新HPCの歩み(第98回)-1991年(a)-
日米貿易摩擦の中で、スーパーコンピュータ性能評価に関する日米ワークショップJapan-US Workshop for Performance Evaluationがハワイで開催され、どういうわけか筆者も巻き込まれた。第五世代プロジェクトは終了が近づき、代わって新情報(RWCP)の準備が始まる。NALでは数値風洞の計画が進む。 |
社会の動き
東西の壁が破れたのに続いて、ソ連の崩壊が起こった。日本のバブルはすでに崩壊が始まっているのに、この時からディスコクラブ「ジュリアナ東京」が始まっていることに驚く。景気なんてそのうちに持ち直すと思っていた人は多い。1991年(平成3年)の社会の出来事としては、1/1東京23区の市内局番が4桁となり、電話番号が10桁化、1/13リトアニアにソ連が軍事介入、1/17多国籍軍がイラクへの攻撃開始、湾岸戦争勃発、1/24日本政府、多国籍軍に90億ドルの追加支援(累計130億ドル)を決定、1/25イトマンの河村社長電撃解任、2/9美浜原子力発電所2号炉で伝熱細管破断事故、2/23皇太子(現天皇)、立太子の礼、2/27多国籍軍、クウェート解放、3/3アメリカで Rodney Glen King暴行事件、3/9東京都庁舎、落成式、3/14広島新交通システム橋桁落下事故、3/19 JR東日本と京成の成田空港駅開業、4/1東京都庁が西新宿に移転、4/1協和埼玉銀行発足、4/1「スパイクタイヤ粉じんの発生の防止に関する法律」の禁止条項施行、4/16ゴルバチョフ訪日、4/26海上自衛隊のペルシャ湾掃海派遣部隊が出発、5/1台湾で動員戡乱時期臨時条款を廃止し、国民大会と立法院の解散を決定、万年議員が全員辞職、5/8育児休業法成立、5/14信楽高原鉄道で正面衝突、5/14千代の富士引退表明、5/15「ジュリアナ東京」オープン(1994年8月31日まで)、5/21ラジブ・ガンジー元インド首相暗殺、6/3雲仙・普賢岳で火砕流、43名死亡、6/3大学設置基準改定(いわゆる大綱化、施行は7/1)、6/9ピナトゥボ火山噴火、6/15 IOCが1998年冬季オリンピック長野開催を決定、6/17南アフリカのアパルトヘイトを支える人種登録法、原住民土地法、集団地域法廃止(混乱は1994年まで続く)、6/20四大証券が巨額の損失補填発覚、社会問題化、6/20東北上越新幹線、東京乗り入れ、6/20ドイツ、ベルリンへの首都移転決定、6/25スロベニアとクロアチアがユーゴスラビアから独立、7/1ワルシャワ条約機構解体、7/1サッカー新プロリーグの正式名称を「日本プロサッカーリーグ」とし、愛称を「Jリーグ」とすることを発表、7/10ボリス・エリツインがロシア共和国初代大統領に、7/11『悪魔の詩』訳者五十嵐一助教授(筑波大)殺害、7/1第17回サミット(ロンドン)、7/23大阪地検は、伊藤寿永光、許永中、河村良彦ら6人を特別背任等の疑いで逮捕(イトマン事件)、7/31 START I調印、8/13大阪・ミナミの料亭「恵川」の女将尾上縫、詐欺罪で逮捕、8/19ソ連でクーデター、ゴルバチョフ幽閉、ソ連崩壊へ、9/6バルト三国がソ連から独立、9/27台風19号(りんご台風)で被害、10/3海部首相、退陣表明、10/14 Aung San Suu Kyiにノーベル平和賞と発表、11/5宮澤喜一、首相に、11/13宮沢りえの写真集『Santa Fe』発売、11/28日連正宗、創価学会を破門、12/4アメリカのPan American航空破産、12/25ゴルバチョフ辞任、ソビエト連邦解体、など。
流行語・話題語としては、「バブル崩壊」「ジュリ扇」「損失補填」「バツイチ」「ヘアヌード」「地球にやさしい」「…じゃあ~りませんか」「トレンディードラマ」など。
チューリング賞は、自動定理証明ツールLCFの開発、プログラミング言語MLの開発、並行システムを開発するための理論的フレームワークなどの業績に対してArthur John Robin Gorell Milner FRS(Edinburgh大学)に授与された。
エッカート・モークリー賞は、Denelcor社でデータフローコンピュータHEPを開発し、Tera Computer社を創立してMTAを開発中のBurton Smithに授与された。Burtonは2003年にSeymour Cray賞も授与される。
ノーベル物理学賞は、液晶や高分子の研究に対しPierre-Gilles de Gennesに授与された。化学賞は、高分解能NMRの開発への貢献に対しRichard Robert Ernstに授与された。生理学・医学賞は、細胞における単独のイオンチャネルの機能に関する発見に対しErwin NeherとBert Sakmannに授与された。
筆者は4月に東京大学理学部情報科学科に転任した。前年の1990年9月26日に東大の情報科学科でのセミナーに呼ばれ「スーパーコンピューティングと並列アルゴリズム」と題して講演したが、これが事実上の教授選考面接であったらしい。そこでは、「自然は並列に動いているので、自然のシミュレーションには並列処理が有効であるが、ただ有限の精度で自然の真似をしただけではアルゴリズムとしてうまくいかない。川合敏雄先生の議論は半分間違っている。」というようなことを述べた。後藤英一先生は興味を持たれたようで、1990年10月23日に日立中央研究所で行われたGNH懇談会(後藤研・中沢研・日立中研懇談会)に呼んでいただき、同じ講演を行った。その後いろいろあって、1991年4月の着任が決まった。
筑波大学の情報学類で「専門英語」(科学英語のこと)を教えていたアメリカ人教師の方が、餞別だといって小さな紙の箱に入った穀物をくださった。「何ですか」と聞いたら、(日本語で)「ワイルドライスです。インド人がよく食べます。」とのこと。おかしいな、と思ってよく考えたら、“Indian‟の誤訳で、「アメリカ先住民」のことであった。日本では「マコモ」と呼ばれ、神事などのために栽培されているようである。
同じ理学部の、「物理学科」から旅立って「情報科学科」に帰着したわけであるが、皆からいろんなことを言われた。物理関係者からは、「オヤナギさんは物理の本流でない」(まあそうでしょう)と言われ、情報関係者からは「オヤナギさんはコンピュータ科学をちゃんと勉強してない」(それもそうですが)とか。隣の学科に移っただけでここまで言われるとは!
担当した講義の一つは、数年間非常勤として教えていた「数値計算I」であった。授業の最初に、「これは他の先生に言わないでほしいんだが、コンピュータは“計算”もできるんだよ」と嫌みを言ったが、学生は変な顔をしていた。当時、HPCはコンピュータ科学の重要な柱とは考えられていなかった。(bit誌1991年9月号の筆者の巻頭言参照)この授業「数値計算I」はほどなく、筆者の発案で「連続系アルゴリズム」に名前を変更した。「離散アルゴリズム」の向こうを張って命名した。
東京には引っ越さず、1994年までは筑波大学時代からのつくば市内の宿舎から通っていた。筑波大学のCP-PACS関係の会議は土曜日に行われ、頻繁に出席した。7月11日に『悪魔の詩』の五十嵐助教授が殺された時はすでに転任したあとであるが、この日はたまたま香港・マカオの3泊4日の巡礼旅行から帰ったところで、夕方は筑波大学に来ていた。夜、自転車で帰る時、犯人と鉢合わせした可能性もあった(実際には外周道路を通って帰ったので会わなかった)。
日本政府の動き
1) Japan-US Workshop for Performance Evaluation
日米スーパーコンピュータ貿易摩擦においてアメリカ側の不満の一つが性能評価であった。特にCray Research社は、ピーク性能では日本機に劣るかも知れないが、応用プログラムを(“as is”で)計れば、日本製より高性能だと主張していた。1988年4月11日号の日経産業新聞によれば、日本クレイは、「スーパーコンの性能はあくまでも理論値にすぎない。スーパーコン用にソフトを手直しする程度によっては、Y-MPの方が国産機よりも実効性能で勝る」と日本勢の“優位”がいわばカタログ上のものであることを強調している、とのことである。アプリソフトがクレイ向きにチューニングされているからだと思うが。
日本では、1990年から日本応用数理学会「高性能計算機評価技術」研究部会において、HPCにおける性能評価について研究を続け、2年目に入っていた。
1991年4月に電総研の島田俊夫がワシントンで米国エネルギー省の高官と日米科学技術協定に基づいてスーパーコンピュータ性能評価技術に関する条項の合意を交わしてきた。その上で、日本機械工業連合会からの補助を得て、日米双方で性能評価についてどのような視点を持っているかを議論するワークショップを開くことになった。政治的な背景はあるが、研究者同士で自由にアカデミックな議論をしようということである。
会場はアメリカ側が決めたハワイのカウアイ島北側のSheraton Princeville Hotelという豪華なリゾートホテルであった。DOE割引で格安に泊まった。日程は、8/11成田発、8/12-14会議、8/14はワイキキでホテル泊、8/16成田着。高級リゾートホテルだけに滞在は快適であった。筆者やGary Johnsonを含め、何人かは夫人同伴。筆者はオアフ島以外のハワイは初めてであった。参加者は以下の通り。所属は当時。
日本側参加者 |
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共同議長:島田俊夫 |
電総研 |
小柳義夫 |
東大 |
横川三津夫 |
原研 |
関口智嗣 |
電総研 |
Raul Mendez |
リクルートISR |
アメリカ側参加者 |
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共同議長:Gary Johnson |
DOE |
John Barton |
NASA Ames |
John Gustafson |
Ames Lab. |
Jim Hack |
NCAR |
Gary Montry |
Southwest Software |
David Schneider |
Center for Supercomputing Research and Development |
アメリカ側はハワイの日米文化比較の専門家を通訳として同行し、議論(もちろん英語)が混乱すると、彼が間に入って日本語で解説をしてくれた。
このとき参加者のJohn Gustafson (Ames Lab.)が、1986年7月にFPS本社で筆者を案内してくれたGustafsonだとは気づかなかった。10月になってFPS破産間近とのニュースを聞いて気づき、彼に「あの時のGustafsonじゃないの?」とメールを送った。「その通り、あれは私だった。お互いに分からなかったね。」という返事が来た。
議論の大筋は、アメリカ側が、小さなカーネルではなく実際に動かす応用のフルプログラムで性能を評価すべきだ、という意見なのに対し、日本側は、それではアーキテクチャやコンパイラの問題点を見いだすのは難しいから、複数のカーネルを使って要素毎の分析すべきである、という意見であった。つまり、アメリカ側はベンチマークを調達の評価を中心に考えていたのに対し、日本側はコンピュータの技術的なシステム評価と見ていた。もちろん、どちらも重要なことは双方わかっていたが、あえて重点の違いを強調した。この会議は、その後1994年にはハワイ島のコナで、1995年に別府で(国際ワークショップPERMEANとして)、2003年には再びコナで開催する。
8/14の午後には、ヘリコプター2台に分乗して、カウアイ島の壮大な空中観光を楽しんだ。
2) 日米半導体協定
1987年に締結した日米半導体協定は1991年7月に満期となったが、アメリカは8月第二次日米半導体協定を強要して、日本国内で生産する半導体規格をアメリカの規格にあわせることや、日本市場でのアメリカ半導体のシェアを20%まで引き上げることを要求した。
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3) 第五世代コンピュータプロジェクト
ICOT(新世代コンピュータ技術開発機構)は、第五世代コンピュータ開発計画の成果として、1990年度までに5種のPIM(並列推論)マシンを開発した。PIM/pとPIM/mは国立科学博物館で保存されている。
a) | PIM/p:8プロセッサ(RISC)を共有メモリでバス結合したクラスタを64個ハイパーキューブ結合。GHCマシン。富士通が開発。 | |
b) | PIM/m:256プロセッサ(CISC)を2次元メッシュで結合。GHCマシン。三菱電機が開発。2021年10月6日に亡くなられた中島浩京都大学教授は、当時三菱電機において開発に加わった。写真は北陸先端科学技術大学院大学から。 | |
c) | PIM/c:8プロセッサ(CISC)を共有メモリで結合したクラスタ32個(目標)をクロスバネットワークで接続。GHCマシン。日立が開発。 | |
d) | PIM/i:16プロセッサエレメント(RISC)。沖電気が開発。 | |
e) | PIM/k:16プロセッサエレメント(LIW)。詳細不明。 |
基本ソフトウェアとしては、PIM用の並列OSであるPIMOSを開発し、並列知識ベース管理システムKBMSを開発する。あわせて、知識の記述、蓄積、利用および並列処理の効果的利用のためのソフトウェア技術の確立を目指す。
1991年6月19日~20日、1990年度研究成果報告会があった。基調講演で、渕一博ICOT研究所長は、「1990年度はマルチプロセッサ・マシンの上でさまざまな知識ベースの並列処理アプリケーションが動き出して、機能の実証が始まった。プロジェクトはあと1年を残すのみであるが、最後まで成果の積み重ねに向けて全力疾走する」と語った。
4) 新情報
1992年に発足させる新情報処理開発機構(RWCP, Real World Computing Partnership)に向けて、通商産業省は1991年3月13日~14日に、東京新高輪プリンスホテルで、「新情報処理技術国際シンポジウム」を開催し、21世紀の人工知能の実現を目指した基礎研究構想を国内外の研究者400人に提案した。当時は、「第六世代コンピュータ」とか「四次元コンピュータ」などとも呼ばれていた。
論理処理を主体とする第五世代までのコンピュータと異なり、
(1)物の形、状況を自ら判断し、それに応じた適応や行動ができる
(2)リアルタイムで変化する多数のデータを同時並行的に処理し、結論を導き出せる
点などが特徴とのことである。AIの概念に近い。このため百万以上の並列度を想定している。
基調講演は、石井威望東京大学教授とアメリカのM. Minsky教授、招待講演はドイツのA. Lohmann教授、田中英彦東京大学教授ほか6名、「新情報処理技術への期待や課題」についてのパネル討論などがあり、英日同時通訳付きで行われた。
共同開発には、AT&T、シーメンスのほか、米国のIBMなどの海外有力企業が参加する方針で、国内から日本電気、富士通、日立製作所など9社が参加する予定であった。ヨーロッパからは積極的に参加したが、アメリカ政府OSTPは1992年末まで参加の意向を表明しなかった。
1991年4月24日の日経産業新聞によると、TMC社のDavid Waltzは同紙とのインタビューで、参加に意欲を示しつつも、「これまで蓄積してきた超並列システムのソフトに関するノウハウを一方的に日本に提供することにならないよう」注意が必要であると語っている。
5) 航空宇宙技術研究所(数値風洞)
航技研(航空宇宙技術研究所、現在のJAXAの前身の一つ)は、1986年12月、VP-400 (256 MB)を設置した。これは、第1期数値シミュレータNS I(Numerical Simulator I)の主要マシンであった。シミュレーションへの要求が次第に増大し、能力の不足を感じるようになった。中村孝の回想や関係者の話によると、航技研では、三好甫を中心にVP-400の100倍のコンピュータを建設する計画を進め、アメリカの三社(CrayとIBMとUnisys)および日本の三社(日立、富士通、日本電気)に対し個別に参加を招請した(いつかは不明)。アメリカの三社は参加しないという意向だったので、日本の三社とそれぞれ委託研究契約(feasibility study)を結んで、システムの設計を始めた(1989年6月~1990年12月)。
三社の委託研究結果の概要が、第8回航空機計算空気力学シンポジウム(1990年6月25日~27日、航技研)の講演で3社から公開された。日立はスカラプロセッサによる超並列型(ちなみに、筑波大学が日立とCP-PACSの開発を始める前である)を提案し、日本電気は共有メモリ型の並列ベクトル機を、富士通は分散メモリ型の並列ベクトル機を提案した。なおこのシンポジウムで三好甫は、『CFDの推進に必要な計算機性能』と題して、VP-400の100倍の性能をもつ計算機の必要性と実現可能性の期待を述べた。最終的には、航技研の要求性能を満たした富士通の提案する並列計算機が採用され、1991年2月から航技研と富士通との間で『数値風洞の開発研究』が開始された。
このような手順を取ったのは、数値風洞という突出した計算機の開発が透明性と公平性ももった手続きにより進められたことを、対外的に証明できるためであった。三好甫は、当時火を噴いていた日米スーパーコンピュータ摩擦に巻き込まれることのないように、細心の注意を払いつつも果敢に推し進めた。
数値風洞は、VP2600をフロントエンド(FEP)とし、140台のPE (Processor Element)と2台のCP (Control Processor)を単段クロスバーで結合したシステムである。PEとCPのOSは、Unixをベースとし、並列計算や運用に必要な機能を大幅に追加開発した。フロントエンドのVP2600のOSは、センター運用のノウハウやソフトウェア資産を継承し、従来と同等のユーザーインターフェースで利用できるよう従来のVP-400用のMPSを搭載する一方、PEで実行する数値風洞ジョブの翻訳、結合編集処理のためにUXP(VPシリーズ用Unix OS)も搭載した。フロントエンドの全機能をUnixだけで実現することは現実的ではなかった。
アーキテクチャやシステムソフトウェアの基本的な設計ができたころと思われるが、1991年6月12日~14日に航技研で開催された「第9回航空機計算空気力学シンポジウム」において、三好甫は、『数値風洞:要求要件と概略』と題して、数値風洞構想の出発点、実用化要件、ハード構成・性能、プログラム記述とコンパイラについて講演した。また、航技研と富士通関係者はいくつかの講演を行い、数値風洞のハードウェア、OS、言語処理システムに関する研究成果を開示した。筆者は出席しなかったが、漏れ聞くところでは、システムは100台以上のPEが完全クロスバで結合され、各PEはVP-400より速いということであった。
6) 国立環境研究所
環境庁国立環境研究所(茨城県つくば市、1990年7月までは国立公害研究所)は、1991年8月19日、日本電気のSX-3/14の導入を決定した。入札に応じたのは、他に富士通のV2600/10とCray社のY-MP8Dであった。1993年6月の最初のTop500では、Rmax=5.0 GFlops、Rpeak=5.5 GFlopsで、39位tieにランクしている。
日経コンピュータ1991年9月9日号によると、1990年3月にアメリカのスーパー301条についての日米交渉が決着して以来、日本のスーパーコンピュータの政府調達は、京都大学化学研究所のY-MP2E/264や東北大学流体科学研究所のY-MP8/8128や防災科学技術研究所のY-MP2E/264とCray社の単独応札が続いていたが、今回は3社の応札となり結果が注目されていた。
7) 広島大学
1991年9月、広島大学大学院理学研究科・理学部が東広島キャンパスに移転完了。
日本の大学センター等
1) 東京大学(M-880/310+M-682H)
東京大学大型計算機センターは、1991年、メインフレームをHITAC M-880/310 (主記憶 1 GB、拡張記憶 4 GB)とHITAC M-682H (256 MB)に変更した。
1991年7月1日より、磁気テープライブラリMTLのサービスを開始した。MTL磁気テープは1/2インチカートリッジ型磁気テープで、非圧縮時記憶容量800MBのものであった。2001年2月24日までサービスされた。
2) 京都大学(VP2600/10、M-1800/30、UXP/M)
京都大学大型計算機センターは、VP-200とVP-400Eの2台体制のスーパーコンピュータを、1991年3月、Fujitsu VP2600/10 (1 CPU, 512 MB, 5 GFlops)に更新した。1993年6月の第1回Top500では、Rmax=4 GFlopsで45位tieにランクしている。またメインフレームとしては、M-780/30とM-780/10の2台があったが、これを1991年11月Fujitsu M-1800/30 (3 CPU、512MB, 276 MIPS)に更新した。
1991年10月、UTSの後継システムとして、Unix System V R.4準拠のUXP/Mの運用を開始した。
3) 図書館情報大学
1991年4月、総合情報処理センターを設置した。
4) 三重大学
1991年12月、情報処理センターのシステムを更新し、FAOCM M770/8を導入。
5) 熊本大学
1991年2月1日、総合情報処理センターにおいて、FACOM M-780/10Q システム稼動(主記憶容量 96MB)。
6) 工学院大学
工学院大学は電子計算機センターを情報科学研究教育センターに改組した。TRAINと64 kbpsで接続し、学外との常時接続が実現した。
次回は日本の学界の動きと国内の会議である。東大ではGRAPE-3が開発され、筑波大ではQCDPAXの本格稼働と並行してCP-PACSプロジェクトの準備が進んでいる。「日本では公的な研究機関でも、企業の研究部門でもMPPの開発は盛んに行なわれているが、商品のMPPは作っていない。企業は非常に保守的である」との批判がなされた。
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1件のコメントがあります
航空宇宙技術研究所の数値風洞について、元富士通の高村守幸様から詳細な情報をいただきましたので、7月1日、全面的に書き改めました。高村様、ありがとうございました。(著者)