新HPCの歩み(第56回)-1976年(b)-
Cray-1の1号機がLANLに納入された。同じ年、Floating Point Systems社は最初のアレイプロセッサ製品としてAP-120B array processorを発売した。Zilog社はIntel 8080の上位互換の8ビットプロセッサZ80を発売した。 |
アメリカ政府関係の動き
1) OSTPの発足
アメリカ合衆国議会は、1976年5月11日に、アメリカ内外における科学技術の研究開発に関して大統領(当時はフォード)に助言するためにOSTP (Office of Science and Technology Policy, 科学技術政策局)を創設した。これはケネディ大統領により1961年に組織されたOffice of Science and Technologyを発展させたものである。OSTP は広範囲に渡る科学的技術的な問題を大統領行政府内部で処理する。
世界の学界の動き
1) 並列アルゴリズム
このころ、高並列コンピュータはまだ実用化していないが、並列計算は計算理論研究者の恰好のターゲットとなり、多くの論文が書かれた。多くの場合、前提とする計算機モデルは「並列ランダムアクセス機械(Parallel Random Access Machine, PRAM)」であり、同期や通信などを捨象し、プロセッサ数は無限と考え、並列性を最大限に引き出すことだけに血道を上げていた。例えば、n次元正方行列の乗算は、O(n3)のプロセッサがあれば、1+log2 nステップで計算できるとか。
系統的に調査したわけではないが、当時の代表的なレビューとして、Don Heller, “A Survey of Parallel Algorithms in Numerical Linear Algebra”(SIAM Review, 20 (1978) pp. 740-777)がある。この論文は、はじめCarnegie-Mellon大学のテクニカルレポートとして1976年2月に公表された。
1980年代になって、高並列コンピュータが現実のものとなると、最大の問題は同期、通信、メモリアクセス、負荷分散であり、プロセッサ数も有限であることが強く意識されることになった。
2) Emacs, vi
1970年代、MIT人工知能研究所において、Carl Mikkelson、David A. Moon、Guy L. Steele, Jr.らにより、テキストエディタ―Emacsが開発された。これはTECO editor用のEditor Macrosとして書かれた。1976年後半に最初の版が利用可能になった。その後、Richard Matthew Stallmanらにより、GNU Emacsとして発展し、1985年3月に最初の公開版Version 13が完成する。
また、BSDの創始者であるBill Joyにより、1976年viエディタの初版が公開された。Joyは当時UCBの大学院生であった。
3) 四色問題
1976年8月24日、四色問題が肯定的に解決したことが報じられた。Kenneth AppelとWolfgang Hakenは、すべての地図を約2000個の種類に分類し、コンピュータにより四色定理を証明した。IBM社のSystem/370を1200時間以上使用したといわれている。
国際会議
1) ISSCC 1976
第23回目となるISSCC 1976(1976 IEEE International Solid-State Circuits Conference)は、1976年2月18日~20日にペンシルバニア州Philadelphia Sheraton Hotelで開催された。主催はIEEE Solid-State Circuits Council、IEEE Philadelphia Sections、University of Pennsylvaniaである。組織委員長はW. David Pricer (IBM)、プログラム委員長はJohn H. Wuorinen, Jr (Bell Labs)であった。2件の基調講演が行われた。
The Emerging Role of the European IC Industry |
P. R. Aigrain |
Emerging Role and Impact of the Microprocessor |
R. L. Petritz |
アメリカ外からの論文投稿が増え、アジアから9編、ヨーロッパから11編が採択された。会議録はIEEE Xploreに置かれている。
2) SEARCC
第1回のSEARCC(The South East Asia Regional Computer Confederation)が、1976年9月6日~9日までSingaporeで開催された。主催はIFIP、組織は Singapore Computer Societyであった。1988年までは2年に1回、その後は毎年アジア太平洋各地を会場として開催されている。
3) ARCS 1976
第4回目となるARCS 1976(International Conference on Architecture of Computing Systems)がこの年開催されたらしいが詳細は不明。
4) ICPP 1976
Sagamore Computer Conference on Parallel Processingから通算して第5回目となるICPP 1976 (International Conference on Parallel Processing 1976)が開催された。日時、場所は不明である。
アメリカ企業の動き
1) Cray Research社(Cray-1)
記念すべき事はCray Research社のCray-1の1号機がLANL (Los Alamos National Laboratory)に納入されたことである。天才Seymour Crayが開発したものであるが、高い性能を実現した。クロック80 MHzで、クロック毎に64ビットの加算と乗算を発行できたので、理論ピークは160 MFlopsである。STAR-100とは異なり、ベクトルレジスタを持ち、ベクトル演算はレジスタ間で実行される。使用されたICは、ECLによる高速のNANDゲート2個搭載のIC、MECLによるやや低速のNANDゲートIC、レジスタ用の高速小容量(6 ns、16×4ビット)SRAM、主記憶用の1024×1ビットのSRAM (50 ns)であった(日本語版wikipediaによる)。OS (COS)や自働ベクトル化Fortran compiler (CFT)のリリースは1978年ということなので、当初はOSもなく、機械語でベクトル演算を記述したのであろうか。筆者は使ったわけではないが、当初のコンパイラは自動ベクトル化といっても非常に使いにくいもので、内積や総和は64個(ベクトルレジスタのワード数)しかサポートされず、しばしばサブルーチンコールが必要だったということである。しかし、筆者がすばらしいと思うことは、アメリカのユーザが、このようなベータ版とさえ言えないようなマシンを、競って使いこなしたことである。日本でこんなマシンを売り出したら、「味噌汁で顔を洗って出直してこい」と、誰も使わなかったのではないか。
1986年に日本クレイ社からいただいた資料によると、LANLに1976年に納入された1号機は、1977年に他サイトに移設され、1977年に2号機を導入したようである。
1981年頃の米国内のCray-1の設置状況は以下の通り(日経コンピュータ1981年12月28日号S. Fernbachの記事による)。
核エネルギー |
7 |
環境 |
1 |
防衛 |
5 |
民間(エレクトロニクス、原子炉、航空宇宙、石油) |
5 |
サービス部門 |
2 |
調査研究(大学も含む) |
4 |
核や軍などの政府関係にばかり多く、民間企業や大学に少ないことが目立つ。
その後1978年ごろ、日本ユニバックが窓口になりCray-1の気象庁気象研究所への導入を目指したが成功しなかった。1979年6月に日本クレイ社が創立され、1980年1月にCRC(センチュリリサーチセンタ)に納入され、続いて6月22日には三菱総合研究所に設置される。後者のマシンは筆者も後日訪問し、「世界一高価なベンチ」に腰掛ける経験をした。
いつの頃か記憶ははっきりしないが、「スーパーコンピュータ」なるものが欧米にある、という噂が、筑波の田舎まで聞こえてきた。「われわれがそんなものを使う時代はいつ来るのだろうか?」とため息をついた記憶がある。1981年8月24日には、筑波研修センターでCray-1の説明会が開かれた。日本クレイの営業の方から当時筑波大学にいた筆者に参加勧誘の電話があったが、「ちょっと小遣いで買えるような代物でないので」とお断りをした。しかし「とにかく話を聞いてください」というので出席した記憶がある。
Cray-1の出荷された翌年の1977年、日本初のベクトルコンピュータFACOM 230-75 APUが航空宇宙技術研究所に納入され運用が開始される。
2) FPS社(AP-120B)
Floating Point Systems社が1970年にオレゴン州Beavertonに設立されたことは前に述べたが、奇しくもCray-1と同じ1976年に最初のアレイプロセッサ製品としてAP-120B array processorが発売された。これはPDP-11などのミニコンピュータに対する38ビットのコプロセッサで、アーキテクチャはいわゆるベクトル処理ではなくパイプライン化されたVLIW (Very Long Instruction Word) であった。命令長は64ビットなのでLIWを言った方がいいかも知れない。sinやcosのテーブルをもち、高速に計算できた。ホストの主記憶とはDMA (Direct Memory Access) によって転送を行った。
その後、1981年にはFPS-164(64ビット)を、1985年にはECLを使ったさらに高速なFPS-264を出荷した。値段も手頃だったので、大学や研究所にも多数導入された。これらのマシンは、地震波解析(石油探査のための)、計算化学、暗号解読などに使われた。
3) Zilog社(Z80)
1976年、Zilog社(1974年創業)はIntel 8080の上位互換の8ビットプロセッサZ80を発売した。初期のPCで使われるとともに、種々の機器の組み込みCPUとして使われた。Z80には当時使われ始めたDRAMのリフレッシュ動作専用のカウンタが内蔵されていた。
4) CP/M
Gary Kildallは、パソコン用のシングルユーザー・シングルタスクのOSとしてCP/M (Control Program for Microcomputer)を1974年頃開発し、1976年発売した。初めてBIOS (Basic Input/Output System)を搭載した。8 bit CPUであるIntel社の8080プロセッサ用に作られた。Kildallは翌1977年11月25日にDigital Research社を設立登記し、広くビジネスを開始する。
5) Intel社
1976年4月28日、東京世田谷区桜新町にインテルジャパン株式会社を設立。1997年2月1日にインテル株式会社に商号変更する。
6) DEC社(System-20)
PDP-10用のOSであるTOPS-10は仮想記憶の機能がなかった。BBN (Bold, Beranek and Newman)はTENEX OSの開発を進めていたが、DEC社はそれを買い取り、1976年、TOPS-20の名前で製品化した。TOPS-20 OSを搭載したPDP-10はDEC SYSTEM-20(非公式にはPDP-20)と呼ばれた。2020/2040/2050/2060/2065などのモデルがある。日本の第五世代コンピュータプロジェクトではDEC SYSTEM 2060を購入した。
7) 5インチ・フロッピーディスク
8インチのフロッピーディスクを製造していた会社の一つであるShugart Associatesは、1976年5.25インチのフロッピーディスクとドライブを発売した。すぐ10社以上が後に続き、フォーマットの違いも統一された。ただし日本では電電公社(当時)が5.25インチの2HDドライブの開発をおこなったため、容量は1.2MBで、アメリカとは異なっていた。
ヨーロッパの企業の動き
1) Siemens社
政府主導の合弁会社Telefunken Computer社の尻ぬぐいや、ヨーロッパ企業連合UniDataの失敗など外部の事情に翻弄されたSiemens社は、1976年10月、組織変革を行い、Data & Information Systems Groupという新組織を発足させた。
企業の創業
1) CII-Honeywell-Bull社
1975年5月のCII社とHoneywell-Bull社との合意に基づき、CII-Honeywell-Bull社は1976年7月に発足した。フランス政府は発足以来4年間、巨額の財政援助を行った。製品としては、CII系のIRISおよび77-seriesと、HB系のseries 60とが別々に売られていた。
次は1977年、日本初のベクトルコンピュータFACOM 230-75 APUが航空宇宙技術研究所に納入され運用が開始される。
(アイキャッチ画像:Cray Research の創立者であり「スーパーコンピューティングの父」と呼ばれる Seymour Cray が Cray-1 システムの隣に立つ(1976 年頃) )
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