世界のスーパーコンピュータとそれを動かす人々


6月 14, 2021

新HPCの歩み(第47回)-1972年(a)-

小柳 義夫 (高度情報科学技術研究機構)

IBMのSystem/360に対抗して通産省が力を入れた超高性能電子計算機プロジェクトで技術開発したHITAC 8800/8700が1972年8月に完成し、東工大や東大に納入された。現在も続いている「数値解析シンポジウム」の前身である「数値解析研究会」の第1回が開かれた。

社会の動き

1972年(昭和47年)の社会の動きとしては、1/1ワルトハイム、国連事務総長に就任、1/3日米繊維協定調印、1/5ニクソン大統領、スペースシャトル計画を発令、1/11東パキスタン、国名をバングラデシュに、1/24横井庄一グアム島で発見、1/30北アイルランド、血の日曜日事件、1/30パキスタン、イギリス連邦を脱退、2/3札幌オリンピック開幕(2/13まで)、2/19~28連合赤軍あさま山荘事件、2/20ホテルグランドパレス開業(2021年6月30日廃業)、2/21~28ニクソン中国訪問、3/1ローマクラブ『成長の限界』を発表、3/2惑星探査機パイオニア10号打ち上げ(1973年12月4日木星最接近、2003年1月22日最後の通信)、3/15山陽新幹線、岡山まで開業、3/21高松塚古墳で極彩色壁画発見、3/27沖縄密約極秘文書暴露、4/4毎日新聞の西山太吉記者逮捕、4/4アカデミー賞受賞のため、Charles Chaplinが20年ぶりに帰米、4/16川端康成、ガス自殺、5/9米軍、北ベトナム全部の港を機雷封鎖、5/13千日デパート火災、5/15沖縄返還、5/30日本赤軍岡本公三ら、テルアビブ空港で乱射、6/11田中角栄「日本列島改造論」発表、6/12コンコルド羽田空港に初飛来、6/17ウォーターゲート事件発覚、6/18中ピ連結成、6/27イギリス、ポンドの変動相場制移行、7/1最初のうるう秒追加、7/1エジプト、リビア、シリアでアラブ共和国連邦建国(1977年11月解体)、7/7田中角栄が首相に、7/15総武快速線、錦糸町・東京駅間開業、8/26ミュンヘンオリンピック開幕(9/11まで)、9/5パレスチナゲリラ、ミュンヘン五輪村を襲撃、9/11カリフォルニア州San Francisco近郊のBART運行開始(5年間は平日のみ運行)、9/29田中首相訪中、日中共同声明、10/2漫画「マジンガーZ」が週刊少年ジャンプで掲載開始、10/17韓国の朴正煕大統領十月維新、10/19ルバング島で小野田の部下小塚金七元一等兵がフィリピン国家警察軍に射殺される(小野田は1974年に救出)、10/28上野動物園にジャイアントパンダ「ランラン」「カンカン」が来園、11/6日航機(羽田発福岡行)ハイジャック、11/6北陸トンネル内列車火災、11/7アメリカ大統領選挙ニクソン再選、11/28日航機モスクワで墜落、12/4八丈島東方沖地震(M7.2)、12/7アポロ17号打ち上げ(最後の月調査)、12/10衆院総選挙、12/8アメリカ軍、北爆再開、12/25金日成、国家主席に、12/27朴正熙、第8代大統領に、など。

1972年の話題語・流行語としては、「恥ずかしながら帰って参りました」「お客様は神様です」「必殺仕掛人」「ナウ」「恍惚の人」「日本列島改造論」「ホットパンツ」「ミモレ丈」など。

チューリング賞は、ALGOL 開発への貢献、およびプログラミング言語全般の構造・表現・実装の理解への多大な貢献に対してEdsger Wybe Dijkstra(Texas大学、Austin校)に授与された。受賞記念講演で、FORTRAN、LISP、ALGOL60、PL/Iなどの言語に言及し、「FORTRANなどというものが存在したことをわれわれが忘れ去る日は、早ければ早いほどよいのです」「PL/Iを使うことは、7000個ものボタンやスイッチやハンドルのついた操縦席に座って飛行機を操縦するようなものだと思います。……もっともよいたとえとして浮かびますのは麻薬です」などと名文句を述べた。(bit誌1973年10月号)

ノーベル物理学賞は、超伝導理論のJohn Bardeen、Leon Neil Cooper、John Robert Schriefferの3名である。なおBardeenは1956年にトランジスタの理論でノーベル物理学を受賞しているので2回目。化学賞は、リボヌクレアーゼ分子のアミノ酸配列の決定に対しChristian Boehmer Anfinsenに、リボヌクレアーゼ分子の活性中心の構造に関する研究に対し、Stanford MooreとWilliam Howard Steinの2名に授与された。生理学・医学賞は、抗体の化学構造に関する発見に対し、Gerald EdelmanとRodney Robert Porterの2名に与えられた。

日本政府の動き

1) 3グループ化
1971年に制定された特定電子工業及び特定機械工業振興臨時措置法(機電法)に基づき、通産省はSystem/370(1970)に対応するため行政指導を行い、1972年3月に国産6社を3つの企業連合(富士通・日立、日本電気・東芝、三菱・沖)に構成し、技術研究組合を創立した。1971年当初、通産省は、国策会社1社を作るという案であったが、産業界もさすがにこれは受け入れなかった。しかし通産省の意向を全く無視することはできず、1971年10月21日に日立と富士通の提携が発表され、27日には日本電気と東芝の提携が発表された。1972年8月、三菱総合研究所と沖電気工業は、超高性能電子計算機技術研究組合を設立した。こうして3つの企業連合が編成された。

メーカに国際競争力を付けるための補助金制度を設け、1976年までに約570億円の補助金を受けて、富士通・日立はMシリーズ(IBM互換)、三菱・沖はCOSMOシリーズ(IBM非互換)、日本電気・東芝はACOSシリーズ(IBM非互換)をそれぞれ1974年に発表した。MシリーズのMはMITI(通産省)のMだそうである。

販売面でも、ファコム・ハイタック株式会社(1974年6月設立、1992年廃止)と日電東芝情報システム(1974年3月9日設立、2004年4月1日「NECトータルインテグレーションサービス」に社名変更)という合同の販売会社が設立された。詳しくは高橋茂氏の記事参照。ファコム・ハイタック株式会社の本社は九段下にあったが、ビルの1階、3階、5階は富士通からの出向社員が使い、2階、4階、6階は日立製作所からの社員が使う、というようにはっきり分かれていたそうである。受付はどうなっていたのであろうか? まさか2つ?

2) 高エネルギー物理学研究所(KEK)
同研究所は、1971年に田無の東京大学原子核研究所を仮の場所として発足した。1972年から筑波(正確には、茨城県筑波郡大穂町大字前野字石塔)に移転した。1972年(日付不明)には開所を記念したシンポジウムがあり、土浦京成ホテル(今はない)に宿泊して高エネルギー研究所に貸し切りバスで通った。土浦の街を出ると、全くの田舎道(今から思うと県道128号線)で、行けども行けども畑と林が続き、どこに連れていかれるのかと思った。研究所も工事現場そのもので、いたるところに水たまりができていた。使える建物は、土地買収を知って慌てて建てたというゴルフ場(破産)の消防法違反のクラブハウスだけであった。そこに、研究室も、事務所も、図書室も、食堂も、会議室も置かれていた。一部の職員はクラブハウスの上の階に宿泊していたが、火が出たら使うようにと「オリロー」(松本機工製)という緩降機が用意されていた。加速器や研究棟の建設が始まっていた。いうまでもなく、自分がまさかここに就職するとは全く考えてもいなかった。写真は創立5周年の絵葉書から。奥に筑波山が見える。手前はKEKのキャンパスの北側の部分で、左の円形の土手の地下は陽子加速器、建物群は研究室や実験室など。右手の右下から左上に走る道路は学園東(ひがし)大通り。これより手前(南)にも当時未使用の広い敷地がある。

1976年のKEK全景

 

日本の大学センター等

1) 東京大学(HITAC 8800/8700)

 
   

大型計算機センターの新しい建物(現本館)が竣工し、1972年12月14日、HITAC 8800/8700が設置された。詳しいことは「日立製作所」の項目を参照。これまでのClosed Batch ServiceではなくOpen Service方式を実現し、セルフサービスでの入力ステーションやラインプリンタのそばのトークンカードによるオンデマンド出力など斬新な方式を実現した。当時のトークンカードはプラスチックに物理的な穴で課題番号が記載されていたと記憶している。その後(おそらくM200Hになってから)、磁気ストライプになった。玄関フロアの梁には、計算ジョブ実行状況をリアルタイムで表示する電光表示板が設置された。筆者は設置時から利用したが、OSが巨大であったためか当初はシステムがしばしばダウンし、カードリーダの前には長い列ができた。 会話処理(TSS処理)のサービスも始まったが、初期には1ユーザあたり60 KB(60 MBではない!)のディスクスペースしか割り当てられなかったのでそれほど便利ではなかった。TSSの使い勝手も不十分で、最初はTSSの利用が少なかった。写真は、「東大130年の歴史」から。

1972年5月、データ処理センターは教育用計算機センターに名称を変更した。

2) 大阪大学(NEAC-2200/700、500)
大阪大学大型計算機センターは、1972年3月、NEAC-2200 model 700(1号機)およびNEAC-2200 model 500を導入した。

3) 東京工業大学(HITAC 8700)
東京工業大学情報処理センターは、1972年10月からHITAC 8700が稼働した。1号機であった。

4) 東京水産大学
1972年、東京水産大学に計算センター発足。

5) 神戸大学(FACOM 230-35)
1972年3月、OKITAC 5090DをFACOM 230-35に更新した。

6) 岡山大学(NEAC-2300/500)
1972年2月、学内共同利用計算機センター発足(学内措置)。NEAC-2300/500によるバッチサービス開始。

7) 熊本大学(FACOM 230-25)
電子計算室新営建物が完成し、FACOM 230-25 (主記憶64KB)が稼働。

8) 九州工業大学
1973年3月、情報処理施設にOKITAC4500-OKITAC4300システムを設置した。九州大学大型計算機センターシステムと2400bpsの専用回線で接続し、リモートバッチ処理を開始した。

9) 琉球大学(FACOM 230-15)
1972年4月、琉球大学理工学部に電子計算機室を設置、FACOM 230-15を導入。(大学の沿革では、3月3日に計算センター設置とあるが、総合情報処理センターの沿革では、1976年9月に計算センターへ改称されたと記されている。)

10) 東京大学原子核研究所(TOSBAC-40C)
1972年度には、オンライン実験のために端末処理装置の予算が認められ、TOSBAC-40Cが導入された。

11) 統計数理研究所(HITAC 8700+8400)
統計数理研究所では、1972年5月、1971年2月に導入されたHITAC 8500改良型を、HITAC 8700+8400に更新した。8700はメモリ524 KB、8400はメモリ131 KBである。もちろん、1971年製作の乱数発生機も搭載されている。1974年ごろまでには、パラメトロン計算機はなくなったようである。

国内会議

1) 「数値解析研究会」始まる
現在も続いている「数値解析シンポジウム」の前身である「数値解析研究会」の第1回が、1972年10月24日(火)~26日(木)に東芝の日光保養所で開かれた。前年5月の準備の会で打ち合わせたように、世話役は高澤嘉光(山梨大)、平野菅保(東芝)で、参加者23名であった。全く自主的な活動であり、いかなる学会とも関係なく、自主的に企画を行っている。1982年に始まる情報処理学会の「数値解析研究会」とも組織的には無関係である。1日に講演7件とゆったりした会合であった。当時のテーマは、関数近似、悪条件行列、有限桁演算でのNewton法の収束、重調和方程式、高速フーリエ変換、Runge-Kutta法など、HPCというより丸め誤差や打ち切り誤差をどう減らすかが課題であった。

なお、「プログラミングシンポジウム」は1960年1月を第1回として毎年開催されている。初期の講演テーマを見ると、数値解析関係の講演も少なくない。この数値解析研究会が始まってからは、プログラミングシンポジウムのテーマはソフトウェア科学の分野が中心になったようである。

2) 数理解析研究所
京都大学数理解析研究所は、1972年10月31日~11月2日、高橋秀俊(東京大学)を代表者として、「数値計算のアルゴリズムの研究」という研究集会を開催した。4回目である。報告は講究録No.172に収録されている。

3) 人工知能シンポジウム
財団法人日本産業技術振興協会は、3月6日~17日に機械振興会館において、国際的なシンポジウムを開催し、John McCarthyを始め世界各地におけるこの分野の代表的研究者を招待した。学官民の研究者、とくに若い研究者が多数熱心に参加した。

日本の企業の動き

通産省の指導により、System/370対抗のため、国産6社が1972年3月に3グループに編成されたことは前に述べた。

1) 日立(HITAC 8800/8700)
日立製作所は、1966年IBMのSystem/360に対抗して通産省が力を入れた超高性能電子計算機プロジェクトで開発したHITAC 8800/8700が1972年8月に完成し、10月からは東京工業大学情報処理センターで、1973年1月東京大学大型計算機センターで稼動し、東大では4月から正式利用開始された。東工大はHITAC 8700のシングルプロセッサであったが、東大はHITAC 8800×2+HITAC 8700×2 の異機種混合マルチプロセッサであった。その後HITAC 8800×3+HITAC 8700×1に増強されたようである。OS7というOSで制御されメモリ共有マシンであった。国産初の多重仮想記憶方式(4 KBページ)であった。物理アドレスは24ビットだったと思うが、ユーザ当たり231バイトの仮想アドレスが使えた。メモリ(8 MB)は当初磁気コアだったが、途中で半導体メモリに変更された記憶がある。仮想空間はジョブ毎に独立の多重仮想空間であるが、先頭の部分だけはすべてのプロセスに共通のシステム空間であった。会話処理とバッチ処理をほぼ同一のコマンドで記述する方式であった。命令セットアーキテクチャは、IBMのSystem/360に似ていた。ただ、(仮想)アドレスが31ビットなので、アドレスを処理するためにLAE (load-address-extended)とかいう命令を使っていた記憶がある。

日立は1972年12月現在で、8700を13件(東大、国鉄、気象庁、東海銀行、三和銀行等)、8800を2件(東大、気象庁)受注しているとことである。日立製作所神奈川事業所(秦野市)に保存されているHITAC 8800部品類は、情報処理学会から2015年度情報処理技術遺産に認定された。

もう時効だとは思うが、OS7にはとんでもないバグがあり、任意のユーザのパスワードなどを含む個人プロファイルを誰でも読むことができた。ユーザのプロファイルにはファイルの共有情報も記憶されているので、他のユーザのファイルにアクセスしようとすると、システムは相手のユーザのプロファイル(もちろん暗号化されている)を読み出し、これを仮想空間上で復号し、共有の可否をチェックし、可ならファイルにアクセスする。当然、アクセス後には仮想空間上の平文のプロファイル情報は消去される。ところが、共有ファイルが実在せず異常終了すると消去を忘れてしまうらしい。つまりわざと異常終了させてから仮想空間をサーチすると平文のパスワードなどを読むことができた。今の言葉で言えば、Use-after-free的な脆弱性であった。

中小型汎用計算機HITAC 8000シリーズとしては、HITAC 8350/8450の下位機種として、1972年7月、HITAC 8250が発表された。MSI、ICメモリを使用することにより、高速化、小型化した。

2) 富士通(米Amdahl社との提携)
富士通は、IBM社を退職したGene Amdahlが1970年カリフォルニア州Sunnyvaleに設立したAmdahl社を支援して、IBM互換路線に舵を切った。1971年から、製品および部品の供給ベンダ、および研究開発パートナーとして協力してきたが、1972年12月26日、Amdahl社に資本参加したと発表した。このときの出資率は24%であった。1997年には買収。

3) 富士通(FACOM U-200)
富士通は、FACOM RやFACOM REの後継機として、1972年8月にFACOM U-200を発表した。主記憶は、磁気コアまたはICメモリ、記憶容量は8~64KBである。パナファコムの成立に伴い、PANAFACOM U-200として出荷された。U-100、U-300、U-400のファミリーとなっている。

4) 日本電気
1962年に日本電気はHoneywell社とコンピュータに関する技術提携契約を結んだ。10年の契約であり、1972年に期限がきた。IBM非互換の路線は将来性がないので打ち切るべきだという議論があったが、Honeywell社が1970年にGEのコンピュータ部門を買収したことも考え、技術提携は継続されることとした。なお、1991年Honeywell社はコンピュータ部門をBull社に売却し、コンピュータ事業から撤退した。

5) 三菱電機(MELCOM 70)
三菱電機は1972年ミニコンピュータMELCOM 70を発表した。1語16ビットで磁気コアメモリを使用した。

6) カシオ計算機
1972年8月3日、世界初のパーソナル電卓「カシオミニ」を発売。

TI社は、1966年頃からベクトルコンピュータの開発を進めていたが、30 MFlopsのマシンASC (TI Advanced Scientific Computer)が完成し、1972年11月に1号機がオランダの石油会社Royal Dutch Shellに出荷される。

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