新HPCの歩み(第60回)-1979年(a)-
神戸大学ではLISP専用のFAST LISPを稼働させ、東大では汎用機上でHLISPを開発し、REDUCEを稼働させた。三菱電機はMELCOM COSMOシリーズを開発したが、少ない物理メモリで多数のTSS端末を駆動できたので、大学の教育用システムに多数採用された。 |
社会の動き
1979年(昭和54年)の社会の動きは、1/1米中国交成立、1/7ベトナム軍がポル・ポト政権を追放、1/13大学共通一次試験始まる、1/25上越新幹線の大清水トンネル貫通、1/16イランのパフラヴィー国王がエジプトへ亡命(2/1イラン革命)、1/26三菱銀行猟銃人質事件、2/1ルーホッラー・ホメイニが亡命先からイランに帰国、2/17中越国境紛争始まる(3/16終結)、3/14日本で電話の全国自動即時化完了、3/28スリーマイル島の加圧水型原子炉で事故、4/8東京都知事選挙、鈴木俊一当選、4/28渋谷道玄坂下に「ファッションコミュニティ109」開業、5/4サッチャーが英首相に就任、5/13大夕張炭鉱でガス爆発事故、5/22 Ezra F. Vogel 著“Japan as Number One: Lessons for America”出版、6/2教皇ヨハネ・パウロ2世ポーランド訪問(6/10まで)、6/12元号法公布、即日施行、6/18ウィーンでSALT II 調印、6/24カーター大統領来日、6/28-29東京サミット、7/1ソニー、ウォークマン販売開始、7/8朝永振一郎死去、7/11東名日本坂トンネル事故、7/26イラクでサダム・フセインが大統領就任、8/2神野寺トラ脱走騒動(8/28最後の1頭射殺)、9/3落語家の六代目三遊亭圓生死去、9/4上野動物園のランラン死亡、9/6日本鉄道建設公団の不正経理発覚、その後公費天国が続々明るみに、9/7大平正芳首相、衆議院を解散(10/7の総選挙で大敗)、10月は自民党40日抗争、10/26朴正煕韓国大統領(朴槿恵前大統領の父)、側近に暗殺、10/28御嶽山(長野県)が歴史上初噴火、11/4イランのアメリカ大使館を過激派が占拠、11/9第2次大平内閣発足、11/25ユナボマーがアメリカン航空の航空機を爆破テロ、12/3電電公社が自動車電話サービスを東京23区で開始、12/4 KDD本社などを関税法違反容疑で家宅捜索し、派手な政官界工作などが明るみに出た、12/12韓国で全斗煥少将が軍の実権を把握、12/12国鉄宮崎実験センターで、リニアモーターカーが504 km/hの世界記録を達成、12/24ソ連アフガニスタン侵攻。
3/28にスリーマイル島の加圧水型原子炉で起こった事故はレベル5の事故であった。当時、とんでもない大事故と思っていたが、比較的少量の希ガスやヨウ素が放出されただけであり、今から考えるとレベル7の福島原発事故よりははるかに小さなものであった。
流行語・話題語としては、「ウサギ小屋」「エガワる」「キャリア・ウーマン」「インベーダーゲーム」「地球の歩き方」「カラ出張」「公費天国」「熟年」「ダサい」「ナウい」「ハマトラ」「天中殺」(和泉宗章)「関白宣言」「おもいで酒」(小林幸子)「酒が飲めるぞ」(バラクーダ)など。
チューリング賞は、APLに代表される数学的記法とプログラミング言語理論への貢献に対してKenneth Eugene Iverson(IBM)に授与された。授賞式は、1979年10月29日、Detroitで開催されたACM年次総会で行われた。
第1回エッカート・モークリー賞はBurroughs社のコンピュータ・システム研究部長でB5000の設計者であるあるRobert S. Bartonに授与された。
ノーベル物理学賞は、電弱統一理論の提唱および弱中性カレントの予想に対し、Sheldon Lee Glashow、Abdus Salam、Steven Weinbergの3名に授与された。化学賞は、新しい有機合成法の開発に対し、Herbert Charles BrownとGeorg Wittigに授与された。生理学・医学賞は、コンピュータ断層撮影(CT)の開発に対し、Godfrey HounsfieldとAllan McLeod Cormackに授与された。
アメリカ出張
1) MITのWCC会議
1979年7月12日~24日に、アメリカのMITでWCC(世界キリスト教協議会、プロテスタントと正教会の連合体)世界会議”Faith, Science and the Future”があり、どういうわけかカトリックの筆者もプロテスタントの日本基督教団からの代表団に加えていただいた(旅費、宿泊費、参加費は会議持ち)。全体で2000人以上の大きな会議であった。そこでは、科学技術の社会的責任、開発の諸問題、資源の収奪、地球温暖化などが論じられ、スリーマイル島の原発事故を引き合いに出して、科学技術の在り方が問われた。
送られてきたチケットは7月10日成田発の大韓航空のソウル・ニューヨーク経由、ボストン行であった(ちなみにこの逆方向の大韓航空007便は、1983年9月1日にソ連防空軍に撃墜された)。出発前に家内が「最近韓国で日本人が頻々と行方不明になっているそうだから注意して」と言っていた。今から思うと1977年から始まった北朝鮮による拉致工作のことだと思われるが、それは韓国内ではなく、日本国内であった。マスコミで報道されたのは1980年頃からである。ソウルでは空港で乗り継ぐだけなので大丈夫であったが、ニューヨーク着が遅れて、ボストン行に乗りそこなった。航空会社に手配させた空港近くのツーリストホテルで他の日本からの参加者2名(一人は宇井純、もう一人はICUの学生)と一夜を過ごした。
2) LBL滞在
会議からの帰り、7月28日から8月11日までLBLに滞在したが、共同研究のPDG (Particle Data Group)の友人達は「今度、LBLの計算機室に新しいコンピュータが入る」と浮かれていた。「何というコンピュータですか」と聞くと、「VAX two」とのこと、どうもVAX-11を読み違えたようである。また、このとき初めてARPANETにちょっとだけ触ることができた。TCP/IP以前のARPANETである(TCP/IPの採用は1983年)。手元のCDC 6600のタイプライタ端末から、まずLondonのゲートウェイにログインし、そこから改めてRutherford Laboratoryのコンピュータにログインし、そこの素粒子のデータベースを検索した。つながると、テレタイプ端末からイギリスの時刻が打ち出されるのを見て感激した。その時のログを持っていたはずだが、どこかへ行ってしまった。
8月6日の朝、LBLに行った途端、「今、大きな地震があったぞ。ヨシオは感じたか?」とか言われた。10時5分はちょうど歩いていた時間で、なにも感じなかった。翌日の現地の新聞(San Francisco Chronicle)を見たら、「今世紀最大の地震」とトップで報じられていた。今回調べたら、Coyote Lake地震と呼ばれ、M5.7で、シリコンバレーのあたりが一番揺れたらしい。けが人が16人とか。Berkeleyあたりでは震度1程度であろう。日本人にとっては屁の河童である。
3) ハワイでの空席待ち
LBLに寄るので、出発前に帰りの便をサンフランシスコ経由に変更しようとしたが、混んでいてホノルルまでしか予約が取れず、残りはオープンのチケットにしてくれた。ハワイ大学ではちょうどそのころ素粒子の日米サマースクールが行われていたので、そのレクリエーション部分だけに参加しながら、便が取れるのを待っていた。チケットは三四日で取れ、最前列のいい席で帰ってきた。ビジネスクラスだったのかもしれない。当時は、そんなものがあることさえ知らなかった。
8月19日に無事帰国したが、予定より遅くなってしまった(と思った)。大学の事務に「予約が取れなかったので」と理由書を提出したら、事務からは「小柳さんは予定より早かったんですよ」と言われた。そこで「予約が取りにくいので、早めに取れたチケットで帰国した」と理由を書き換えた。いいかげんなものである。研修だったので、当時は融通が利いたようだ。
日本政府関係の動き
1) 電電公社(DIPS-11/5)
DIPS-11/10シリーズの後継機として、1977年10月からDIPS-11/5シリーズの開発が電電公社研究所で開始された。1979年12月にはDIPS-11/5およびFCP(ファイル制御装置)が完成した。11/15および11/35は1980年9月に完成、11/25は1981年4月に、11/45は1982年3月に完成した。1983年2月18日付日経産業新聞によると、DIPS上でのシステム開発にAda言語を使うことを決めたとのことであるが、本当に使ったのかは不明である。
2) 第五世代コンピュータプロジェクト
1979年度から3年間の計画で、第五世代コンピュータプロジェクトのための調査研究が始まった。当時、自動車、家電製品、半導体などに続きコンピュータ、特にIBM互換機の輸出が急に伸び始め、日本人は真似ばかりしていて独創性がないとの非難が一層高まったときであった。当時のコンピュータは3.5世代などと呼ばれていたが、このプロジェクトは、国際貢献を果たしつつ技術先進国として発展するという我が国の政策のもとに始められ、国際的にみても創造的・先駆的な技術という意味を込めて第4世代を飛び越え「第五世代コンピュータ」と名付けられた。
1979年4月19日、日本情報処理開発協会(JIPDEC)内に元岡達東大教授を委員長として22名の委員で「第五世代コンピュータ調査研究委員会」を設置し、その下に、「基礎理論研究分科会(主査渕一博)」「アーキテクチャ研究分科会(主査相磯秀夫)」「社会環境研究分科会(主査唐津一)」をおいた。委員会のメンバには、大学や研究所、コンピュータメーカーからの研究者・技術者に加えて、銀行や製造業からも入っている。
調査研究の内容は
・近未来の重要なコンピュータ技術
・社会のニーズとの結びつき
・国際的に見たオリジナリティ
・国際的な貢献に役立つ技術開発のあり方
・日本のナショナルプロジェクトとしてふさわしい枠組み
であった。調査された近未来の重要なコンピュータの候補としては
・人工知能研究に基づく、知識処理試行の推論コンピュータ技術
・大規模データベース、知識ベース処理向きのコンピュータ技術
・VLSI化技術とこれを駆使した高性能ワークステーション技術
・ワークステーション、大型機、専用機をネットワーク結合した機能分散システム技術
・大規模科学技術計算向きのスーパーコンピュータ技術
であった。スーパーコンピュータまで候補に入っているのは驚きであるが、これは後述の「スーパーコン大プロ」で開発される。電総研の渕一博らは、以前から「論理プログラミング」に関心を持っており、渕は調査研究委員会で、「述語論理をベースにしてハードとソフトの体系を再構築する」ことを強く主張した。3年間の議論の結果、以下の結論を得た。
◇結論 ・「第五世代コンピュータ」は「知識処理試行の推論コンピュータ」を中核とする。 ◇研究開発目標 ・知識情報処理を指向した革新的なコンピュータのハードウェア、ソフトウェアの基礎技術の開発。 ◇研究開発の内容 ・「知識ベースを用いる推論操作」を動作原理とする革新的なコンピュータ技術の体系を構築。 |
通産省はこの結論を受け入れた。
3) 図書館情報大学開学
1979年10月、筑波大学の南隣に、図書館短期大学を前身として、図書館情報大学が4年制国立大学として開学した。図書館情報学部図書館情報学科の1学部1学科、定員120人の構成であった。初代学長は松田智雄東京大学名誉教授(経済史)。教員の1/3は情報科学・情報工学の出身、1/3は図書館学や文献学の出身である。初期の情報関係の教員としては、日立出身の村田健郎(計算機システム、数値解析)、京都大学出身の星野總(中国文学研究、最適化)、東京大学大型計算機センター出身の山本毅雄(化学、データベース)など多様な構成であった。2002年に筑波大学と合併し、2004年に完全統合される。
日本の大学センター等
1) 北海道大学(HITAC M-180×2+M-180)
1979年10月、北海道大学大型計算機センターはこれまでの富士通機から日立機に機種変更した。HITAC M-180×2+M-180(主記憶22 MB)のシステムが設置された。
富士通機のFORTRANコンパイラには、基本区間への写像の際の丸め誤差を避けるために、標準にはないが、ラジアンではなくπ/2 (half pi)を単位とした三角関数の組み込み関数(SINHPなど)が用意されていた。機種変更の際、事情を知らないSEが、互換性のために、単純にSINHP(x) = SIN((π/2)*x) というような置き換えをしたので、かえって丸め誤差が増えてしまった、という話を聞いた覚えがある。
同年、情報処理教育センターが設立され、北海道大学初代大型計算機センター長を務めた田中一教授がセンター長となった。
2) 東北大学(公衆回線TSS)
東北大学大型計算機センターは、1979年5月、公衆回線によるネットワークのサービスを開始した。また、11月、ACOS900IIの運用を開始した。
3) 東京大学
東京大学大型計算機センターのHITAC 8700/8800は1972年末に設置されて以来年数が経っていたが、更新の概算要求はなかなか認められなかった。1979年にやっと調査費がつき、工学部の元岡達教授を委員長とする共同利用推進調査委員会が組織され、大型計算機の全国における需要を調査し、機種更新が必要なことを示した。Dual processorのM200Hが4台からなるシステムは1980年1月から稼働する。
4) 名古屋大学(FACOM M-200×3)
名古屋大学大型計算機センターは、1979年11月、富士通のM-200を導入した。CPUは3台、メモリは24 MBであった。
5) 九州大学(FACOM M-200)
九州大学大型計算機センターは、1977年から利用してきたM-190を、1979年11月、FACOM M-200に更新した。また1979年秋からセンターの建物の増築工事を行った。1980年5月31日に増築の記念式典が行われた。
6) 秋田大学(ACOS 300)
1979年4月、秋田大学は計算センターを設置し、ACOS77 NEACシステム300を導入。
7) 神戸大学(ACOS 700)
計算センターは、1979年2月、FACOM 230-35をACOS 700に更新した。
8) 工学院大学(ACOS 700)
工学院大学電子計算機センターは、1979年、日本電気ACOSシリーズモデル700を導入し、TSSオンラインサービスによる授業利用を開始した。
9) 慶応義塾大学(FACOM M-180、FACOM M-160)
1979年、大型計算機の管理・運営を一元化するため大学計算機センターを設立した。日吉にはFAOCM M-180を、三田へはFACOM M-160を導入した。
10) 上智大学(RJE)
上智大学電子計算機室は、1979年3月、東京大学大型計算機センターと4800bpsの特定通信回線で結び、RJEステーションを開設した。
11) 統計数理研究所(HITAC M-180+8400)
統計数理研究所では、HITAC 8700+8400システムを、1979年までに、HITAC M-180+8400に更新した。M-180のメモリは2 MB、8400のメモリは262 KBである。ハイブリッド計算機S300も運用されている。
12) 東京大学原子核研究所(FACOM M-180IIAD×2)
同研究所の中央計算機の利用が増大したので、年間借料1.8億円のレンタル予算が1978年度に認められ、FACOM M-180IIADの2式を中心とするシステムが1979年1月から稼働した。発注は1978年7月31日。
13) 京都大学数理解析研究所
数理解析研究所附属計算機構研究施設は、1979年2月、それまでのTOSBAC 3400をDEC 2020にリプレースした。一松信教授は、それを機に、1979年12月10日~13日にアメリカのSan Diegoで開催されたDECUS (Digital Equipment Corporation Users Society)のFall Symposiumに出席した。
日本の学界の動き
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神戸大学LISPマシン |
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1) 神戸大(FAST LISP)
研究用マシンとしては、金田悠紀夫と瀧和男(神戸大学)がLISP専用マシンFAST LISPを1979年2月に稼動させた。このマシンは2012年3月6日に、情報処理学会により2011年度情報処理学会情報処理技術遺産として認定され、神戸大学システム情報学研究科棟の玄関に展示されている。
2)東京大学( HLISP)
後藤英一(東京大学)は、金田康正とともに、HLISP(ハッシュLISPの意味か)をHITAC 8800/8700上で開発し、このころ公開した。またその上に数式処理システムREDUCEを載せた。筆者は、HLISPは知らないが、REDUCEは随分愛用した記憶がある。1979年2月付で、金田康正著のマニュアルがあるが、金田の博士論文“New Algorithms for Symbolic formula Manipulation”の補遺らしい。その頃、後藤先生が、「HITACでもFACOMでも、FORTRANシステムをだまして、再帰呼び出しができた」と得意げに話しておられたことを思い出す。最近発見したが、後藤先生はbit誌1974年3月号に、再帰呼び出し可能に拡張したFORTRAN*について詳しく書いておられる。
3) SALS
筆者等が1975年から開発していた最小二乗法標準プログラムSALSは、東大大型センターライブラリ開発および科研費丘本班のサポートを得て順調に開発され、1979年4月21日にSALS 2.0の完成記念パーティを行った。前年からは、東大大型センターなどでSALS講習会をたびたび行い、普及に努めた。その後も改良を進め、SALS 2.5まで公表した。海外の数件を含め、大学や研究所に100件以上移植を行った。一時はかなり使われた。
4) HEMT
富士通研究所の三村高志は、半導体ヘテロ接合に勇気された高移動度の2次元電子ガスをチャネルとした電気効果トランジスタHEMT (High Electron Mobility Transistor)を発明した。GaAsなど化合物半導体で作成される。1981年ら始まった「スーパーコン大プロ」において、シリコン素子に代わる新しい高速論理素子の一つとして取り上げられた。
5) 朝永振一郎死去
1965年ノーベル物理学賞受賞の朝永振一郎博士は、喉頭がんのため1979年7月8日に亡くなられた。駒込の理研旧本部で行われた葬儀に参列した。
6) 湯川記念館資料室
日本初のノーベル賞を受賞した湯川秀樹教授は、1970年定年により退官したが、創立以来所長を務めていた基礎物理学家研究所は、1979年8月、中間子論ならびにそれに関連する国内研究者の業績等について、その歴史的資料を収集・整理・保存し、研究者の利用に供するため、所内措置により「湯川記念館史料室」を発足させた。亡くなられるのは1981年9月8日。2021年からは常設展示「湯川秀樹と読書」がオープンしている(完全予約制)。
国内会議
1) 数値解析研究会
1978年は開催されなかったが、自主的に企画している数値解析研究会(後の数値解析シンポジウム)は、第8回を初めて名古屋大学二宮研究室が担当し、1979年6月1日(金)~2日(土)に愛知県民の森(愛知県新城市門谷鳳来寺)で開催された。参加者45名。中川徹がSALSについて発表した。筆者はまだ参加していない。
日本の企業の動き
日本ではIBM対抗のコンピュータが続々発表された。
1) 富士通(FACOM M-130F, 140F, 150F, 160F)
4月、富士通は中型汎用機FACOM M-130F, 140F, 150F, 160Fを発表した。要素技術としては、1979年末、64 Kb DRAMの生産開始。Intelより2年早かった。
2) 日立(HITAC M-160H, 150H, 140H)
6月、日立は中型汎用機HITAC M-160H, 150H, 140Hを発表した。
前年発表されたHITAC M-200Hは出荷され、東大大型計算機センターでは、IAP付きのM-200Hが、2台のマルチプロセッサ4ノードが疎結合されたシステム(CPUは合計8台)として翌1980年1月から稼動した。このIAPはれっきとしたベクトルプロセッサであり、性能(加速率)はほどほどであったが、TSSからも使用することができ、筆者の愛用マシンの一つであった。高エネルギー研では、1981年8月にM-200Hが3台のマルチプロセッサとして稼動を始める。
記憶ははっきりしないが、日立製作所は1970年代後半に、VOS3のためのスクリーンエディタDESP (Display Editor for Structured Programmaning)を開発した。DESPは、ビデオ端末であるT560/20およびH-9415の特徴を生かし、TSSの操作に不慣れなユーザでも、容易に使用できるよう設計された、操作性に優れたエンドユーザ向け画面エディタである。
3) 日本電気(ACOSシステム350, 450, 550、PC-8001)
10月、日本電気はACOSシステム350, 450, 550を発表(これらはハネウェルの技術による32ビットマシンで、OSはACOS-4)した。System 450, 550はマルチプロセッサ構成が可能。
5月9日、パソコンではPC-8001を発表した。Zilog社のZ80 CPU互換の自社製チップμPD780C-1にMicrosoft Basicを搭載。発売は9月。9月28日がこの機種の発売日として「パソコンの日」とされるが、NECの公式見解では日付はなく、「9月」としている。
4) 三菱電機・沖電気(COSMO 700III, 700S, COSMO 900II)
三菱電機と沖電気工業は、1976年11月15日、共同開発したCOSMO 700III、700Sを、12月にはCOSMO 900IIを発表した。700IIは、論理回路に高性能LSIを採用し、主記憶にICメモリ(4Kバイト/チップ)を採用した。MELCOM COSMOシリーズはMELCOM 7000シリーズとの互換性を維持している。少ない物理メモリで多数のTSS端末を駆動できたので、大学の教育用システムに多数採用された。MELCOM COSMO 700IIIは、ベクトル演算を高速で実行するアレイ処理装置(IAP)を内蔵していた。筆者は筑波大学でこのマシンを教育用として使ったが、IAPについての記憶はない。
5) 東芝(EPOS, JW-10)
東京芝浦電気(1984年から東芝)はEPOS (Experimental Polyprocessor System)と名付けたバス結合の並列コンピュータを開発していたが、1979年4月のISCA (International Symposium on Computer Architecture, Philadelphia)で発表した。
同社は初の日本語ワードプロセッサJW-10を1978年9月に発表していたが、1979年2月出荷した。筆者も筑波大で愛用したが、事務机ほどの機械で、価格は630万円であった。記憶媒体は8インチのフロッピーディスクである。
6) インテルジャパン社
1976年4月28日、東京世田谷区桜新町にインテルジャパン株式会社が設立されたが、1979年4月、嶋正利を再び迎えてインテル・ジャパン・デザインセンターを設立し、CPUの開発などを行った。嶋は1972年11月から1975年2月まで米国のIntel社に出向して8080の開発を行ったことがある。このあと1981年につくば本社がつくば市東光台に研究開発拠点として開設される。氏はVMテクノロジー社を設立するため1986年インテルジャパンを退社した。なお、インテルジャパンは1997年2月1日にインテル株式会社に商号変更。インテル株式会社は、茨城県つくば市のつくば本社を、2017年1月1日付けで東京本社に統合する。
次回は、標準化や世界の情勢である。2BSD Unixがリリースされる。Unixマシン同士でデータ転送を行う通信プロトコルUUCPが公開され、ネットニュースも始まる。
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1件のコメントがあります
こういう文献があるようです
ので、たぶんAdaはDIPSで
開発されたのかなと思います
(失敗したなどという場合
にはあえて特集号に書くとも
思えませんので)。
(論文の中身は観ておりませ
ん)
「Adaの応用と評価:Adaの適用例(その1):DIPSプロジェクトにおけるAdaの開発適用状況」
情報処理 27(3), p237-243, 1986-03-15, 一般社団法人情報処理学会
https://ci.nii.ac.jp/naid/110002717780
佐藤 靖:「電電公社の DIPS-I 計画と日本におけるソフトウェア工学」、技術と文明、16巻、l号(4)?
http://www.jshit.org/kaishi_bn2/16_1sato.pdf