世界のスーパーコンピュータとそれを動かす人々


9月 8, 2014

HPCの歩み50年(第8回)-1972~73年-

小柳 義夫 (高度情報科学技術研究機構)

小柳 義夫(神戸大学 特命教授)

IBMのSystem/360に対抗して通産省が力を入れた超高性能電子計算機プロジェクトで技術開発したHITAC 8800/8700が1972年8月に完成し、東工大や東大に納入された。アメリカではILLIAC IVがやっと稼動し、担当会社の一つであるTexas Instruments社は、ベクトルコンピュータASC の1号機を1972年オランダに出荷した。Seymour CrayがCray Research社を作ったのもこの年である。同年、Goodyear Aerospace社が1ビットプロセッサの並列計算機STARANを稼動させた。後のCM-1を思わせる。

1972年は、2/21~28ニクソン中国訪問、3/27沖縄密約極秘文書暴露、5/13千日デパート火災、5/25沖縄返還、5/3日本赤軍、テルアビブ空港で乱射、6/17ウォーターゲート事件発覚、7/7田中角栄首相に、8/26ミュンヘンオリンピック開幕(9/11まで)、9/5パレスチナゲリラ、ミュンヘン五輪村を襲撃、9/29日中共同声明、11/6日航機ハイジャック、北陸トンネル内列車火災、11/28日航機モスクワで墜落、などいろいろあった。

1973年は、1/27ベトナム和平協定締結、3/13上尾騒乱、3/29米軍、ベトナム撤退完了、4/27交通ゼネスト、6/4魚介類PCB汚染発覚、7/20日航機ハイジャック、8/8金大中拉致、9/25滋賀銀行詐取事件、10/6第4次中東戦争、オイルショックへ、トイレットペーパーの買いだめなど、11/29熊本市大洋デパート火災、12/29映画『日本沈没』公開など。オイルショックと日本沈没は高度経済成長の終焉を印象づけた。この年、江崎玲於奈がノーベル物理学賞受賞。

わたくしごとであるが、筆者は1973年6月に結婚した。その直後、第1回核研(東京大学原子核研究所)シンポジウムが1973年7月23~27日に東大理学部の講義室で開かれ、S事務局長の補佐役を務めたが、この分野で久しぶりの国際学会なのでいろいろ苦労があった。アメリカには1960年からJASONという科学者による政府諮問機関があり、30から60人のメンバーでさまざまな問題について科学技術の立場から政府に答申を出していた。現在でも続いているようである。内容は秘密であったが、当時はベトナム戦争の最中であり、「いかに効率的にベトナム人を殺すか」などということも議論されていると暴露された。招待を予定していたうちの一人のB博士がそれに加わっていることが分かり、国内からこんなシンポジウムは止めろ、と強い批判があった。議論の末、博士の招待を取り消し、開催にはこぎ着けた。

さらに難問が待ち受けていた。この会には中国が数名の物理学者を送り込んできた。1972年9月29日、田中角栄と周恩来が日中共同声明に調印したばかりであり、日本政府はピリピリしていた。まだ四人組の時代である。公安の警護はついたが、会場まで入れるわけにはいかないので、苦労した。万一、右翼でも乱入した場合を考えて、逃げ道や隠れ場所を用意した。出席者の一人楊振寧(C. N. Yang, City University of New York)は、以前に「尖閣諸島は中国のもの」などと発言していたが、アメリカ国籍なので警察は目を付けていなかった。われわれは楊振寧の方が狙われるのではないかと思い、屈強の若手物理学者を護衛につけた。彼は面倒がって、警護を巻いてしまい、あまり役には立たなかった。台湾からの出席はなかった。多分、招待しても来なかったと思う。中国・台湾の問題は1978年に起こる。

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1976年のKEK全景(画像提供:高エネルギー加速器研究機構(KEK))

9月には、前年発足したばかりの高エネルギー研究所(KEK)の理論部門の初代助手に、紳士協定で任期5~7年ということで転任した。妻が東大に通っていたので単身赴任した。高エネルギー研は定期バスも通らない陸の孤島であった(正確に言うと少し離れた所を国鉄バスがたまに走っていた)。宿舎から研究所までは雇い上げのバスで通った。東大通りもまだ片側しかできず、しかも砂利道で、共同溝は建設中であった。東京に出かけるのは一日仕事であった。研究所には1月からHITAC 8700が設置されていた。まだTSS端末はなく、ユーザファイルもなかった。周辺機器としては9トラックの他に7トラックのオープンリール磁気テープとか、紙テープとか使われていた。「高エネルギー研では7トラックしか読めない」という誤った情報がアメリカに伝わり、アメリカから大量の7トラックテープのデータが送られてきて変換が大変だった想い出がある。その後1977年2月にHITAC 8800×2に増強。雇い上げのバスから見ていたら、10月1日朝、筑波大学の看板が上がっていた。学生が来たのは翌年4月であった。

日本の動き

1) 「広域大量情報の高次処理」
日本のその後の情報科学や計算科学技術に大きな影響を与えた、文部省科学研究費特定研究「広域大量情報の高次処理」が日本学術会議の推薦により1973年から3年間の計画で始まった。1976年から1979年までの4年間は「学術情報の組織化と情報システムの形成」という特定研究が走った。N-1ネットワークもこの動きの中から生まれた。

2) 「数値解析研究会」始まる
現在も続いている「数値解析シンポジウム」の前身である「数値解析研究会」の第1回が、1972年10月24日(火)~26日(木)に東芝の日光保養所で開かれた。参加者23名であった。全く自主的な活動であり、学会とは関係なく、自主的に企画を行っている。1982年に始まった情報処理学会の「数値解析研究会」とは組織的には無関係である。

第1回は、1日に講演7件とゆったりした会合であった。当時のテーマは、関数近似、悪条件行列、有限桁演算でのNewton法の収束、重調和方程式、高速フーリエ変換、Runge-Kutta法など、HPCというより丸め誤差や打ち切り誤差をどう減らすかが課題であった。第2回の「数値解析研究会」は、1973年5月16日(水)~18日(金)に山梨大学清里寮で開催された。参加者22名。1973年は、もう一回、第3回が1973年11月16日(金)~18日(日)に熱海の来宮の双柿舎(坪内逍遙の旧居)で開催された。参加者39名。

数値解析シンポジウムはその後、ほぼ年1回開催されている。最初は二三十人のこぢんまりとした会合であったが、1979年から名古屋大学二宮市三研究室が中心となって100人が参加する大シンポジウムに発展させた。1984年の第13回からは「数値解析シンポジウム」と名称を変更した。筆者も1980年の第9回から何度か参加した。2014年は第43回(石垣島)であった。現在では日本応用数理学会共催となっているが、最初からかなり長い間ボランタリーな会合として開催された。

なお、「プログラミングシンポジウム」は1960年を第1回として毎年開催されている。現在は情報処理学会が主催しているが、最初は自主的なシンポジウムであった。初期の講演テーマを見ると、数値解析関係の講演も少なくない。この数値解析研究会が始まってからは、プログラミングシンポジウムのテーマはソフトウェア科学の分野が中心になったようである。

3) 数理解析研究所
京都大学数理解析研究所は、1972年10月31日~11月2日、高橋秀俊(東京大学)を代表者として、「数値計算のアルゴリズムの研究」という研究集会を開催した。4回目である。報告は講究録No.172に収録されている。
第5回目は、1973年10月31日~11月2日、高橋秀俊を代表者として、「数値計算のアルゴリズムの研究」という研究集会が開催された。報告は講究録No.199に収録されている。この回は、Fortranプログラムの最適化や仮想記憶を意識したプログラミングなど、計算機システム寄りの話題が多い。

日本の企業の動き

通産省の指導により、System/370対抗のため、国産6社が1972年3月に3グループに編成されたことは前回述べた。

1) 日立
日立は、1966年IBMのSystem/360に対抗して通産省が力を入れた超高性能電子計算機プロジェクトで開発したHITAC 8800/8700が1972年8月に完成し、10月からは東京工業大学情報処理センターで、翌年1月東京大学大型計算機センターで稼動し、東大では4月から利用開始された。東工大はシングルプロセッサであったが、東大はHITAC 8800×2+HITAC 8700×2 の異機種混合マルチプロセッサであった。その後HITAC 8800×3+HITAC 8700×1に増強されたようである。OS7というOSで制御されメモリ共有マシンであった。国産初の多重仮想記憶方式(4 KBページ)であった。物理アドレスは24ビットだったと思うが、ユーザ当たり231バイトの仮想アドレスが使えた。メモリ(8 MB)は当初磁気コアだったが、途中で半導体メモリに変更された記憶がある。仮想空間はジョブ毎に独立の多重仮想空間であるが、先頭の部分だけはすべてのプロセスに共通のシステム空間であった。会話処理とバッチ処理がほぼ同一のコマンドで記述する方式であった。ただ、初期には1ユーザあたり60 KB(60 MBではない!)のディスクスペースしか割り当てられなかったのでそれほど便利ではなかった。バッチ処理ではカードリーダを利用者が操作してジョブを投入し、ジョブが終了するとラインプリンタのそばのトークンカードリーダにカードを挿入して出力した。筆者は設置時から利用したが、当初はシステムがしばしばダウンし、カードリーダの前には長い列ができた。命令セットアーキテクチャは、IBMのSystem/360に似ていた。ただ、(仮想)アドレスが32ビットなので、アドレスを処理するためにLAE (load-address-extended)とかいう命令を使っていた記憶がある。

もう時効だとは思うが、OS7にはとんでもないバグがあり、任意のユーザのパスワードなどの個人プロファイルを誰でも読むことができた。プロファイルにはファイルの共有情報が記憶されているので、他のユーザのファイルにアクセスしようとすると、そのユーザのプロファイル(もちろん暗号化されている)を読み出し、これを仮想空間上で復号し、共有の可否をチェックし、ファイルにアクセスする。当然、アクセス後には仮想空間上の平文のプロファイル情報は消去される。ところが、ファイルが実在せず異常終了すると消去を忘れてしまうらしい。つまりわざと異常終了させて仮想空間をサーチすると平文のパスワードなどを読むことができた。

2) 富士通
富士通は、仮想記憶方式を採用した中~大型汎用機FACOM 230-8シリーズを発表した。

アメリカの動き

1) ICPP始まる
1972年、最初のICPP (International Conference on Parallel Processing)が開催された。28回まではアメリカ国内で開かれたが、1999年からは4年周期でアジア・ヨーロッパ・北米で交互に(?)開催されている。

2) ILLIAC IV
1972年、難航していた並列計算機ILLIAC IVがNASA AMES研究センターで一応完成した。契約から8年であった。

3) EISPACK
ANLのB. SmithらはJ. Dongarra(当時は学部生でANLのインターン)らとともに、行列の固有値固有ベクトル計算のためのFORTRANライブラリEISPACKを1972-3頃開発した。池辺八洲彦(1978から筑波大学、故人)も著者の一人である。

4) C言語
忘れてはならないのは、1972年KernighanとRitchieがAT&T Bell LabsにおいてC言語を開発したことである。かれらはUnixの大部分をCで書き直した。

アメリカの企業の動き

アメリカではスーパーコンピュータに向かう動きが次第に見えてきている。

1) Texas Instruments
Illiac IVを担当者会社の一つTI (Texas Instruments)社は、1966年頃からベクトルコンピュータの開発を進めていたが、30 MFlopsのマシンASC (TI Advanced Scientific Computer)が完成し、1972年11月に1号機がオランダに出荷された。全体で6機もしくは7機が製造されたが、Cray-1の出現により、1976年春に活動を終了した。わずかな保守の人員を残して、大部分他のプロジェクトに再配置された。

2) Burroughts社
ILLIAC IVを担当したもう一つの会社Burroughs社(1886年創業)は、1973年頃から並列コンピュータBSPの設計を開始したと言われている。

3) Goodyear Aerospace社
またこの1972年、Goodyear Aerospace社がSTARANを稼動させた。Goodyear Tire and Rubber Companyはアメリカのゴムやタイヤの大会社であるが、その航空防衛産業の子会社である。連想メモリを持つ1ビットの演算要素を4×256に配置したSIMDマシンである。目的は不明。同社は、1983年5月には128×128の演算要素を配置したMPPを製造し、NASA Goddard Space Flight Centerに設置している。MPPは衛星画像の分析が目的であった。この会社は1987年にLoral Corporationに売却された。後のCM-1を思わせる。

4) IBM社
IBM社は、1972年8月、System/370 model 158, 168 を発表した。仮想記憶機構を初めて採用し、各社に大きな影響を与えた。

5) Xerox社
またXerox社は、1973年5月、Ethernetの特許を出願した。

ベンチャー企業の創業

1) Cray Research社
1972年、Seymour CrayがCDCを離れ、Cray Research 社を設立した。彼が設計を始めたCDC 8600が会社から拒否されたからと言われている。筆者はSC 92の歴史展示において、チッピワ・フォールズのCrayの博物館から貸与されたCDC 8600の模型が展示されているのを見たが、後のCray-1とよく似ていた。

(タイトル画像:HITAC8800 出典: 一般社団法人 情報処理学会 Web サイト「コンピュータ博物館」)

次回は1974年、通産省の補助金により日本の各社は続々メインフレームの新機種を登場させる。一方、CDCはベクトルコンピュータSTAR-100をLLNLに納入する。

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