世界のスーパーコンピュータとそれを動かす人々


8月 10, 2021

新HPCの歩み(第55回)-1976年(a)-

小柳 義夫 (高度情報科学技術研究機構)

日本では、IBMのFuture Systems Projectに触発され、超LSI技術研究組合を設立し、大型集積回路の製造技術を開発した。その結果、1980年代に日本がDRAMの大量生産で世界を席巻した。イギリスでは浮動小数演算を中心とするWhetstone benchmarkが公表された。

社会の動き

1976年(昭和51年)の日本はロッキード事件で明け暮れた1年であった。社会の動きとしては、1/8周恩来死去、1/21コンコルド、定期運航開始、1/31日本初の五つ子誕生、2/4グアテマラ地震(M7.5)、2/4インスブルックオリンピック(2/15まで)、2/4(米国時間)米国上院の小委員会でロッキード社が日本などの有力者に多額の賄賂を送ったことを暴露、2/16衆議院予算委員会でロッキード関係者の証人尋問始まる、3/1韓国で金大中ら「民主救国宣言」、3/2北海道庁爆破事件、3/23児玉誉士夫宅セスナ機特攻事件、3/24アルゼンチンでイサベル・ペロン大統領失脚、4/5中国で四五天安門事件(周恩来追悼弾圧に反対して蜂起)、6/15民法改正で、離婚前の婚氏続称可能に(日本)、6/22ロッキード事件で大久保利春を逮捕、6/25新自由クラブ結成、7/1ひかりの一部が新横浜停車、7/2伊藤宏、偽証罪で逮捕、7/2ベトナム社会主義共和国成立、7/3イスラエル軍がエンデベ空港を奇襲し、ハイジャックされたエールフランス機の乗客を救出、7/17モントリオールオリンピック(8/1まで)、7/20バイキング1号、火星に着陸、7/27田中角栄逮捕、7/28中国で唐山地震(M7.5)、8/1田中前首相の運転手が取調中に自殺、8/4鬼頭史郎判事補の三木首相に対するニセ電話、8/20こだまに禁煙車登場(16号車自由席)、8/26初のエボラ出血熱患者(コンゴ)、9/6ミグ25でベレンコ中尉日本に亡命、9/9毛沢東死去、9/13台風17号長崎付近に上陸(長良川決壊)、10/6中国で四人組逮捕、10/22鬼頭史郎判事補のニセ電話事件発覚、10/29酒田大火、11/2米大統領選挙で、カーターが現職のフォードを破って初当選、12/5総選挙自民党大敗、三木内閣退陣、12/24福田赳夫、首相に、など。

流行語・話題語としては、「およげ!たいやきくん」「山口さんちのツトム君」「春一番」「黒いピーナッツ」「記憶にございません」「灰色高官」「三木おろし」など。

チューリング賞は、非決定性マシンという概念を導入したMichael Oser Rabin(当時MIT)とDana Stewart Scott(Oxford大学)に授与された。授賞式は、1976年10月20日、HustonにおけるACM年次大会において行われた。

ノーベル物理学賞は、1974年における新粒子の発見に対して、SLACのBurton RichterとMITのSamuel Ting(丁肇中)に送られた。化学賞はボランの構造研究に対しWilliam Nunn Lipscomb, Jr.に授与された。生理学・医学賞は、感染症の起源および伝播の新たな機構に関する発見に対し、Baruch Samuel BlumbergとDaniel Carleton Gajdusekに授与された。

日本政府関係の動き

1) コンピュータ自由化
1973年4月に決定された第5次資本自由化および輸入自由化方針により、電子計算機の技術導入の自由化が1974年7月1日に行われたのに続いて、1975年12月1日には資本自由化、12月24日には輸入自由化が実施されたが、1976年4月1日にソフトウェア業の資本まで自由化された。これにより、国際舞台の上で、世界各国の、とくに強大な競争力をもつアメリカのコンピュータ産業および情報産業と競い合うことになった。

2) 超LSI技術研究組合
IBMのFuture Systems Project(1971年~1975年、ディスクを含む単一レベル記憶、マイクロコードによる複雑な命令セットなどにより革新的なコンピュータを開発するプロジェクトであったらしいが、詳細は不明)に触発され、1976年3月10日、通産省の肝いりで超LSI技術研究組合の設立総会が開催された。電電公社は1975年5月から超LSI開発を計画していたが、通産省も同年7月には超LSI研究開発政策委員会を設置し、補助金の交付の方針を決めていた。両者ともメモリのLSIの開発が中心であり、縦割り行政の弊害かもしれない。競争により開発が加速されたならいいが。

4年間のプロジェクトで、参加した企業は、コンピュータ総合研究所(富士通、日立、三菱電機)と日電東芝情報システム(NEC、東芝)の2グループ5社であり、「次世代電子計算機用大型集積回路開発促進補助金制度」から290億円の補助金が出資された。シリコンバレーの半導体産業からは、日本政府がLSIに巨額の投資をするなら、アメリカ政府も同様な投資をすべきである、さもないと自動車産業のように日本に負けてしまうとの警告が出された。当時、クライスラー社の社長となったLee Iacoccaは、同社の再建に苦闘しているところであった。

このプロジェクトで開発された可変寸法矩形電子ビーム露光装置などの製造装置により、1980年代後半において日本がDRAMの大量生産で世界を席巻したことは大きな成果であるが、その結果アメリカのメーカーがCPUなどの論理LSIの開発に力を注ぐことになり、CPUに関して日本は出遅れてしまった。1978年10月4日、通産省と超LSI技術研究組合の5社は、アメリカのIBM社に対し、超LSIの基本特許を公開することで基本的に合意に達したと発表した。

IBMのFuture Systems Projectは名前の通りそもそもコンピュータ「システム」を目指したものであったのに、日本ではその技術的中核を「要素技術」である超LSIメモリの開発と分析した。したがって、それに対抗して日本はDRAMに注力した。そのあたりの事情は、垂井康夫氏の記事に詳しい。

筆者の周辺では、東大物理(後藤英一研)の大岩元らが研究していた高精度の電子ビームの研究(例えば、大岩元他、「電子ビーム走査システムにおける三次収差の除去について」電子通信学会論文誌B 54巻(1971)11号, pp.730-737)が半導体露光装置のために役立ったとのことである。これは、元々理化学研究所の後藤情報科学研究室のプロジェクトの一つで、高エネルギー物理学の泡箱写真解析の精密化が出発点であった。

3) 通信の自由化
1971年5月19日成立の公衆電気通信法の改正(いわゆる通信回線の開放)により、電電公社の回線を使って多様なデータ通信サービスが民間で行われるようになってきた。しかし、電電公社から借りた回線を第三者に利用させる他人使用については引き続き各種の制限が設けられ、情報処理業者から苦情が出されていた。このため、郵政省は、1976年7月9日、電電公社が情報処理業者に提供する特定通信回線の使用制限を大幅に緩める基準改正を認可した。これにより、企業内や関連企業間のオンラインなどを含む回線使用制限が緩められた。

4) 日本情報処理開発協会
財団法人日本情報処理開発センター(JIPDEC、1967年12月設立)は、1976年4月、財団法人日本経営情報開発協会(CUDI、1968年9月設立)および財団法人情報処理研修センター(IIT、1970年3月設立)を統合して、財団法人日本情報処理開発協会(JIPDEC)として発足した。2011年4月、一般財団法人化に伴い、一般財団法人日本情報経済社会推進協会(JIPDEC)に改称する。

5) 特定研究
1973年に始まった文部省科学研究費補助金特定研究「広域大量情報の高次処理」は終了し、新たに4年間の特定研究「情報システムの形成過程と学術情報の組織化」が始まった。これらは500人の研究者を結集し広い分野をカバーしているが、その一つとして、いくつかのの大型計算機センターを接続するネットワーク(N-1)の実証実験が行われている。1981年10月からは正式な運用が始まる。

6) 情報図書館学研究センター
1973年10月の学術審議会第3次答申(学術振興に関する当面の基本的施策)に基づき、1976年5月、東京大学に情報図書館学研究センターが設置された。2000年に設立される国立情報学研究所の前身である。

日本の大学センター

1) 北海道大学(PANAFACOM U-300)
1976年4月、北海道大学大型計算機センターは、副システムをFACOM230-25からPANAFACOM U-300に機種変更した。

2) 東北大学(ACOS 700)
東北大学大型計算機センターでは、1976年10月ACOS 700の運用が開始された。

3) 名古屋大学(FACOM 230-75)
名古屋大学大型計算機センターでは、1976年9月、FACOM 230-75を導入した。CPUは1個、メモリは640 KWであった。

4) 東京工業大学(HITAC M-180)
1976年、情報処理センターが総合情報処理センターに改組され、HITAC 8700をHITAC M-180に更新した。1977年から一般情報処理教育を開始した。

5) 群馬大学
1976年3月、工学部電子計算機室を学内措置により群馬大学計算センターに名称変更。東京大学大型計算機センターとのリモートバッチサービス開始。

6) 富山大学
1976年9月、「富山大学計算センター」を改組し、「富山大学計算機センター」設置。

7) 神戸学院大学(ACOS-4 System 300)
1976年、神戸学院大学は電子計算センター設立、ACOS-4 システム300導入。

8) 東京大学原子核研究所(TOSBAC-3400/51×2)
同研究所の中央計算機は、1976年5月にはTOSBAC-3400/51 1台から2台に増強された。うち1台はオンライン実験専用のリアルタイム機として使用された。

日本の学界

1) 高エネルギー物理学研究所
当時筆者の勤務していた高エネルギー物理学研究所(現在の高エネルギー加速器研究機構の前身の一つ)において、陽子加速器の建設が進み、1976年3月には8 GeVまで、12月には12 GeVまで加速に成功した。なんで8 GeVが一里塚かというと、transition energyと言って、そこで加速のメカニズムが変わり不安定になるので、それを越えて加速するには技術が必要なのである。筆者は理論部門所属で加速器建設には直接関係していなかったが、所内全体が祝賀ムードに包まれていたことを思い出す。

2) 法とコンピュータ学会
法とコンピュータ学会が、1976年1月1日に設立され、10月23日に創立総会が開催された。

国内会議

1) 数値解析研究会
自主的に組織している数値解析研究会(後の数値解析シンポジウム)の第6回は、1976年6月10日(木)~11日(金)に、山梨大学清里寮で開催された。世話役は田辺國士(統数研)と平野菅保(東芝)で、参加者約20名。

2) 数理解析研究所
京都大学数理解析研究所は、1976年11月4日~6日、高橋秀俊(慶應義塾大学)を代表者として、「数値計算のアルゴリズムの研究」という研究集会を行った。第8回目である。報告は講究録No.310に収録されている。1976年なのに、まだ「クレイ」のクの字もないところが印象的である。スーパーコンピュータなど別世界であった。

日本企業の動き

1) 東芝(ACOS 800, 900)
東京芝浦電気は、1976年4月、ACOS 600/700の上位機となるACOSシリーズ77システム800(ACOS 800)とシステム900を発表した。OSは36ビットのACOS-6である。システム900は、科学技術計算用に浮動小数点機構ハードウェアを新たに開発し、さらに性能向上を達成した。出荷は1978年10月から。

2) 富士通(M190出荷、池田記念室)
FACOM M-190の1号機が1976年4月27日、日本揮発油に納入された。IBMと受注を争ったとのことである。

富士通は1976年8月に沼津工場(愛鷹山の麓)の操業を開始したが、その一角に故池田敏雄氏の功績をたたえ、富士通における計算機開発の歴史的資料を展示するため池田記念室が設けられた。1976年10月、開所披露式が行われた。富士通の計算機事業の歴史的発展を示す各種説明と写真、主要構成部品などの資料が展示されるとともに、リレー計算機FACOM 128B(日本大学で使われたもの)が動態展示されている。筆者も何回か訪問した。現在、池田記念室と歴代製品を展示した富士通DNA館(3000 m2)とが隣接している。富士通DNA館は情報処理学会2019年度分散コンピュータ博物館に認定された。

3) 日立製作所(中国輸出)
1976年10月13日、日立製作所は、政府の承認を条件に中国から中央気象台用のM-170と2台のM-160-IIを受注した。COCOMで認可され1978年前半に実際に輸出される。これまで中国に対するコンピュータ輸出は、IBMの中型コンピュータSystem/370-145がCOCOMで認可されていたが、M-170はSystem/370-158相当であったので認可に2年を要した。1979年末、COCOMの統制品目の見直しが行われ、158相当まで認めようということになる。

4) 三菱電機・沖電気(COSMO 900)
国産メーカーの3グループ化によって同一グループを形成した三菱電機と沖電気は、通産省の補助金を受けて大型コンピュータCOSMOシリーズを開発し、1974年に,最初のモデルであるモデル700を発表したが、1976年3月24日、COSMOシリーズの最上位機種COSMO 900を発表した。

5) 日本電気(TK-80)
日本電気は1976年8月3日、TK-80 (Training Kit μCOM80)を発売した。プログラム入力装置を含む8bitマイコン部品一式を1枚のボードにおさめたもので、8桁のLED表示と25キーの標準キーボードがセットされている。CPUはμPD8080A(2.048 MHz)である。85,000円で販売された。

6) 日本IBM
日本IBM社は1976年5月19日、日常言語(日本語)によるデータベース照会システム「ヤチマタ」を完成したと発表した。

標準化

1) X.25
1976年3月、CCITTでX.25(パケット交換プロトコル)の勧告が採択された。その後多くのVersionが出ている。

性能評価

1) Whetstone benchmark
イギリスのCentral Computer AgencyとNational Physical Laboratory (NPL)に所属するH. J. CurnowとB. A. Wichmannは、Computer Journal 19 (1976) No. 1, 43-49に“A synthetic benchmark”という論文を発表し、計算機の性能評価の方法を提唱した。彼らは、NPLとOxford大学で949のプログラムを収集した。これをWhetstone ALGOL 60 compilerで解析することにより演算命令の出現頻度を求め、命令のウェイトを定めた。浮動小数点数演算が主要な部分を占めている。最初のベンチマークは1972年頃書かれた(既出)。このコンパイラは、英国LeicestershireのWhetstoneにあったEnglish Electric CompanyのAtomic Power Divisionで開発されたので、Whetstone(砥石)と名付けられ、ベンチマークもその名で呼ばれるようになった。

Cray社はCray-1の1号機をLANLに納入し、FPS社はAP-128Bアレイプロセッサを発売した。

 

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