの記事による)。
同じ1971年3月、CDC社は6600の後継である汎用コンピュータCyber 70シリーズを発表した。
Seymour Crayはあくまで高速コンピュータを開発しようとしたが、財政難となったCDC社がSeymourの開発していた8600の中止を決定すると、1972年に退社することになる。
3) Sperry Rand社(UNIVAC 1110)
1970年11月、UNIVAC 1110を発表した。メモリは16-way構成で、最大6台のCAU (Command Arithmetic Unit、CPUからI/Oを除いたもの)と、4台のIOAU (Input Output Access Unit)で構成できる。最大構成のマシンはNASAに納入された。UNIVACでは初めてのパイプラインプロセッサである。
4) DEC社(DECsystem-10, OS/8)
PDP-6の後継であるPDP-10は1966年から製造されているが、1971年9月、DECsystem-10の名前で発売を始めた。タイムシェアリングシステムを一般に浸透させたマシンであり、多くの大学や研究機関で採用された。
1965年から発売されているPDP-8のために、1971年、OS/8というOSが開発された。OS/8のファイルシステムはフラットで、ファイル名は「6文字+拡張子(“.”+ 2文字)」という形式である。拡張子(.PA, .SV, .FT, .DAなど)はファイルの型を示す。拡張子を持つファイルシステムとしては1967年のTOPS-10の方が古いようである。
5) Intel社(Intel 4004)
Intel社は、1970年世界最初のDRAM 1103に続き、1971年3月には世界初の1チップマイクロプロセッサIntel 4004(2300トランジスタ、108 KHz)を完成させた。論理設計は当時ビジコン社にいた嶋正利。日本のビジコン株式会社は、このチップを用いてストアドプログラム方式の電卓ビジコン114-PFを開発し10月に発売した。同機は情報処理学会2011年度情報処理技術遺産に認定された。
またIntel社はビジコンとの契約切れを待って、販売権を買い戻し1971年11月に4004を一般に販売した。また、マイクロプロセッサ4004にプログラム用のROMとデータ用のRAMを組み合わせて、世界最初のマイクロコンピュータMCS-4を発表した。
6) Tymnet
民間のネットワークプロバイダの一つTymnet networkが稼働した。Tymshare社はTSSにより計算時間やソフトウェアパッケージを売るために1964年に創立されたが、1968年、Norm HardyとLaRoy Tymesは、リモートのミニコンピュータを用いて、メインフレームに接続するアイデアを発展させ、TymesはSDS 940上でアセンブリ言語により1971年11月Tymnet Supervisorプログラムを完成させた。ユーザは電話回線のダイアルアップにより近くのTymnetアクセスポイントに接続し、そこから他のネットワークに接続する。本社はカリフォルニア州のCupertinoである。1979年、TymnetはTymshareから独立した。1984年、McDonnell Douglas社に買収された。
ヨーロッパ企業の動き
1) ICL社(1900S)
ICL社は、1971年5月、System/370に対抗するため、ICL 1900Sシリーズを発表した。1901S、1902S、1903S、1904Sでは、磁心記憶でなく半導体メモリを用いた。最上位の1906Sでは、ニッケルメッキのワイヤメモリを用いた(当時の半導体メモリより速かったらしい)。
企業の終焉
1) RCA社(コンピュータ部門)
1970年のところで述べたように、RCAにスカウトされたコンピュータ事業部総支配人のDoneganは、無理なセールスを続けてきたが、1971年3月IBM社がSystem/370 model 135の発表で事態はますます悪化し、1971年9月17日、RCA社の取締役会は、RCAのコンピュータ部門を閉鎖することを決定した。コンピュータ分野以外の役員がこの決定を主導した。突然呼び出されたDoneganは寝耳に水だったそうである。3か月以内に身売り先を決定せよと言い渡された。損失は内輪に見て$250Mと言われた。閉鎖といっても、販売またはレンタルしたコンピュータの保守などのサービスを継続する義務があり、RCA社は11月にその義務を含めて$70.5MでSperry Rand社のUNIVAC部門に顧客ベースを売却した。手続きが完了したのは1972年1月のようである。1970年のGE社に続くメインフレームからの撤退であった。RCA社は史上稀有の$450Mという巨額の損金処理を余儀なくされた。1950年代にはIBM社のWatson Jr.も恐れさせた大企業RCAがついにコンピュータから撤退したのである。
UNIVAC部門から見れば、レンタル収入が入るだけでなく、顧客の情報も手に入り、またとない取引であった。
さて次回1972年は、日本では国産6社を3つの企業連合(富士通・日立、日本電気・東芝、三菱・沖)に構成し、技術研究組合を創立する。アメリカではILLIAC IVがやっと稼動し、Seymour CrayがCray Research社を設立する。
(アイキャッチ画像:CDC STAR System 出典:Computer History Museum )
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