世界のスーパーコンピュータとそれを動かす人々


11月 8, 2021

新HPCの歩み(第67回)-1982年(b)-

小柳 義夫 (高度情報科学技術研究機構)

日本にもスーパーコンピュータの風が吹き始めた。1982年7月5日に富士通はベクトル型スーパーコンピュータFACOM VP-100/200を、8月30日に日立が同じくスーパーコンピュータHITAC S-810を発表した。

国内会議

1) 情報処理学会「数値解析研究会」
第1回の数値解析研究会は、1982年7月2日に開催された。研究会資料によると4件の発表が行われた。この年度には4回の会合がもたれ、計13件の発表がなされた。当時の予稿集には手書きのものも多く、時代を感じさせる。

発表テーマを見て感じることは、意外にも、数学的な解析よりもコンピュータシステム上の問題が幅広く議論されていることである。丸め誤差の問題はもちろん、仮想メモリ上での大規模計算(メモリ階層の問題)、ベクトル計算機による大規模計算などのテーマが出ている。さらに、応用分野からの発表もいくつか見られる。「地表における観測記録から地下構造を推定する方法」(和知登、石油公団)、「大気の光学的厚さに対する太陽の伝達輝度の反転」(上野季夫、金沢工大)などである。主査が企画したのかも知れない。

1993年に数値解析研究会を発展的に解消し、「ハイパフォーマンスコンピューティング研究会(通称HPC研究会)」となった。

筆者の記録では、発足2年前の1980年6月19日に機械振興会館で開催された「数値解析研究会」に参加しており、浜田穂積のURRについての講演を聞いた記録がある。情報処理学会の「数値解析研究会」発足の前なので何かと思っていたが、福井氏の話によると、これは1977年4月に戸川隼人が京都産業大学から日本大学に移った時に始め、しばらく続いた私的な研究会「数値解析談話会」ではないか、とのことである。

2) 数値解析研究会
自主的に企画している、第11回数値解析研究会(後の数値解析シンポジウム)は、名古屋大学二宮研究室の担当で、1982年5月27日(木)~29日(土)に、近江八幡国民休暇村で開催された。参加者109名。筆者も参加した。この時行われたパネル討論会『数値解析の現状および将来の展望』(司会:森正武(筑波大学)、パネリスト:伊理正夫(東京大学)、村田健郎(日立製作所)、池辺八洲彦(筑波大学)、佐々木建昭(理化学研究所))の記録が、bit誌1982年10月号p.4-14に掲載されている。フロアからも熱心な発言があった。何枚かの写真も載っているが、皆さん若い(約40年前です)。残念ながら、司会者とパネリストの内、ご存命なのは佐々木建昭氏だけとなってしまった。

この年だったか別の年だったか記憶ははっきりしないが、筆者がPAXなどの並列計算機に興味を持っているというと、参加していた若手のコンピュータ科学者松浦俊彦氏(富士通)から、「アムダールの法則というのがあって、高並列計算機は実用にならない。小柳さん、悪いこと言わないから止めた方がいいよ。」と「親切な」ご忠告を頂いた。今から思うと昔日の感がある。

3) 数理解析研究所
京都大学数理解析研究所は、1982年11月18日~20日、森正武(筑波大学)を代表者として、「数値計算のアルゴリズムの研究」という研究集会を開催した。第14回目である。報告は講究録No.483に収録されている。PACS(PAXの旧名)によるGauss-Jordan法、IAPによる数値計算など、並列やベクトルのアルゴリズムが盛んに議論されている。

1982年6月24日~26日には、後藤英一(東京大学)を代表者として、「ソフトウェア科学、工学における数理的方法」という研究集会が開かれた。第4回目である。筆者はこの回には参加していない。研究発表は講究録No.482に収められているが、2日目にパネル討論会「新しいプログラミング概念とアーキテクチャ 本当に有効か」が開かれ、これについては、bit誌1982年12月号p.4-19 にかなり詳しく記録されている。司会は後藤英一、パネリストは雨宮真人(武蔵野通研)、片山卓也(東京工業大学)、川合敏雄(慶応義塾大学)、村田健郎(日立中研)、山本昌弘(日本電気)である。論点は、LSI、VLSIの進歩により可能になった新しいアーキテクチャがソフトウェア危機を救うかどうかということであった。元日立の川合は筑波大学で稼働中のPACS-32(PAX-32)を取り上げ、「自然を対象にするためには並列処理の方が適していて、ソフトも書きやすい。Amdahlの法則は問題設定が間違っている(今の言葉で言えば、weak scaling で十分)」と述べた。当時、ベクトル計算機を開発中であった村田は、「わたしは、並列型のスーパーコンピュータには加担しない」と述べて、元同僚の川合の発言をけん制した。汎用性(メインフレームからの移行も含めて)という点ではベクトルの方が適しているということであろう。この場だけではないが、村田健郎の「わたしは並列に組しない(加担しない)」という微妙な発言は並列業界で注目された。1987年に筑波大学の岩崎・星野グループによるQCDPAXプロジェクトが科研費特別推進として採択され、開発製造を担当してくれる企業を国内外で探したが、日立製作所は丁重に断ってきた。その背後には村田健郎のこの方針があったと思われる。

日本の企業の動き

1) IBM産業スパイ事件
1982年6月22日、日立製作所や三菱電機の社員など計6名が、アメリカIBM社のOS (System/370-XA)などに関する機密情報に対する産業スパイ行為を行ったとして、アメリカ国内で逮捕された。刑事事件としては1983年2月8日に司法取引によって決着し、民事損害賠償訴訟は1983年10月6日に和解に達した。筑波大学電子・情報工学系の中田育夫教授(元、日立製作所)は、1982年の1月から1年間の予定で米国のIBMの研究所に滞在していたので、この事件で居心地が悪くなるのではと心配した。実際は何も問題はなかったようである。

民事訴訟の和解では、アーキテクチャ関連の文書の変換、訴訟費用の負担などに関するものが公開されているが、1983年12月7日の朝日新聞の記事によれば、「IBMのソフトウェアに類似している日立のソフトウェアについては、使用料を支払う」「IBM互換機を商品化する際、基本的な接続情報の対価を支払う」との秘密協定があったとのことで、その金額は非常に大きかったとのことである。

他方富士通は、IBM社が著作権法違反で訴えようとしていることを察知して1982年末ごろから極秘交渉を開始し、1983年7月20日にIBM社と和解契約および外部仕様情報の有償利用に関する契約を結んだといわれている。

2) 本格的ベクトルスーパーコンピュータの発表(富士通、日立)
日本にもスーパーコンピュータの風が吹き始めた。1982年7月5日に富士通はベクトル型スーパーコンピュータFACOM VP-100/200を、8月30日に日立が同じくスーパーコンピュータHITAC S-810を発表した。いわゆるIBM産業スパイ事件(6/22)の直後であった。出荷は双方とも1983年である。日刊工業新聞には、早くも1979年9月27日号に富士通が科学技術計算用の「ベクタープロセッサ」を開発していることが報道されている。また、情報産業新聞1980年4月21日号は、日立がM-200Hをフロントエンドとするスーパーコンピュータを開発中と報じている。

アメリカからは、「自動車では負けたかも知れないが、(技術の粋である)スーパーコンピュータなんか日本に作れるものか」という反応が伝えられた。

3) 日立製作所(VOS3/SP)
日立製作所は、VOS3を拡張したVOS3/SPを1981年2月にHITAC M-280Hと同時に発表していたが、1982年3月からリリースした。VOS3はハードウェアバンドルの無償ソフトウェアであったが、VOS3/SPからVOS3制御プログラムの機能エンハンスを、有償のプログラムプロダクトとして提供するようにした。31ビットアドレシングとなるのは、1984年出荷のVOS3/ES1から。

4) 富士通(OSIV/F4 MSP)
富士通は、1982年6月に、OSIV/F4 MSP (Multidimensional System Products)を発表した。これは既存のOSIV/F4を発展させ31ビットアドレッシングにより、2 GBまでの仮想空間を管理できる。OSIV/F4 MSPのE10が1983年3月,2 GBの仮想記憶空間をサポートしたE20が1984年1月から提供が開始される。これは、1981年に発表し、1983年4月から提供されているIBM System/370-XAに対抗するOSである。

5) 日本電気(MS190、PC-9801)
日本電気は32ビットスーパーミニコンピュータNEC MS190を開発し、1982年1月18日から発売した。1982年4月には下位機種のMS120およびMS140を発売した。このシリーズは、32ビットアーキテクチャの採用に加え、パイプライン制御、,メモリインタリーブ、OS機能の一部ファームウェア化、高速標準バスなどを採用し、システムの高速化を実現した。特にMS190は、ACOSシステム1000の技術であるゲート遅延0.5 nsで1200ゲートのCML LSIを採用し、科学技術計算で高いパフォーマンスを実現した。

1982年10月13日、16ビットパソコンPC-9801を発売した。CPUはi8086互換のmPD8086であり、メモリは最小128KB、最大640KBであった。全盛期には、日本のパソコンの90%を占めたと言われる。初代PC-9801は2009年3月2日、情報処理学会から2008年情報処理技術遺産として認定された。

このころであろうか、名前は忘れたがPC-8800上で動く日本語ワープロソフトがあった。あまりにもトロいので誰かがプロテクトをほどいて中を見たら、BASICで書かれていて、見るからにひどいソフトであった。プロテクトを掛けて見えなくしていたわけがわかった、と一同納得した。

1982年6月、基礎研究所およびマイクロエレクトロニクス研究所が設置された。

6) 富士通(My OASYS)
富士通は、1980年に日本語ワードプロセッサOASYS 100を発売していたが、1982年、100万円を切るMy OASYSを発表した。大容量ミニフロッピーにA4判文書40ページと辞書5万語が収容可能である。イメージキャラクターに高見山を起用した。

7) ジャストシステム社(KTIS)
同社はパソコン用の日本語処理システムを1981年ごろから開発していたが、1982年10月、8ビットマイコンOSであるCP/M用の日本語処理システム“KTIS”をデータショーで発表した。KTISは翌1983年10月、NECのPC-100に搭載して発売した。

8) 日本IBM社(東京基礎研究所)
日本アイ・ビー・エム株式会社は、1982年、東京基礎研究所を東京の三番町に開設した。IBM社としてアジア地域初の基礎研究所である。

9) 日本ディジタルイクイップメント
米社DEC (Digital Equipment Corporation、1957年設立)は、1968年に日本支社を設け、少人数で販売代理店の株式会社理経が納入したミニコンピュータの保守サービスを行ってきたが、1982年日本法人「日本ディジタルイクイップメント株式会社」を設立した。

標準化

1) FORTRAN 77
ANSIでは1978年に、ISOでは1980年に制定されたFORTRAN 77は、日本では1982年2月、JIS C 6201-1982として制定された。1987年3月1日からはJIS X 3001-1982と呼ばれる。

ネットワーク

1) KDD
KDDは、1982年4月1日、国際パケット通信網サービスVENUS-Pを開始した。8月10日、DDXとの相互接続を郵政省に許可申請した。2006年3月31日にサービス終了。

2) SMTP
標準化されたメール転送のためのプロトコルは、1982年8月、SMTP (Simple Mail Transfer Protocol)として制定された。

3) EUnet
1982年、英国、オランダ、デンマーク、スウェーデンの4か国の間にUUCPリンクが張られた。EUnet (European Unix network)の始まりであると同時に、初めての国際的UUCP接続であった。

アメリカ政府関係の動き

1) Lax Report
Peter Lax はニューヨーク大学のCourant Instituteの応用数学の教授であり、ニューヨーク大学のコンピュータセンターのセンター長を務めた。彼は、NSF、国防省、エネルギー省、NASAの支援を得て、“Panel on Large Scale Computing in Science and Engineering”を組織した。このパネルは、1982年12月26日、後にLax Reportの名前で呼ばれる208ページのレポートを発表、次の4点の主要な勧告を行った。

(1) アカデミアの研究者にスーパーコンピュータへのアクセスを改善すること
(2) 計算数学の研究やアルゴリズム開発を推進し、それを使ったソフトウェアを作成すること
(3) 新しいアーキテクチャのシステムの研究開発を増強すること
(4) 数値シミュレーションのための先端計算のユーザを育成すること。とくに学部学生や大学院生に対して。

つまり、DOEやNASAや軍の研究所にはスーパーコンピュータが設置されているが、アメリカの大学にはスーパーコンピュータ施設が不足していること、そしてスーパーコンピュータ利用のできない科学者は計算能力を必要とする問題を避けるようになると警告した。これは種々の研究領域におけるアメリカの科学者の主導的地位を危うくするものである、と述べた。

一番はっきりした効果は、NSF (National Science Foundation) がHPCに資金を提供するようになり、1985~6年、5カ所の大学スーパーコンピュータセンターを設立したことである。

– The Cornell Theory Center at Cornell University (1985)
– NCSA at University of Illinois at Urbana-Champaign (1985)
– The Pittsburgh Supercomputing Centerat Carnegie Mellon University and the University of Pittsburgh (1986)
– The San Diego Supercomputer Center at University of California, San Diego (1986)
– The John von Neumann Center at Princeton University (1986)

このあと、日本のスーパーコンピュータが予想以上の性能を出し、それが日本の大学環境に多数設置されると、アメリカの焦りはさらに続くことになる。

中国の動き

1) 中国のコンピュータ開発
詳細は不明であるが、1980年前後の中国でのコンピュータ開発の情報を、”Advances in Computers”から記す。試作か量産かも不明である。

機種

開発者

素子

Bit

 

1976

013

CAS ICT

IC

48

Disk, OS, FORTRAN

1981

150-AP

CAS ICT

IC

24

 

 

757

CAS ICT

IC

64

Vector(?)

 

BCM-2

Beijing Computer Tech. Research Inst

Z80

8

Process Chinese(?)

 

BCM-3

Beijing No.2 Computer Facgory

 

16

 

 

CS2115C

Beijing No.3 Computer Factory

 

 

 

 

DJS-035

No.734 Factory

AIM-65

 

 

1982

DJS-045

No.735 Factory

Z80

8

 

CAS ICT = Chinese Academy of Sciences, Institute of Computing Technology

(?)は意味不明である。これ以降、8080や6800など既製のプロセッサを用いたコンピュータが、多くの大学等で製作されている。

アメリカ学界の動き

1) 「2000年のコンピュータ言語」
1980年のTuring賞を受賞したSir Charles Antholny Richard (Tony) Hoare(Oxford大学)は、1982 AFIPS National Computing Conferenceで配られたカードにこう書いたと言われている。

“I don’t know what the language of the year 2000 will look like, but I know it will be called Fortran.”

「西暦2000年の(プログラミング)言語がどんなものになるかは知らないが、それはきっとFortranと呼ばれているに違いない。」

国際会議

1) ISSCC 1982
第29回目となるISSCC 1982 (1982 IEEE International Solid-State Circuits Conference)は、1982年2月10日~12日にSan FranciscoのHilton Hotelで開催された。主催はIEEE Solid-State Circuits Council、IEEE San Francisco Section、Bay Area Council、University of Pennsylvaniaである。組織委員長はJ. A. A. Raper (General Electric)、プログラム委員長はPaul R. Gray (U. of California)であった。John S. Mayo (Bell Labs)が“Technology Needs of the Information Age”と題して基調講演を行った。会議録はIEEE Xploreに置かれている。

2) ICPP 1982
第11回目となるICPP 1982 (International Conference on Parallel Processing)は、1982年8月24日~27日にミシガン州Bellaireで開催された。Trier大学のdblpによると、この年からはIEEE/CSの名前が入り、講演タイトルだけは記録されている。

3) ARCS 1982
この年、第7回目となるARCS 1982が開かれたらしいが詳細は不明。

次回はアメリカの企業の話。Cray ResearchがCray X-MPを発表する。また、Sun MicrosystemsやCompaqやAlliantやConvexやSGIがベンチャーとして設立される。この頃から設立される多くのベンチャーはほとんど1990年代に消滅するが、残した技術的インパクトは計り知れない。

 

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