新HPCの歩み(第92回)-1989年(d)-
Intel社はi486やi860を発表し、nCUBE社はnCUBE 2を発表した。Seymour CrayはCray Computer社を設立し、Cray-3の開発に取り組んだ。Floating Point Sysems社のソフトウェア部門関係者によりPGI (The Portland Group)が1989年創設され、i860のコンパイラを開発した。 |
SC’89
1) 初めに
第2回のSupercomputing会議(Supercomputing ’89、SC’89またはSC89)は、11/13-19にネバダ州Renoで開催され、筆者は初めて参加した。主催はIEEE/CSとACM SIGARCで、主要な役員は以下の通り。今年からは、Executive Committee(実行委員会?)とSteering Committee(長期計画委員会?)とに分かれている。
Executive Committee |
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General Chairperson |
F. Ron Bailey |
NASA Ames |
Prgoram Chairperson |
Gary Johnson |
Inst. For Scientific Computing |
Tutorials Chairperson |
John Riganati |
Supercomputing Research Center |
Exhibits Chairperson |
Howard Johnson |
Information Inteligence Science Inc. |
Registration/Local Arrangement Chairperson |
Lys Dunham |
NASA Ames |
Finance Chairperson |
Raymond L. Elliott |
LANL |
Publications Chairperson |
C. Edward Oliver |
Air Force Weapons Laboratory |
Publicity Chairperson |
Beerly Clayton |
Pittsburgh Supercomputing Center |
Steering Committee |
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Robert Borchers |
LLNL |
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Bill Buzbee |
NCAR |
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Melvin Ciment |
NSF |
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Doug Degroot |
ACM SIGARCH (UT Dallas) |
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Jack Dongarra |
ANL |
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Harlow Freitag |
Supercomputing Research Center |
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Joanne L. Martin |
IEEE/CS (IBM) |
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George Michael |
Past General Chair (LLNL) |
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Norman R. Morse |
LANL |
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Victor L. Peterson |
NSAS Ames |
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Robert G. Voigt |
SIAM (ICASE) |
今回のプログラム委員はわずか15人で構成されていて、日本からはRaul Mendez (ISR)だけである。
筆者の泊まったホテルのだだっ広い1階ロビーが全部カジノで埋まっておりびっくりした。ある日、ホテル内のレストランで中澤喜三郎先生、白川友紀氏と3人で夕食を食べ、ロビーに出て何気なくポケットのつり銭quarter 3枚を一つずつスロットマシンに入れた。3つ目を入れたとたん、“7”が3つ並び14枚ものquarterが出てきた。Beginner’s luckであろうか。そこでピタッと止め、「オレは掛け金を約5倍に増やした」と自慢したものである。
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会場は、筆者がそれまで見たこともないような巨大な建物で度肝を抜かれた。ただ、最終日には州政府が消防法違反で改善命令を出したそうで、悪くすると来年にも閉鎖に追い込まれるかもしれないとのことであった。
参加者は1926人、展示は計47件であった。この時は登録にtechnical/exhibitionの区別はなかった。日本からは去年より少なく、20名あまりで、大学関係では京都大学の津田先生ご一行、早稲田大学の村岡先生ご一行、村井純氏らWIDEグループなどが記憶に残っている。筑波大学からは、中澤喜三郎先生、白川友紀氏と筆者の3人であった。
2) 企業展示
初めて見る企業展示は立派で驚いた。でも現在よりははるかに小規模である。Evans and Sutherland社は、この年発表したばかりのベクトルコンピュータES-1を展示していたが、会期中にコンピュータ部門の閉鎖が発表された。2台売れただけであった。私が同社の展示を見ていたら、三浦謙一氏(当時、富士通)がやってきて、「小柳君、いくら見ても無駄だよ。この会社は今日つぶれたんだから。」 翌日からは、展示の社員が会場で職探しをしていたとかいうことである。(後述のアメリカの企業を参照)
3) 基調講演
開会式の基調講演で、Cray Research社のCEOであるRollwagen会長(49)は「東西の壁が破られた今、我々は東側にもスーパーコンピュータを売ることができるので前途洋々だ。」と述べたが、筆者は、軍事予算が減ってむしろ売り上げは減るのではと心配した。その後の推移を見ると私の予想の方が当たったようだ。
2000年代になって、SC’89レポートを公開したら、1992年頃に日本クレイ社に入社したS氏からメールをいただき、彼が入社内定のとき父親に言われた言葉を教えてくださった。「お前は、世界最先端の会社に就職しようとしている。それは、とてもよいことだ。しかし、お父さんが社会人になろうとしていた時代の最先端産業は石炭だった。今、石炭産業は死滅している。もしかすると、スーパーコンピュータ産業というのも衰退するかもしれない。」彼は、「何言っているんだ。クレイは、アメリカの国宝だ。いつまでもNo.1だ」と心の中で、父親に反抗していたそうである。何という慧眼のお父様であろうか。Cray社は現在も頑張っているが、幾多の苦難と変身を経てきた。今(2018年)これを読みなおして、温暖化を無視して炭鉱産業を復興しようとしている某国大統領を思い出した。
4) Round Table
一番印象に残っているのはCenter Directors’ Round Talbeで、主要なテーマは(HPCCプログラムに連なる)OSTPの報告書”The Federal High Performance Computing Program”を政府に認めさせようということであった。ある経済予測家がもっともらしいグラフを示しながら、「いま○億ドルを投資すれば○年後日本に勝てるが、このままでは永久に日本の後塵を拝することになる。」と日本を仮想敵国(「実」敵国かも?)として熱っぽく議論していたのが印象的だった。思わずあたりを見回すと、その部屋にいた日本人は筆者ただ一人だった。
5) Wall Streetから見たスーパーコンピュータ
16日(木)の昼食会のスピーチで、G. P. Smaby という経済アナリストが、「ウォールストリートから見たスーパーコンピュータ」と題して講演を行った。彼によればCrayの株が下がり○[不明。Convexか?]の株が上がっていることからも分かるように、メガクラスのスーパーコンピュータには先がなく、これから伸びるのはエントリーレベルのスーパーコンピュータである、とのことである。筆者はこれを聞いてこうメモしている。「あまりに短視眼ではないか。Cray-1だって、初めは世界に数台もあれば十分と言われていたし、日本でも、大学のスパコンは一つあれば十分という時代もあった。日本に120台以上のスパコンが動くという時代が来ることを、だれが予言したであろうか。」
Smabyはスーパーコンピュータ業界の動向を4つの標語にまとめた。
(a) Death: “Supercomputer dead or wounded”として20ほどの会社名などを挙げた。DenelcoreやETAはいいとして、The Fifth Generationまで入っていたのにはびっくりした。
(b) Divide: Steve ChenがCrayを飛び出して、SSIを創ったことを指摘した。
(c) Baby boom:アメリカで多くのベンチャービジネスが続々と生まれている。
(d) Shotgun marriage:筆者はこの言葉を誤解していて、アメリカ政府が日本をピストルで脅してアメリカのスパコンを買わせていることを指すのかと思ったが、shotgun marriageとは「できちゃった婚」のことで、ArdentとStellerの合併のことを指していたらしい。
6) Killer Micros
筆者の記憶にはないが、SC‘89のTeraflop Computing Panel においてEugene Brooks (LLNL)が”Attack of the Killer Micros″という問題提起を行い、「マイクロプロセッサの性能が急速に向上しているので、ミニコンも、メインフレームも、スーパーコンピュータでさえ、”Killer Micros”の攻撃に対抗できない。」と述べた。同名のかなり厚いレポートを1991年10月にKahanerから受け取った。予言の通り、その後、汎用プロセッサを用いた高性能コンピュータが主流を占めるようになった。特に、1993年に、IBMがSP1を、Cray ResearchがT3Dを発表したことは衝撃的であった。この講演のタイトルは、娯楽映画の題名“Attack of the Killer Tomatoes”から来ているようである。パネルの発題なので会議録には収録されていない。WikipediaではSC90での発言とされている。その可能性もある。
7) 投稿論文
3~4の並行セッションで行われた。内容は大きくArchitecture, Algorithm, Applicationに分かれている。会議録はACM Digital Libraryに収録されている。
当時、その重要性を認識せず聞きにも行かなかったが、Michael Wolfe (Oregon Graduate Institutte)の論文“More iteration space tiling”はその後のチューニングの方向性を示す画期的な論文であった。この論文は、SC17において“SC Test of Time Award”を受賞した。30年経っても価値を失わない論文は素晴らしい。
この回には下記のように日本からの講演が以下のように10件と多いが、これはRaul Mendezがプログラム委員として尽力したそうである。アメリカ側も、日本のスーパーコンピュータの状況について知りたがっていた。
K. Fujii, Y. Tamura |
“Capability of current supercomputers for the computational fluid dynamics” |
Y. Fukui, H. Yoshida, S. Higono |
“Supercomputing of circuits simulation” |
T. Tsuda, Y. Kunieda, P. Atipas |
“Automatic vectorization of character string manipulation and relational operations in Pascal” |
T. Shirakawa, T. Hoshino, Y. Oyanagi, Y. Iwasaki, T. Yoshie |
“QCDPAX — an MIMD array of vector processors for the numerical simulation of quantum chromodynamics” |
H. Yamana, T. Hagiwara, J. Kohdate, Y. Muraoka |
“A preceding activation scheme with graph unfolding for the parallel processing system-array” |
J. Murai, H. Kusumoto, S. Yamaguchi, A. Kato |
“Construction of internet for Japanese academic communities” |
H. Nishino, S. Naka, K. Ikumi, W. Leslie |
“High performance file system for supercomputing environment” |
H. Nobayashi, C. Eoyang |
“A comparison study of automatically vectorizing Fortran compilers” |
P. Tang, R. H. Mendez |
“Memory conflicts and machine performance” |
T. Watanabe, H. Matsumoto, P. D. Tannenbaum |
“Hardware technology and architecture of the NEC SX-3/SX-X supercomputer system” |
このうちNobayashiらの論文は、日米のFORTRAN自動ベクトル化コンパイラを比較し、日本の3社のコンパイラが非常に優れていることを実証的に示した論文である。
筆者も共著者であったが白川友紀が登壇してQCDPAXについて講演した。
日本電気の渡辺貞のSX-3に関する講演は、大入り満員で熱気にあふれ、質問に対してちょっとでも言いよどむと、「何か隠しているのでは」と会場が興奮に包まれたことを覚えている。特にメモリバンド幅やランダムアクセス性能について鋭い質問が出た。
島田俊夫のSigma-1に関する講演はキャンセルされた。
8) NOと言える日本
余談であるが、このころ盛田昭夫、石原慎太郎共著「NO(ノー)と言える日本――新日米関係の方策」(光文社、1989)の英語の海賊版“The Japan That Can Say No”が出て、アメリカでも話題になっていた。ホテルでアメリカのテレビ局のモーニングショーを見ていたら、盛田氏が英語で出演していた。盛田氏曰く、「私はアメリカに留学し多くを学んだ。私はアメリカを尊敬している。」これに対し女性キャスター、「しかし、あなたはこの本でアメリカを批判しているではないか?」これに対する盛田の答えはパンチが効いていた。
“To speak frankly is also what I learned in the United States.”(歯に衣着せず発言することも、私がアメリカで学んだことの一つです)
盛田昭夫氏は1999年10月3日に、石原慎太郎氏は2022年2月1日に亡くなられた。
9) サンフランシスコ周辺の大地震
これも余談であるが、SC’89の直前、10月17日17時4分にサンノゼ市の近くのLoma Prieta山付近を震源とするM6.9の大地震が起こった。サンフランシスコの多くの建物が壊れ、高速道路が倒壊したり、サフランシスコ・オークランド・ベイブリッジのスパン1個が崩落したり、死者62名の大被害が出た。SC’89の最中、11月18日にベイブリッジは復旧したが、開通式典でサンフランシスコとオークランドの両市長が両側から歩いて渡り、橋の上で握手。なんとかという歌手(Tony Bennettか?)が有名な”I left my heart in San Francisco”を歌ったというニュースが流れていた。この地震に近いM6.0の地震が、25年ぶり2014年8月24日3時20分にNapa Valley付近で起こり、多くのワインが被害に遭った。
世界の企業の動き
1) Intel社(i860、x86)
月は不明だがIntel社はi860マイクロプロセッサを発表した。これはx86とは全く異なるRISCプロセッサであった。i860およびその後継であるi860XP (1991)は、iPSC/860, Touchstone Delta, ParagonのCPUとして用いたほか、多くの他社のCPUまたはFPUとして採用された。たとえば沖電気のOKIstation 7300、クボタコンピュータのTitan VISTRA、SGI Reality Engine、Mercury Computer Systems、AlliantのFX/2800、ドイツのGMDのMannaなどがある。ただ、商業的には成功といえず、1990年代中頃には消滅した。
他方x86系統ではi486を4月に発表した。FPUをCPUに統合した。1992年にはi586を、1995年にはi686を、1997年から98年にはi786を開発し、2000年にはMICRO 2000に到達するという計画を発表した(日刊工業新聞9月14日号)。実際には1993年3月に、i586ではなくPentiumが発表され、5月から出荷されることになる。
2) Myrias Research社(SPS-2)
カナダのMyrias Research社(1983年創業)は、4月、MC68020を用いた512プロセッサのSPS-2が稼働した。
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3) nCUBE社(nCUBE 2)
1983年創業のnCUBE社は6月nCUBE 2を発表した。プロセッサはメモリを含めて1インチ×3.5インチの細長いモジュールに収まり、64ノードで1枚のボードを構成している。nCUBEの筐体の一つにはピラミッド型の上蓋が付いているが、いつかどこかで「なんでこんな形をしているのか。放熱のためか?」と聞いたところ、「上にものを置かないためだよ」という答えだった。写真は電気通信大学のコミュニケーションミュージアムより。
1992年4月号のSupercomputing Review誌によると、1992年3月現在、6台のnCUBE 2が日本で使われている。日本の代理店は住商エレクトロニクスである。
設置場所 |
プロセッサ数(メモリ) |
目的 |
某企業の研究所(神奈川県) |
32 (4 MB/P) |
対象認識 |
ATR |
64 |
ニューラルネットワーク |
高エネルギー物理学研究所 |
16 |
並列処理、物理計算 |
京都産業大学 |
64 |
応用数学における並列処理 |
成蹊大学 |
32 |
コンピュータ科学での並列処理 |
三菱電機 |
512 |
計算流体力学 |
4) SuperTek Computer社(SuperTek S-1)
1989年、CMOSを用いたCray X-MP互換のSuperTek S-1を製造し10台販売した。
5) DEC社(VAX 9000)
Digital Equipment Corporationは、1989年10月、ベクトル演算器を付加できるメインフレームVAX 9000を発売した。V-BOXと呼ばれたベクトル演算器のピーク性能は125 MFlopsで、FORTRANから使うことができた。V-BOXは、ベクトルレジスタ、ベクトル加算器、ベクトル乗算器、マスクユニット、アドレスユニット、制御ユニットの6個のユニットからなっていた。恥ずかしながら、筆者はVAXにベクトルがあったことを知りませんでした。
6) Sun Microsystems社(Sun 4/60)
1989年4月、Sun Microsystems社はSPRCstation 1またはSun 4/60を発売した。CPUとしてはLSI CorporationのRISC CPU L64801 (20 MHz) または富士通のMB86901A、FPUコプロセッサとしてWeitek 3167 (または3170)を搭載していた。
7) Silicon Graphics社
1989年、業界初のマルチプロセッサのワークステイションIRIS POWERシリーズを発売した。
8) Thinking Machine社
TMC社 (Thinking Machines Corporation)は1989年11月28日、世界最高速のスーパーコンピュータを開発するためにDARPA (the Defense Advanced Research Projects Agency)から$12Mの契約を受けたと発表した。「計画しているスーパーコンピュータは現在多数が稼働しているConnection Machineのアーキテクチャに基づき、1 TeraOpsを超える性能を持つ。」1991年に発表されるCM-5を指すと思われる。
9) Data General社(AViiON)
1989年夏、同社はMotorola 88000に基づくAViiONシリーズを発表した。これはピザボックスのワークステーションからサーバまで幅広い領域をカバーしていた。AViiONという名称は、同社の初期の製品であるNova IIの文字を組み替えたものと言われている。次いで、中規模ディスクアレイ装置CLARiiONを発表した。しかし同社は1986年以来赤字に転落しており、今後が危ぶまれた。
10) Evans & Sutherland社(ES-1)
1986年にMountain Viewに設立されたEvans & Sutherland Computer Divisionは、1989年、満を持して最初の製品ES-1を発表し、販売を始めた。$2.2Mで1600 MIPSのマシンは十分競争力があるはずであった。ところが、パイプラインの衝突ばかり起こり、実行性能がでなかった。設計の見直しが必要であった。しかし、そのころ同様な価格性能比のマシンが市場に登場しつつあった。1989年10月、2台のES-1がCaltechに出荷され、11月にはコロラド大学から1台発注を受けただけであった。もちろん、冷戦が終結して、軍事的な需要が減少したことも背景にあると思われる。
前に述べたように、RenoでのSC’89に出展されていて、筆者がその前でみていると、三浦謙一氏がやってきて、「小柳君、いくら見ても無駄だよ。この会社は(正確には部門)今日つぶれたんだから。」と教えてくれた。E&Sの取締役会がこのプロジェクトの終了を決定したのである。同社の展示員は、来た人に職探しをしていたようである。1990年1月、正式に閉鎖された。
11) IBM社(3090J)
1989年10月、IBM社はIBM 3090シリーズのJシリーズ16モデルを発表した。Jシリーズには4 Mbit DRAMを用いた拡張記憶機構が設置された。
12) Tandem Computers社
同社は、1989年10月17日(Loma Prieta地震の日)、メインフレームクラスのNonStop Cycloneシステムを発表した。また1989年、MIPSプロセッサを搭載したIntegrityシリーズも発表した。
13) USL(UNIX Systems Laboratories)
Unixの開発とライセンス業務のため Bell研究所の下部組織として1989年に設立されたUNIX Systems Laboratoriesは、10月13日、UNIX System V Release 4.0 (5.4)を発表した。これに対抗するOSFは、OSF/1の開発計画を大幅に見直す方針を明らかにした。
14) Encore Computer社
1989年、Encore Computer社は、Multimax 500を発売した。これは、National SeiconductorのCPUを用いた同社最後のマシンである。DARPAの依頼によりMultimaxを8台接続したUltramaxを開発し、1990年にDARPAに納入する。
企業の創立
1) Cray Computer社
Seymour Crayは4月、Cray Research社からスピンオフして11月15日にCray Computer社(CCC)を設立。わずかな社員とともにGaAsを用いたCray-3の開発に取り組みはじめた。新聞では”Seymour leaves Cray.”と騒がれた。
2) The Portland Group (PGI)社
Floating Point Sysems社(1970年創業)のソフトウェア部門関係者により1989年創設され、1991年、Intel i860のためのFortranおよびCのコンパイラを開発した。このコンパイラは、iPSC/860、Touchstone Delta 、Paragonなどで使われた。1990年代にはHPF (High Performance Fortran)の開発にかかわった。
3) Aries Research Inc.
Aries Research Inc.は、1989年、シリコンバレーのFremontに設立された。Sparcベースの特注システムの製造をおこなっている。
4) Stardent Computers社
前に述べたように、日本の機械メーカであるクボタの資金により、Ardent社(1985年創業)とSteller社(1985年創業)は合併してStardent Computer社となった。
5) Linux NetworX社
1989年ユタ州でボードコンピュータの開発メーカーとしてALTA Technology社が創立。2000年にLinux OSに基づくHPCソリューションを提供する会社としてLinux NetworX社に改名した。2008年2月14日にSilicon Graphics社によって買収される。
6) Rogue Wave Software社
1989年、ワシントン州SeattleにおいてRogue Wave Software社がC++ class libraryを開発するために創立された。1990年にはオレゴン州Corvallisに移転。2009年Vusual Numerics社を買収、2010年TotalView Technologies社を買収。
企業の終焉
1) Scientific Computer Systems社
1983年創業の同社は、Cray ResearchのOSであるCOSの改良版が非公開となったので、自主開発しようとしたがうまくいかず、1989年3月、ミニスーパーコンピュータの業務を停止した。Token ringによる高速ネットワークの販売に方向転換したがその後活動停止した。
2) Inmos社
Inmos社(1978年創業)は1989年4月SGS-Thomsonに売却された。1991年、WalesのNewportの工場が閉鎖され、フランスのCrollesの工場に移された。予告されていたtransputer T9000は開発が遅れ、結局商品化は断念することになる。
3) ETA Systems社
1983年にCDCの子会社として創立されたETA Systems社は1989年4月閉鎖された。ニュースグループcom.sys.superに投稿された“The ETA Saga”によると、1989年4月17日の朝6:30に会社に来たRob Peglar は、警備員に入室を拒否され、中ではお偉方が会社閉鎖の相談をしていたとのことである。約800人の社員はその日に職を失った。
ETA30は日の目を見なかった。これでCDC社は、スーパーコンピュータビジネスから撤退した。現在はCDCの情報サービス部門がCeridian社(1992年創立)となり、最終的にはCeridian HCM Holding Inc.として残っている。
4) Apollo Computer社
Apollo Comuter社(1980年創業)は、PRISMチップ開発の財政負担のため経営があぶなくなり、1989年Hewlett-Packard社に買収された。日本のメーカが買収という噂もあったが、国防上の重要技術を含んでいたのでHPが買収した。HP Apolloというブランドのシステムは今でも販売されている。
5) NAS (National Advanced Systems)社
1989年2月28日、National Semiconductor社と日立製作所は、日立製作所とEDS (Electronic Data Systems社)は、合同で、NS社の子会社であるNAS社を$398Mの現金で買収すると発表した。日立の分担は80%である。新会社はHDS(Hitachi Data Systems)と命名された。
次回は1990年、iPSC/860やMP-1が出荷される。3回で終わったSupercomputing Japanの第1回が池袋で開催される。筑波大のQCDPAXは1989年度末に完成し物理の計算を始めるが、なおハード・ソフトのデバッグが必要であった。
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1件のコメントがあります
小柳先生
お世話になっております。元日本クレイの島倉信雄です。
先生の「HPCの歩み」は非常に興味深く、更新をいつも楽しみにしております。新HPCの歩み(第92回)-1989年(d)-を読ませて頂きましたが、ここで私のクレイ入社時のエピソードをご紹介頂けるとは驚きつつも、非常に嬉しく思います。クレイがSGIに買収され、業績悪化、株価低迷を受けて最初のチャプター11になる直前に、海洋研究開発機構に転職しました。この海洋機構も昨年の5月で退職、東京エレクトロンに転職し、現在に至っております。今回の東京エレクトロンへの転職について、父親に報告をした際「東京エレクトロン?何かCMで見たような記憶があるが何の会社かわからないな」と会社四季報を取り出し「東京エレクトロンは、利益が5000億もある会社とは知らなかった」とのことでした。続けて「会社の経営で一番注意しなければならないときは、いつか分かるか?それは業績のよいときだ。業績が悪化しているときは、経営者、社員全員が慎重になる。しかし、業績がよいときは、「自分たちが、がんばったおかげだ」と考えがちだ。多くの場合、世の中の流れや景気に後押しされて業績が伸びているのがほとんどだ。業績が良いときは、どうしても会社全体が放漫になる。このときが一番危険なんだ」とのことでした。思い当たる節が多く、返す言葉もありませんでした。