新HPCの歩み(第59回)-1978年(b)-
DEC社のVAX-11/780の出荷が始まり、Intel社はマイクロプロセッサ8086を発表する。英国BristolでInmos社が設立される。KungらがSystoric Arrayを提案する。アプリではLLNLがDYNA3Dのソースコードを公開する。 |
標準化
1) FORTRAN 77
言語では、1978年4月3日に、ANSI(アメリカ国家規格協会)がFORTRAN 77を標準として承認した。主要な変更点は、以下の通り。
a) 文字列型が導入された。
b) 配列の下限の指定が可能になった。
c) DO loopが、while型となり、ループの先頭で条件判断する(66までは末尾で判断するので、1回は実行)。この点は66と上位互換ではないが、最低1回実行を積極的に利用した66プログラミングは異常であろう。増分に負の数値を指定可能になった。それはよかったが制御変数に実数型も使えるようになった。これは全く邪道で、丸め誤差で回数がずれてしまう。
d) if-then-else の構文が導入され、少し構造的になった。
などなど。このほか、マニアックであるが、FORMATがnon-writableになった。66まではHollerith field(つまり3HABCなど)に、read文で読み込み可能であった。現在これを知っている人はかなりのオタクである。
ISOでは、ISO 1539-1980として規定され、日本では4年後、JIS C 6201-1982として制定された。ANSIは次の規格FORTRAN 82の検討を始めたが、実現したのはFortran 90であった。、
2) BSD Unix
California大学Berkeley校のComputer Systems Research Groupでは1974年ごろからPDP-11上でUnix OSや関連のソフトウェアを開発していたが、大学院生のBill Joyがfirst Berkeley Software Distribution (1BSD)としてまとめ、1978年3月9日にリリースした。
3) DCNA
IBM社のSNA(1974年8月)に触発され、電電公社では1974年からDCNA (Data Communication Network Architecture)の研究が始められた。1977年3月20日、日本電気、富士通、日立、沖電気と共同して開発を進めると発表した。1978年3月には論理構造・メッセージ転送を含む第1版を提案した。その後、OSIトランスポート層の国際標準化にも貢献したようであるが、第5版(1983年3月)で共同研究を完了した.このDCNAの成果を組み込んだDIPS-11/5シリーズ用通信制御処理装置(CCP)の研究開発が電電公社研究所で進められ、1979年12月には7410、1980年2月には7400の試作に成功した。これによって分散処理の能力などが高まったといわれる。現在はどうなっているのであろうか。
4) 各社のネットワークアーキテクチャ
このころ発表されたネットワークアーキテクチャを一覧で示す。出典は齋藤忠夫「ネットワークアーキテクチャの標準化とその問題点」(情報処理学会研究報告ソフトウェア工学8-1、1978.11.8)。相互の互換性については不明である。斎藤は、「現在のところネットワークアーキテクチャは、各社のネットワーク開発にあたっての考え方(philosophy)を示すにとどまっているものが大部分である」と述べている。
1974年9月 |
SNA |
IBM |
1976年6月 |
DNS |
Burroughs |
10月 |
X.25 |
CCITT |
11月 |
SNA |
複数システムネットワーク機能 |
11月 |
DCA |
UNIVAC |
12月 |
ANSA |
東芝 |
12月 |
DINA |
日本電気 |
1977年3月 |
MSNA |
日立・富士通 |
3月 |
DONA |
沖電気 |
5月 |
FNA |
富士通 |
5月 |
MNA |
三菱電機 |
9月 |
HNA |
日立 |
1978年5月 |
DCNA |
電電公社、4社 |
5) 漢字コード
1978年1月1日付けで、通産大臣は「JIS C 6226-1978 情報交換用漢字符号系」を制定した。日本ではじめての日本工業規格の漢字体系であった。78JISともよばれる。その後、何度か改定されている。現在はJIS X 0208「7ビット及び8ビットの2バイト情報交換用符号化漢字集合」である。
アメ リカ政府関係の動き
1) LLNL (DYNA3D)
1976年、LLNL (Lawrence Livermore National Laboratory)のDr. John O. Hallquistは、3次元陽的構造解析のプログラムDYNA3Dを開発した。当時3次元の有限要素法プログラムは皆無であった。1978年、DYNA3Dのソースコードが公開された。1979年には、Cray-1に最適化したDYNA3Dの新しい版が公開された。有用性が知れ渡り、1988年までにLLNLはこのソフトを収録した磁気テープを600本配布した。HallquistはDYNA3Dのプログラムをもとに、LS-DYNAを開発し、1987年Livermore Software Technology Corporationを設立し販売とサポートを開始した。
2) 財務省
1972年には日本からの繊維の輸出が問題になったが、アメリカ財務省は、1978年3月30日、日本製カラーテレビ受像機のダンピング輸出を問題にした。これが1980年代の日米貿易摩擦につながって行く。
3) 日米半導体摩擦(「日本人はスパイ」)
既報のように、1977年ごろから半導体やコンピュータに関して、アメリカから日本への攻勢が強まってきたが、折も折、アメリカの経済誌Fortuneの1978年2月27日号は、“The Japanese Spies in Silicon Valley”と題する特集記事を組み、日本企業はシリコンバレーに出先機関を置いて、情報を収集し、製品を買いあさって日本に送っていると厳しく非難し、対日警戒心を煽った。
ヨーロッパの政府関係の動き
1) フランス電信電話総局(Minitel開始)
フランスの電信電話総局(後のFrance Telecom)は、ビデオテックス用端末Minitelを、1978年から試験的に始め、1982年には全フランスでサービスを開始した。鉄道、航空機、ホテルなどの予約ができ、オンラインショッピングや生活情報などさまざまなサービスが提供されていた。一時は900万世帯が利用していた。1988年にフランスの大学を訪問した時、教授が研究費の申請などもMinitelを通して提出できると聞いてびっくりした。結果的にフランスのインターネット普及を遅らせたという指摘もある。2012年にはサービスを終了した。さまざまなビデオテックスサービスのなかで、北米のNAPLPSや日本のCAPTAINはあまり普及しなかったが、Minitelは唯一の成功例といわれる。
その他の政府の動き
1) CSIRO (オーストラリア)
オーストラリア政府の研究所CSIRO (The Commonwealth Scientific and Industrial Research Organisation)は、1978年度に富士通のM-190を導入するとともに、富士通と共同研究契約を結んだ。
世界の学界の動き
1) Systolic array
米国Carnegie-Mellon大学にいた、H.T. Kung (Hsiang-Tsung Kung、孔祥重)とCharles E. Leisersonは、1978年4月に、“Systolic Array for (VLSI)”(CMU-CS-79-103)を発表し、シストリック・アレイを提案した。このテクニカルレポートの最終版は1978年12月で、著作権表示は1979年なので、公表は1979年かもしれない。これは2次元六角形メッシュ状に配置したプロセッサ上で、2次元パイプライン処理により並列演算を行うアーキテクチャである。データ駆動計算機とは異なり、同期的に動作する。Systolicとは心臓の鼓動を表す。これにより、行列の乗算、LU分解、三角形係数行列の一次方程式の解法などの処理ができることを示した。
2) DRAMのソフトエラー
Intel社のTimothy C. MayとMurray H. Woodsは、1978年4月18日~20日にSan Diegoで開催された16th International Reliability Physics Symposiumにおいて、” A New Physical Mechanism for Soft Errors in Dynamic Memories”という論文を発表し、DRAMのソフトエラーの原因がパッケージに含まれる微量の放射性物質によるα線であることを証明した。
3) Antony Hoare (CSP)
Oxford大学のCharles Antony Richard Hoare (Tony Hoare)は、1978年の論文で入出力命令を基礎としたメッセージ通信に基づく並行計算モデルCSP (Communicating Sequential Processes)を提唱した。Hoareは1980年のチューリング賞を受賞した。1982年にInmos社のOccamとして実装された。Occamの開発にはHoare自身も協力した。
4) Donald Knuth (TeX)
Stanford大学のDonald Ervin Knuthは組版システムTeXの初版を1978年に公開した。
国際会議
1) ISSCC 1978
記念すべき第25回目(Silver Anniversary)となるISSCC 1978(1978 IEEE International Solid-State Circuits Conference)は、1978年2月15日~17日に(初めてPhiladelphiaを離れて)San Franciscoのホテルで開催された。その理由は、アジアからの参加者が増えたことと、シリコンバレーから参加しやすくするためとしている。これが好評なら、東西で交互に開催する予定だ、と組織委員長は述べている。主催はIEEE Solid-State Circuits Council、IEEE Philadelphia Sections、San Francisco Bay Area Council、University of Pennsylvaniaである。組織委員長はDavid A. Hodges (U. of California)、プログラム委員長はJohn d. Heightley (SNL)であった。1件の基調講演が行われた。
A Prognosis of the Intercontinental LSI Battle |
Ian M. Mackintosh, Mackintosh Consultants Co. Ltd., London, England |
会議録はIEEE Xploreに置かれている。
2) ICHEP
筆者は、1978年8月22日~30日に新宿京王プラザホテルで開かれた”International Conference on High Energy Physics”「高エネルギー物理学国際会議」(2年に1回、偶数年)の事務局を担当し、約1年はその開催準備に忙殺された。参加者は900人。冒頭の社会の動きに書いたように、成田空港開港に反対する過激派が3月26日に成田空港管制塔に乱入し機器を破壊したため開港が延期になり、5月20日にやっと開港した。参加者へのサーキュラーに、成田が使えるとか使えないとか混乱した情報を書くことになった。もちろん、当時日本にはwebどころか電子メールさえなかった。今から思えばメールもなしに国際会議を組織するなんて想像できない。海外への唯一の高速ディジタル通信はTELEXで、御陰さまでTELEXの名手になった。
たまたまこの会議が、中国と台湾の参加者が同席する初めての(学術的な)国際会議であったので、発表内容よりもそこにマスコミの注目が集まった。参加者全員の名札に国名を書かず、所属と都市名だけにした。筆者が開会前日たまたまホテルの事務局控え室にいたら、Washington Postの香港支局から電話が掛かってきた(もちろん英語で)。「中国と台湾の双方が出席するというが本当か?」「本当だ」「実際に同席したのか?」というあたりでカチンと来たので、“I have seen physicists both from China and Taiwan. I do not know if they met together or not. I would like to stress that we gather here as scientists, not representing countries.” とか電話に向かって怒鳴った。翌日、この筆者のコメントが(幸い「スポークスマン曰く」ということで名前は出なかったが)AP電で世界を駆け巡った。まあ、とっさにしては上手く答えたというべきか。
ソ連からも代表団を送ってきたが、外貨は1人の担当者だけが握っていた。第2陣が着くが誰も日本円を持っていないというので、事務局長の指示で筆者と家内が成田空港まで迎えに行った。出口が2つあるので、2人必要であった。どうにか捕まえて新宿までの高速バスに乗せたが、道路沿いにたくさんあるゴルフ練習場のネットを見つけて「あれは何だ、刑務所か?」というので笑ってしまった。そんな時代であった。もちろん掛った全費用は代表団に請求した。
筆者は、この会議の直前8月1日に、高エネルギー研の隣(と言っても5キロあるが)の筑波大学に転任し、講師に昇格した。
3) USA-Japan Computer Conference
1972年、1975年に続く第3回日米コンピュータ会議が、1978年10月10日~12日に、San FranciscoのJack Tar Hotelで開催された。前2回と同様に、日本の情報処理学会とアメリカのAFIPSとの共同開催であった。参加者は日本側139名、アメリカ側260名の計399名で、発表論文は95件であった。『情報処理』20巻3号(1979年3月号)に詳細な報告が掲載されている。アメリカ側の参加者の熱意が低かったとのことである。アメリカから見れば多くの会議の一つに過ぎないからであろう。
4) ARCS 1978
第5回目となるARCS 1978がこの年開催されたようであるが、詳細は不明。
5) ICPP 1978
Sagamore Computer Conference on Parallel Processingから通算して第7回目となるICPP 1978 (International Conference on Parallel Processing 1978)が開催された。日時、場所は不明である。
アメリカの企業の動き
1) Cray Research社
日本クレイからいただいたリストによると、1978年には計6台のCray-1が出荷された。一つは、LLLのCTRCC(Controlled Thermonuclear Research Computer Center, 制御核融合研究センター)である。また計算サービス会社のUnited Computing Systems(当時、McDonnell Douglasの子会社)にも納入された。1977年に書いたように、ヨーロッパのECMWFは、Cray-1を買い替えたらしい。また、イギリスの国防省も買っている。あと2件は「米国」とだけ書かれて購入者は不明であるが、おそらく軍か情報機関であろう。
![]() |
|
DEC VT100ターミナル |
|
2) DEC社(VAX-11/780, VT100)
前年発表されたVAX-11/780が1978年2月に出荷され始めた。Virtual Address eXtensionからその名を付けたといわれるように、ページ方式の仮想記憶であった。PDP-11と同様、インタフェースが公開され実験装置などと接続することが容易だったので、データ収集や機器制御用のマシンとしても広く使われた。
1978年8月、ビデオ文字ターミナルVT100を発売した。Intel 8080を搭載している。長く、ビデオターミナルのde facto standardであった。
3) Data General社(Eclipse)
同社は1974年にEclipseと呼ばれる新しい16ビットマシンを発表していたが、やっと1978年に出荷した。仮想記憶とマルチタスク機能を搭載したマシンで、発表時の前評判は良かったが、出荷時には上記の32ビットのVAX-11とぶつかってしまった。
4) IBM社(System/38)
IBM System/38は、1978年10月に発表され、1979年8月に出荷開始された。Future Systems Projectの成果を継承して、単一レベル記憶を採用し、主記憶と磁気ディスクなど補助記憶装置が、単一の仮想アドレス空間にマップされている。アドレスは48ビットであった。ファイルという概念はなく、OSがすべてのデータを管理する。ビジネスアプリケーションサーバAS/400 (1988)の前身である。
5) Sperry Rand社
1978年、同社はコンピュータに集中することを決定し、コンピュータと直接関連しない子会社を売却し、社名をもとのSperry Corporationに戻した。1986年にはBurroughsに買収される。
6) Intel社(Intel 8086)
1978年6月8日にIntel社は16ビットマイクロプロセッサ8086を発表した。その後パソコンに広く採用されたCPUチップである。1979年7月1日には、外部データバスを8ビットに格下げした8088を発表する。初期のIBM PCに採用された。
7) Zilog社(Z8000)
Zilog社は、1978年12月、16ビットマイクロプロセッサZ8000を発売した。コンピュータ向けのZ8001と、組み込み向けのZ8002とがある。Z8001では、7ビットのセグメントレジスタによるアドレス拡張を行い、Z8010 (MMU)で実アドレスに変換し、アドレス空間を8 MBまで拡張している。
企業の創業
1) Inmos社
1978年7月、イギリスの半導体会社Inmos LimitedがBristolで設立された。英国政府からNEB (National Enterprise Board)を通して£50Mの初期投資を得た。アメリカの子会社Inmos Corporationはコロラド州に設立された。SRAMの製造では一時世界の60%のシェアを持っていた。1980年代に一世を風靡したマクロプロセッサTransputerシリーズを開発製造した会社である。1994年12月、Inmos社はSTMicroelectronicsに吸収され、ブランドは消滅した。
次回1979年、CDC社はベクトルコンピュータCyber 203を発表する。イギリスではICL社が1ビットプロセッサを64×64の格子状に結合した超並列コンピュータDAPを出荷する。
(アイキャッチ画像:DEC VAX 11/780 出典:Computer History Museum)
![]() |
![]() |
![]() |
1件のコメントがあります
いつも楽しく拝見しております。
1978年と言えば、私は小学6年生でした。
コンピュータというものに興味は持っていましたが、世の中で
どんな動きが起きているかについては、全く知りませんでした。
FORTRAN77の規格が制定されたり、BSD Unixがリリースされたり、
Intel 8086が発表されたりと、色々とエポックメイキングな出来事が
あった年だったのですね。
そう言えば、シャープのMZ-80Kが発売されたのも1978年だったようです。
中学のとき、コンピュータクラブにあったので、時々使わせてもらっていました。
起動するたびにカセットテープからBASICインタプリタを読み込むので、
時間が掛かっていましたが、その代わり、テープを入れ替えれば他の言語にも
対応できるというのが売りだったと思います。
小柳先生の記事にあったZ8000については、大学のとき、自分でシステムを
組んでみました。Z8001を使ったのですが、残念ながら、Z8010 MMUを
つなげると、どうしてもうまく動かず、MMU無しで、セグメント番号を
そのまま上位の物理アドレスとして使って動かしていました。
8ビットCPUに比べると、演算関係の命令が格段に強力だったので、
数値計算のプログラムなどを作って動かした記憶があります。
その後、32ビットCPUが出てくると、クロック周波数もどんどん上がって
いきますが、アマチュアの実装技術では手が出せなくなってしまいました。
Z8000、68000あたりが、アマチュアでも手を出せる最後の世代だったように
思います。
長文失礼いたしました。
今後とも記事を楽しみにしております。