新HPCの歩み(第54回)-1975年(b)-
この年、Bill GatesらによりMicrosoftへの動きが始まった。ARPANETを用いて、Stanford大学とLondon大学間で、2拠点間のTCP/IPの通信試験が行なわれた。日本でも、N-1が東大の日立機と京大の富士通機との間を電電公社のパケット通信網を使って実験的に接続された。 |
国内会議
1) 数値解析研究会
自主的に企画している数値解析研究会(後の数値解析シンポジウム)の第5回は、1975年9月1日(月)~3日(水)に熱海の竜泉閣で開催された。世話役は春海佳三郎(群大)と平野菅保(東芝)で、参加者43名。
2) 数理解析研究所
京都大学数理解析研究所は、1975年10月30日~11月1日に、高橋秀俊(この年から慶應義塾大学)を代表者として「数値計算のアルゴリズム」という研究集会を開催した。第7回目である。報告は講究録No.269に収録されている。
日本の企業の動き
1) 三菱電機・沖電気(COSMO 500)
1975年5月、三菱電機・沖電気は、中型コンピュータCOSMOシリーズモデル500を発表した。LSIを用い、仮想記憶方式を採用している。
2) 富士通(Amdahl 470V/6)
1975年6月、Amdahl社は、富士通と共同開発したIBM System/370互換のAmdahl 470V/6の1号機をNASAに出荷した。このコンピュータには、AmdahlらがIBM社のACSにいたころ提案し、本社に拒否されたAEC/360の技術が反映しているとのことである。開発には5年の歳月と$50Mの費用をかけた。2号機はMichigan大学。1974年に富士通が発表したM-190には、470V/6の技術が使われている。写真の470V/6は富士通ミュージアムから。
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富士通は、ハードウェア、ソフトウェアの両方でIBM互換を徹底的に追求した。従ってAmdahl社は、470V/6にIBMのMVSを載せて販売した。顧客はIBM社とソフトウェアのライセンス契約を行って利用した。独占禁止法訴訟の関係で、IBM社はMVSを販売することが要求されていた。富士通のOSであるOSIV/F4はIBMのMVSと完全互換であった。OSは実行時に様々なシステムソフトウェアを起動するが、富士通のOSIV/F4はすべてにIBMのMVSと同じ名称を用いていた。つまり、IBMのMVSでコンパイルしたオブジェクトプログラムは、富士通機のOSIV/F4上でそのまま動かすことができた。筆者も何度かこれをやったことがあり、最初はびっくりした。次に述べる日立のVOS3でも、IBMのMVSと同じ機能のシステムソフトウェアが用意されていたが、その名前は先頭の二三文字が系統的に変更してあった。
ドイツでは米国Amdahl社と同様にハードウェアをSiemens社にOEM提供し、Siemens社が開発したOSを搭載していた。オーストラリアでは富士通ブランドで提供した。(この段落について、さる解説記事を基に(元の)文章を書きましたが、事実誤認とのご指摘がありましたので、このように訂正いたします。ご指摘ありがとうございました。)
3) 日立製作所(VOS3)
1975年5月、日立製作所は、汎用機HITAC Mシリーズの最上位のOSとしてVOS3を発表した。1977年4月から出荷を開始した。VOS3は、多重仮想記憶装置をサポートし、複数のCPUが主記憶を共有して一つのOSで動作することを可能とし、資源を集中的に管理できる。
日立は、1975年に、情報・通信機器向けの半導体集積回路の開発を目的としてデバイス開発センターを設立した。その後2004年に、マイクロデバイス事業部に組織変更し、自社グループや社外顧客に半導体集積回路の設計・開発・製造・販売を行った。その後、半導体業界の水平分業化が進んだため、2014年3月末で、半導体集積回路の製造を終了した。
日立も海外でMシリーズのマシンを販売したが、ハードウェアのみを提供し、OSなどシステムソフトウェアは海外の顧客がIBM社とのライセンス契約により調達することになっていた。前に述べたようにVOS3のシステムソフトウェアは、MVSと同じ機能を実現していたが、名称が互換でなく、MVSでコンパイルしたオブジェクトはそのままではVOS3で動かなかった。
4) 日本電気(ACOS-4)
日本電気と東芝は共同でACOSシリーズを開発してきた(1974年の記述参照)が、1975年10月、日本電気は中型機向けのOSであるACOS-4(32ビット語)を出荷した。ACOS-4はHoneywell社(HIS)の技術を基に開発される予定であったが、HIS社の度重なる計画変更や開発・改良の中止により、日本電気が単独で開発を進めた。COBOLをターゲットとした高級言語指向の命令セット、セグメンテーションによる2次元アドレスを採用し、全面的な仮想記憶を採用した。このOSは、IBM社のFSを先取りしたものである。オンライン指向そのものから開発・設計されており、仮想ネットワークという新しい手法が取られている。
5) 東京芝浦電気(TLCS-12A)
同社は、1975年、TLCS-12の機能・性能改善版にあたる12ビットマイクロプロセッサTLCS-12Aを発表した。4KビットのROMを内蔵したマイクロプログラム方式で、乗除算命令はマイクロプログラムでサポートしている。
6) 日本IBM社
1975年2月、椎名武雄が代表取締役社長となった。
7) 日本ユニバック社
1975年10月27日~31日に、「コンピュータ・テクノロジの昨日・今日・明日」というタイトルで、UNIVAC Fair ‘75セミナーが開催された。のべ8000人が参加した。
ネットワーク
1) ARPANET
ARPANETは、1969年にUCAL、Stanford、UCSB、Utah大の4ノードをつないだのが始まりであるが、当時のプロトコルはNCP (Network Control Program)ベースであった。前回書いたように、1974年にTCP/IPの仕様が開発されたが、1975年、Stanford大学とUniversity College London 間で、2拠点間のTCP/IPの通信試験を行った。ARPANETが全面的にTCP/IPに切り替えられるのは1983年のことである。
2) Telenet
1975年、最初の商用パケット交換ネットワークTelenetが始まった。1973年頃、アメリカで付加価値通信が合法化されると、BBNにいたBolt Beranekと NewmanはTelenet, Inc.をWashington, D.C.に創立し、ARPANETの元責任者であったLarry Robertsを会長に迎えた。1975年1月、十分な資金が集まったと発表し、8月16日には公衆パケット交換ネットワークの運用を開始した。当初のノードは、Washington, D.C., Boston, New York, Chicago, Dallas, San Francisco, Los Angelesの7都市に置かれた。
同社は、1979年にGTEに買収され、その後Sprintに買収される。
3) N-1ネットワーク
日本でも新しい動きがあった。前に書いた特定研究「広域大量情報の高次処理」の中で、N-1と呼ばれるネットワークの開発が科研費の援助を受けて1974年から進められていた。正式には「大学間コンピュータネットワーク」と呼ばれる。この背景には、上記のARPANETでのTCP/IP開発、IBM社のSNA(1974年)とともに、電電公社が1974年から開始したデータ通信網アーキテクチャDCNAの研究開発があると思われる。
1975年に、東大大型計算機センターの日立機と京大大型計算機センターの富士通機との間を電電公社の通信網を使って実験的に接続された。これが初めてのN-1の接続であった(東大の資料では、1976年7月に成功と書かれている)。公式には、実証実験のフェーズ1は1976年6月から1977年5月まで行われ、回線交換の現場試験を行い、トランスポート・レベルの検証とRJEプロトコルの検証を行った。平野浩の記事によると、N-1でプロトコルを担当していた浅野正一郎(東大)と金出武雄(京大)は、TCP/IPを超えるものを作ろうと頑張ってN-1を開発したとのことである。そもそも当時の日本のメインフレームにはネットワーク接続という発想がなく、関係者は非常に苦労した。
その後1980年ごろまでに多くの大学のセンターがつながった。当時は大型計算機の時代であった。ARPANETだって当初は大学や研究所の大型計算機をミニコン経由で結合していたのである。正式な運用開始は1981年10月である。
1970年代に電子メールの利用が進んだARPANETとは異なり、N-1上の電子メールが可能になったのはずっと後(1985年の通信自由化後)で、主な利用形態はリモートログイン(当時の言い方ではNetwork Virtual Terminal)とリモートバッチ(同Remote Job Entry)であった。N-1ネットワークは異機種をつなぐという点で、また同一回線で複数の業務をサポートすると言う点で画期的な試みであった。しかし、N-1からwebは生まれなかった。結局N-1は1999年末に「2000年問題」に対応できないためサービスを停止した。他方、ARPANETは現在のインターネットへと大きく発展した。
標準化
1) IEEE 488 (GP-IB)
もともと計測機器メーカーであったHewlett-Packard社は、測定器や制御装置をコンピュータと相互接続するために、1960年代後半、HP-IB(HP Interface Bus)を開発した。他のメーカーはこれをまねてGP-IB(General Purpose Interface Bus)を作った。
1975年、このバス規格は、IEEEによりIEEE-488-1975として標準化された。
2) SCHEME
1975年にMIT人工知能研究所において、Gerald Jay SussmanおよびGuy L. Steele, Jr.により、LISPの方言であるSCHEME言語が設計された。
ヨーロッパの政府関係の動き
1) 西ドイツ(助成削減)
西ドイツ政府は、国産コンピュータ事業の強化のため助成に務めてきたが、1975年になって財政緊縮のため、研究技術省所管の研究助成プロジェクト3000件のうち、数百件が中止または延期を迫られることになった。とくに、1976年度のコンピュータ関係の助成は、1975年度に比べて5000万マルク(当時のレートで約55億円か?)減少する見込みで、Siemens社や西ドイツPhilips社では人員整理が噂されていた。
アメリカの学界の動き
1) LLNL (S-1 Supercomputer)
DOE傘下の国立研究所LLNL (Lawrence Livermore National Laboratory)では、Lowell WoodらによりS-1プロジェクトが発足した。これはマルチプロセッサのスーパーコンピュータを建設しようという計画で、5世代が計画されたが、実際に作られたのはMark I (1978)とMark IIA (1982)だけであった。詳細はMark Smothermanの報告を参照。S-1プロジェクトは1988年まで継続した。
このプロジェクトは、1977年に2ビット分岐予測を初めて採用し、ディレクトリベースのキャッシュコヒーレンシやLoad-Link/Store-Conditionalを用いた同期など先駆的な技術を用いている。
2) UC Berkeley (SPICE2)
SPICE1は1972年に公開されたが、Nagelは1975年SPICE2を発表した。メモリの動的割り付け、時間ステップの自動調整、NMA (Modified Nodal Analysis)など多くの改良点がある。
国際会議
1) ISSCC 1975
第22回目となるISSCC 1975(1975 IEEE International Solid-State Circuits Conference)は、1975年2月12日~14日にペンシルバニア州Philadelphiaで開催された。主催はIEEE Solid-State Circuits Council、IEEE Philadelphia Sections、University of Pennsylvaniaである。組織委員長はHarold Sobol (Collins Radio)、プログラム委員長はW. David Pricer (IBM)であった。基調講演では、スイスのA. P. Speiserが“Electronics in a Changing Research Climate”と題して行った。会議録はIEEE Xploreに置かれている。
2) ICPP 1975
1972年から開催されてきたSagamore Computer Conference on Parallel Processingは、1975年からはICPP (International Conference on Parallel Processing)と名称が変更された。回数は通算され、この会は第4回である。場所、日付は不明。
3) USA-Japan Computer Conference
1975年8月26日~29日に、the Second USA-Japan Computer Conference(第2回日米コンピュータ会議)が東京プリンスホテルで開催された(29日はテクニカルツアーのみ)。1972年10月に続き2回目である。主催は、AFIPS (American Federation of Information Processing Societies, Keith W. Uncapher, President)と日本の情報処理学会である。参加費は一般30000円、会員は28000円、早期25000円であった。220件の論文投稿があったが、そのうち120件が採択された。参加者は日本側1073名、アメリカ側138名、計1211名であった。同時通訳が用意されたようであるが、どこまでカバーしたかは不明である。展示会は29社の出展があった(『情報処理』1976年1月号に詳しい報告がある)。第3回は1978年10月10日~12日に、San FranciscoのJack Tar Hotelで開催される。
4) PACNET Symposium
1975年8月20日~22日に、PACNET Symposium(汎太平洋計算機網国際シンポジウム)が仙台で開催された。主催は組織委員会(委員長は大泉充郎東北大学教授)、共催は電子通信学会、情報処理学会、同東北支部、科研費「広域大量情報の高次処理」。ALOHAnetがハワイ諸島間で運用され、アメリカ本土のARPANETとも接続されているので、さらに静止衛星を経由して、日本、オーストラリア、ニュージーランドなどとつなぐという構想も議論された。翌日の23日には、静止衛星ATS-1 (Application Technology Satellite) の送受信装置(東北大学工学部に設置)の見学会があった。
東北大学では、大泉充郎教授、佐藤利三郎教授を中心としてATS-1の受信機を自作して、1974年からデータの受信を開始していた。1975年11月1日付日経産業新聞によると、年内にも「国際学術コンピュータ・ネットワーク」が実現する見込みと報じられているが、実際に1976年2月には郵政省からATS-1への電波発射の免許を得て、接続実験に成功した。しかし、利用できた周波数がVHF帯で都市雑音の影響を受けやすく、しかも衛星を南米Ecuador上空からハワイ南方まで移動したものの、アンテナの仰角が8°と低く信号が安定しなかったため、実験段階に留まった(東北大学大型計算機センターの根元義章元センター長からの情報)。この試みは、当時将来の全世界コンピュータ・ネットワーク実現の可能性を与える研究として広く内外から期待と注目を集めた。東京大学がVENUS-P経由でCSNETに加入しJUNETとのゲートウェイとなって日本が国際接続したのはこの10年後の1986年であり、非常に先駆的な実験であった。(海老原義彦、野口正一、大泉充郎、情報処理第10巻7号p.650-653(1975年7月)『汎太平洋教育研究用ネットワーク――東北大学ALOHAネットワーク――』)
アメリカの企業の動き
1) Cray Research社(Cray-1)
Cray Research社は、1975年、Cray-1を発表した。出荷は翌年である。LLNLとLANLが1号機の争奪戦を繰り広げたが、LANLが勝利した。
2) Amdahl社(Amdahl 470V/6)
Amdahl社は、富士通と共同して、1975年System/370 model 168対抗のAmdahl 470/6を発表したが、IBM社が仮想記憶のためのDAT (Dynamic Address Translation)を発表したため、470/6をやめて470V/6を発表した。1975年6月に1号機が完成した(「富士通」の項参照)。最初の2台は、NASAとMichigan大学に納入された。Amdahl 470は、AmdahlがIBMのACS研究所(Advanced Computer Systems, Menlo Park, Cal.)で開発した空冷のECL LSI技術に基づき、100ゲートのECL LSIを用いている。出荷以来200台が売れたとのことである。
3) IBM社(IBM 801)
IBM社のThomas J. Watson Research Centerでは、1974年頃、1時間に100万の呼び出しを処理できる電話交換機を制御するコンピュータの可能性を検討し始めた。当時としては、きわめて大胆な目標であった。この計画は翌年中止されたが、1975年10月から、コンピュータの性能を向上させるための801プロジェクトが始まった。801は建物の番号である。最初の案は、仮想記憶をもたない24ビットレジスタのCPUであった。この801と呼ばれたCPUは1980年夏に稼働し、15 MHzで、当時としては高速の15 MIPSの性能であった。IBM 801はRISCの走りであり、この成果は、IBMの種々の制御装置に利用されるとともに、1982年のCheetahプロジェクト、1985年のThe American Project、さらには1990年代のPOWERアーキテクチャにも影響を与えた。設計者John Cockeは1987年チューリング賞を受賞する。
IBM 801と、Berkeley RISCと、Stanford MIPSはRISCの主要な源泉である。
4) IBM社(FS)
IBM社は1971年からFuture Systems Projectを進めており、単一レベル記憶、マイクロコードによる複雑な命令セットなどにより革新的なコンピュータを開発するということであった。ところが、1975年3月、IBM社は次期システムにFSの成果は使わないと発表した。FSの成果を実現したのは、1978年10月に発表され、1979年8月に出荷開始されたIBM System/38である。
5) DEC社 (LSI-11、DECnet)
大規模集積回路を使用した最初のPDP-11であるLSI-11 (PDP-11/03)は、1975年2月に登場した。CPUはWestern Digital社製の4個のLSIチップから構成されている。60 KBまでのメモリをサポートする。
1975年5月、同社のネットワーク体系であるDECnetに関するネットワークアーキテクチャDNA (Digital Network Architecture)の発表を行った。当初はタスク間コミュニケーションなどの機能だけであったが、1978年に、ファイル転送やremote resource accessやremote command submissionなどの機能が加わった。
6) Tandem Computers社
1974年に創業したTandem Computers社は、最初の製品であるTandem/16のハードウェアを1975年に完成し、1976年5月に1号機がCitibankに出荷された。OSはT/TOSと呼ばれた。このマシンは後にNonStop Iと改称された。
7) Intel社
1975年、Gordon MooreがCEO兼社長になり、会長にRobert Noyceが、副社長にAndy Groveが就任。また、訴訟を恐れたAMD社がIntel社とsecond source契約を結んだ。
8) CDC社(中国輸出)
10月4日付New York Timesは、中国はCDC社と、高性能コンピュータCyber-72またはCyber-172の買い付け交渉を進めていると報道した。1976年10月には、アメリカ政府は中国へのCyber-172の輸出許可を出したので、実際に輸出されたものと思われる。
企業の創業
1) Microsoft社
Wikipedia “Microsoft”(以下「英語版」)とWikipedia「マイクロソフトの歴史」(以下「日本語版」)の記述とは細部で異なる。正式に株式会社となるのは1981年6月25日のことである。
Popular Electronics誌1975年1月号の表紙にMITS (Micro Instrumentation and Telemetry Systems)社のマイクロコンピュータAltair 8800(Intel 8080搭載)が掲載された。親友であったBill Gates(Harvard大学生)とPaul Allen(Washington州立大学を1971年追放)はこれを読み、二人はAltairのためにBASICインタプリタを開発できないかと考えた。「英語版」によるとGatesはまだできていないのに、「はったりで」MITS社に連絡し、「稼働しているインタプリタがある」と伝えたそうである。MITS社は、「それならデモしてくれ」と応じた。
早速開発を始めた。当時二人は手元にAltairシステムを持っていなかったが、AllenがIntel 8080のマニュアルを基にAltair8800のエミュレータを開発し、GatesがHarvard大学のPDP-10上でAltair8800のエミュレータを動かし、その上でBASICインタプリタを開発した。8週間かかったとのことである。
1975年3月AlbuquerqueのMITS社でデモを行った。「英語版」によると「一発で完璧に動いた」そうであるが、「日本語版」は疑問を呈している。とにかく、結果的に稼働し、MITS社はAltair BASICとして配布することを決定した。
「英語版」によると、1975年4月4日に、二人はGatesをCEOとして会社を設立することを決め、Allenは会社名として「”Microcomputer Software”からMicro-Softはどうか」と提案したとのことである。1977年8月、最初の海外進出として、日本のアスキー出版と合意を結び、極東総代理店としてASCII Microsoft社を設立する(「日本語版」では1978年11月1日)。
「日本語版」によると、Allenはこの4月4日、Honeywell社を退社し、MITS社の社員となっただけなので、Microsoftの創業とは言えないと述べている。実際、1975年7月にMITS社は、会社とではなく「二人の個人」とBASICインタプリタに関する契約を結んでいる。また、Micro-Softという社名をAllenが考え出したのも1975年7月としている。文献に残る最古の記録としては、1975年10月にMITS社長のEd Robertsが広報誌にMicro-Softという名前を出しているが、まだ私的なチーム名に過ぎない。二人がパートナーシップ経営として正式に契約書を交わすのは1977年2月である。このころ、GatesはHarvard大学を休学して事業に専念した。大学に戻ることはなかったが、2007年Harvard大学から名誉学位号を授与される。
1979年1月1日、Microsoft社はワシントン州のBellevueに本社を移転する。
(この項について、村上弘氏からご指摘をいただき、大幅に修正した)
企業の終焉
1) XDS社
Xerox社が1969年に買収したSDS (Scientific Data Systems)社は、XDS (Xerox Data Systems)社と名乗っていたが、1975年7月21日コンピュータ事業からの撤退を発表し、Xerox社はXDSを廃止し、その知的資産をHoneywell社に売却した。その結果、Honeywell社は業界2位のコンピュータ企業となった。撤退に際し、Xerox社のC. Peter McColough会長は、撤退の理由として「競争力ある新世代コンピュータを市場に出していくには、今後さらに$150Mから$200Mの資本を投入する必要があった」と述べた。
2) CII社
フランス政府の肝いりで1966年12月に設立されたCII社 (Compagnie internationale pour l’informatique)は、Giscard d’Estaingがフランス大統領に就任して方針が変わり、1975年5月、Honeywell-Bullとの合併が合意された。CII-Honeywell-Bull社は1976年7月に発足する。
次回1976年、ついにCray-1がLANLに納入される。
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1件のコメントがあります
英語版のWikipediaにも
最初のあたりにこのように
記述されているので、
Micro-Softという名前を
提案したのが1977年の8月
であるなら、Microsoft社という名前の会社が1977年4月に
創設されたはずもないので、
(英語版の内容には)矛盾がある。
> … and Allen suggested the name “Micro-Soft”,
> short for micro-computer software.[21][22] In August 1977,
> the company formed an agreement with ASCII Magazine in Japan,
> resulting in its first international office of ASCII Microsoft.[23]
> Microsoft moved its headquarters to Bellevue, Washington,
> in January 1979.[20]