HPCの歩み50年(第20回)-1983年(b)-
小柳義夫(神戸大学特命教授)
国内の動きは前回に述べたので、国外に移る。
中国の動き(銀河1号)
中国が初めて登場する。10年余にわたって中国を政治混乱に陥れた文化大革命は1976年10月6日の四人組逮捕で終わったが、その影響は大きかった。鄧小平は1977年7月の第10期3中全会において、国務院常務副総理、党副総理などの要職に復帰すると、文革で混乱した人民解放軍の整理に着手するとともに、科学技術と教育の再建に取り組んだ。
その成果の一つが、11月21日、中国人民解放軍国防科技大学が開発に成功した、中国初のスーパーコンピュータ「銀河1号」である。ピーク性能は100M Flops。アーキテクチャは分からないが、写真を見ると、円筒形の本体の周りを低い棚のようなものが取り巻き、Cray-1に何となく似ている。その後の中国のスーパーコンピュータ発展の原点となるマシンであった。この動きが後のいわゆる「863計画」につながった。
浪潮(Inspur)社は、1983年、済南(山東省)においてマイクロコンピュータを製造発売した。浪潮は1945年創立(当時は山東電子設備Shandong Electronic Equipment Factory)で、最初はコンピュータの周辺機器や真空管などを製造していたが、1970年、中国初の人工衛星「東方紅1号」は浪潮製のトランジスタを搭載した。その後、中国を代表するコンピュータ会社の一つに成長する。後で述べるように、天河1号、2号など最近の中国のスーパーコンピュータのいくつかは、浪潮が国防科技大と協力して開発製造したものである。
アメリカ政府の動き
1) Bardon-Curtis report
1982年12月にLax reportが出されたことはすでに述べたが、議会の要請を受けて、NSFがLax panelの指摘した問題にどう対応すべきかをまとめ、1983年7月に発表した(M. Bardon and K. Curtis, A National Computing Environment for Academic Research, National Science Foundation, July 1983)。これはBardon-Curtis reportとして知られている。NSFに対し6点の勧告を行っている。
a) 政府や企業のプログラムを連携させ、スーパーコンピュータ研究を推進させる
b) 各地の研究用コンピュータ設備への支援を増強する
c) スーパーコンピュータ研究センターを募集し、3年以内に10のセンターを設置する
d) 大学、研究所、スーパーコンピュータセンターをつなぐネットワークを支援し、設備へのアクセス、ファイル転送、科学的通信を可能にする
e) コンピュータのサービスやネットワークに関するNSFの決定を支援し監視する諮問委員会を設置する。
f) 先進的なコンピュータ・システム設計、計算数学、ソフトウェア、アルゴリズムの領域での研究教育プログラムを支援する。
アメリカの学界の動き
Cedar 回路ボード(出典:Computer History Museum) | |
Goodyear MPP(出典: Wikipedia) | |
Encore Multimax(出典:Computer History Museum) |
1) Cedar Project
このころIllinois大学でDavid KuckらによりCedar projectが始まった。これは高性能結合網 (multipath omega network) と多階層メモリを持つMIMD並列コンピュータを開発するプロジェクトである。VLSI技術により独自プロセッサを自主開発し、最終的には1990年頃1024以上の並列マシン(10 GFlops級)を開発することが計画されたが、1985年に商用のAlliant FX/8 をCedar clusterとして使用することが決まり、32プロセッサで終了した。ソフトウェア、とくに自働並列化コンパイラ(Paraphrase)の開発に力を入れた。
2) Ultracomputer Project
同じ頃(正確な年は不明)、New York UniversityではAllan Gottliebを中心にUltracomputer projectが始まった。これもomega networkにより共有メモリ並列処理を実現するものであり、4096ノードまで拡張可能であると主張していた。プロトタイプとして実際に製作したのは8ノードと32ノードである。このプロジェクトではfetch-and-addのようないわゆるアトミック命令をネットワーク上でcombineする技術が強調された。
3) RP3 Project
この発展として1985年IBMのWatson研究所ではRP3 (Research Parallel Processor Prototype) プロジェクトがはじまった。当初は512ノードを計画していたが64ノードの開発で終了した。Combining networkの効果は大きくないことがわかった。
アメリカの企業の動き
1) Goodyear Aerospace社
1973年にSTARANを作成したGoodyear Aerospace社は、1983年5月には128×128の1ビット演算要素を配置したMPPを製造し、NASA Goddard Space Flight Centerに設置した。衛星画像の分析が目的であった。1985年から1991年まで使われた。MPPの引退後は、MasPar MP-1とCray T3Dが設置された。
2) ETA Systems社
1983年9月、CDC社の創立者であるWilliam Norrisは、10 GFlopsのスーパーコンピュータを製造するための子会社ETA Systems社を設立した。そのためにはサイクル時間を10ns以下にする必要があり、開発した主要技術の一つがCMOSのCPUを液体窒素で冷やすと言う技術である。最初の出荷は1987年である。
3) IBM社
IBM社は1983年3月8日、IBM PC/XTを発売した。CPUはIntel 8088、メモリは128~640 kB(MBでないことに注意)。
ベンチャー企業の創業
1983年もいくつかのベンチャー会社が設立された。
1) Encore Computer社
Prime Computerの前CEOのKenneth Fisherと、Digital Equipment社のGordon Bell、Data General社や後のKendall Square Researchの共同創業者のHenry Burkhardt IIIによって1983年マサチューセッツ州で創立された。かれらはコモディティのプロセッサにより超並列コンピュータを作ろうとした。1985年、NS32032プロセッサを最大20個搭載するMultimaxを1985年に発表した。これはバス・スヌーピングによりキャッシュ・コヒーレンスを実現した最初のマシンである。その後Multimax 500 (1989)、Encore-91 (1991)、Encore-93、Infinity 90 (1994)、Infinity R/T (1994)などを製造した。1990年代半ばに超並列市場が振るわなくなると、コンピュータ部門を何年かかけて売却し、最後にStorage Products GroupをSun Microsystemsに売却した(1997)。
2) nCUBE社
nCUBE社は、1983年に、Intelの複数の社員によってOregon州Portland近郊のBeavertonで創立された。Intelが並列処理に乗り出さないことにしびれを切らしたため、ということである。Intel社は1985年にiPSC/1によりやっと並列処理に参入した。
名前の通り、ハイパーキューブ結合の並列マシンを自主開発のCPUで製造した。1985年12月、最初のマシンnCUBE 10を発表した。32ビットALU、64ビットFPU、128kBのRAMをモジュールと呼ばれる小さなボードに載せたコンパクトな設計であった。計算性能もほどほど(ピーク3.5 MFlops)だったので、通信とのバランスがよく、利用者には使いやすかった。SNLの研究者は、nCUBE10を用いて1987年に初回のGordon Bell賞を獲得した。日本の代理店は住商エレクトロニクス・システムズ社。
1989年6月、性能を増強したnCUBE 2を発表したが、応用は科学技術計算よりOracleデータベースのサーバの色が濃くなった。1995年にnCUBE-3を発表したが、1996年、Oracle社に編入され、ストリーミング配信サーバのメーカとなった。1999年、再度株式を公開するが、2001年上場廃止、2005年C-COR社に買収され、2007年Arris社に買収される。
余談であるが、Ncubeというのはジンバブエ(アフリカ)辺りのありふれた名字でもある。この辺の言語にはn-とかm-とかの単独鼻音の接頭辞が頻出する。
3) Sequent Computer Systems社
この会社もIntelを辞めた18人の技術者と経営者によって1983年創立された。かれらがIntelを辞めたのはiAPX 432というCPUのプロジェクトが中止されたのが原因とのことである。Sequent社は、SMPのサーバを目指し、1984年、Balance 8000とBalance 21000を発表した。これらはNS32016プロセッサを最大20個まで接続できた。OSはBSD Unixを改造したDynixであった。実は、筑波大学電子・情報工学系の最初のJUNETメールサーバは4プロセッサのBalance 8000であった。その後は、Bitnetもこのマシンで扱い、ゲートウェイとしても機能した。ただ、筑波大学では誰もこれが並列マシンであることを気に掛けていなかったことが面白い。
次にi386を用いたSymmetry(1987)を出し、Oracle社と連携して市場で成功した。Copy-Back cacheを用いた。1996年にはPentiumを用いたSymmetryを出した。その後、SMP市場の競争が激化したため、cc-NUMAシステムを開発し、1996年NUMA-Qというシステムを発表した。ところが、1999年7月、Sequent社はIBMに買収され、IBMはNUMA技術をもちいたpSeries 690(通称Regatta)を発表した(2001)。
4) Scientific Computer Systems社
1983年San DiegoでFloating Point Systems社の重役であったBob Schuhmannにより設立。Cray互換のミニスーパーコンピュータの開発を目指す。1986年には40 MFlopsのSCS-40を発表した。Cray ResearchはOSのCOSを最初公開していたが、SCS-40が登場するに及んで改良版は公開しなかった。Boeing社とともに独自にCOSの改良版を開発しようとしたが上手くいかず、1989年3月にミニスーパーコンピュータビジネスをあきらめ、ネットワークに方向転換し、その後活動停止した。
5) Celerity Computing社
5月にSan Diegoにおいて、Unixベースのスーパーミニ製造のために創立。1984年11月にワークステーションC1200を発売。ミニスーパーであるCelerity 6000を開発していたが、資金不足に陥り、1988年Floating Point Systemsに買収され、Celerity 6000はFPS Model 500として発表された。
6) Myrias Research社
珍しくカナダの会社である。1983年12月、Alberta州Edmontonで創立した。Motorola のMC68000を用い、仮想共有メモリに基づく超並列コンピュータを目指していた。1986年に512プロセッサのSPS-1プロトタイプが稼動、1989年4月、MC68020を用いたSPS-2が初出荷され、1990年までにさらに7システムを出荷。1989年12月には1044プロセッサのシステムが稼働した。さらに1990年10月、経営上の困難にもかかわらずMC68040を用いたSPS-3が完成し披露されたが、その翌日活動は停止し、1991年に会社は閉鎖された。この会社は、1989年、Canadian Advanced Technology AssociationからAward of Distinctionを受賞している。
ネットワーク関係
前にも述べたが、1983年1月、ARPANETはTCP/IPプロトコルに切り替えた。それとほぼ同時に軍事部門がARPANETから切り離され、独自のネットワークを構成するようになった。一般向けのネットワークがInternetと呼ばれるようになったのはこの頃からである。
1981年に初期的なコンピュータ犯罪が起こったと述べたが、1983年11月2日、19歳のUCLAの学生が、自分のPCを用いてアメリカ国防総省のネットワークに侵入し、関連機関の情報を盗み出したとして逮捕された。映画”War Game”が公開されたのもこのころである。筆者は普段映画をほとんど見ないが、翌年1月16日にたまたま札幌の街をうろついていて寒さしのぎに入った映画館で見たのがこれであった。ちなみに、1988年のモーリス・ワーム事件も同じ11/2に起こっている。
次回は1984年、日本では東大や京大のベクトルコンピュータにユーザが群がり始める。日本のインターネットの源流JUNETやHEPnetが始まるのもこの年である。
(タイトル画像 ETA-10 出典:Computer History Museum)