提 供
HPCの歩み50年(第22回)-1985年(a)-
ベクトルスーパーコンピュータの性能向上は続く。富士通は上位機種VP-400を発表、日本電気はSX-2を出荷、Cray Research社はCray-2を製造した。この年のアメリカのNCARのスーパーコンピュータ導入案件では、いったん日本製が落札しながら、これが取り消される事件が起こった。並列コンピュータでは、IntelがiPSC/1を発表し、Meiko Scientific社が創立された。ドイツではSUPRENUMプロジェクトが始まる。
この年の社会の出来事は、1/10キツネ目の男、似顔絵公開、1/20ロナルド・レーガン大統領2期目を開始、2/27田中角栄元首相、脳梗塞で入院、3/10東北・上越新幹線上野発着、3/11ゴルバチョフ、ソビエト連邦共産党中央委員会書記長選出、3/17国際科学技術博覧会(つくば科学万博)開幕、3/21日本で初のAIDS患者、4/1電電公社民営化、5/17夕張炭鉱でガス爆発、6/8大鳴門橋開通、6/18豊田商事事件、永野会長刺殺、8/12日航ジャンボ機、御巣鷹の尾根に墜落、9/2 NTT「ショルダーフォン」レンタル開始、9/11警視庁、ロス疑惑の三浦和義を逮捕、9/22プラザ合意、円高不況始まる、11/29国電同時多発ゲリラ(分割民営化反対)など。プラザ合意はバブルの起点と言われる。
このころ、万博見学も兼ねて、Wolfram (9/5)やFernbach (9/14)が筑波大学に現れた。
8月9日、R. Feynmanが来日し学習院大学で量子コンピュータについて講演した。その中で、「空気力学のシミュレーションの計算が余りに大変になると、ある日、『そうだ、風洞実験でやれば簡単だ』と再発見する」というようなジョークを言っていた。
記憶ははっきりしないのだが、星野グループは85年か84年に文部省科学研究費補助金「特別推進研究」に応募した。東大や高エネルギー研のスーパーコンピュータは強力であったが、QCDの研究は計算性能がキーであり、少なくともさらに1桁か2桁性能の高いコンピュータがほしかった。特別推進は、1979年度からの試行を経て、1982年度から実施しているもので、少人数で3~5年間3億円程度まで補助が申請できた。星野力を代表者として申請した。審査委員の故西島和彦先生から推薦していただけることになり、書類審査はフリーパスで星野力、川合敏雄がヒアリングに臨んだ。筆者は同行しなかったと思う。のれんに腕押しだったが、採択はされなかった。
1985年に最初の日米スパコン貿易摩擦が起こった。
日本の学界の動き
1) 情報処理学会「数値解析研究会」
1985年からは、予稿集が「研究会資料」から「研究報告」と名称が変更された。
2) 数値解析シンポジウム
つくば科学万博に合わせて、筆者らのいた筑波大学数値解析研究室の担当で「数値解析シンポジウム」がつくば研究交流センターで5月30日(木)から6月1日(土)まで開催された。参加者は106名。2日目の午後は万博見学ということで、筆者も初めて万博会場に足を運んだ。
3) 数理解析研究所
京都大学数理解析研究所は、11月14~16日、森正武(筑波大学)を代表者として、「並列数値計算アルゴリズムとその周辺」という研究集会を開催した。第17回である。報告は、講究録No. 585に収録されている。タイトルには「並列」という言葉が出ているが、講演の中には並列処理やベクトル処理に関係するものはほとんどない。
この1ヶ月前、10月2~4日、後藤英一(東大)を代表者として「ソフトウェア科学・工学の数理的方法」という研究集会が開かれ、筆者はパネリストとして出席した。この研究会もそのころ毎年継続的に開催されていたようである。パネルでは、科学技術計算のためのコンピュータについて議論したと思う。フロアから、「物理屋はネットワークとしてどのくらいのバンド幅か必要なのか」という質問が出た。筆者は、それこそ清水の舞台から飛び降りる気持ちで、「1 Mb/sを使えたら御の字だ」と答えたことを覚えている。当時の専用線は4.8 kb/s程度でも目の玉の飛び出るほど高価であった。なぜ1 Mb/sと考えたかというと、メインフレームコンピュータの磁気テープのチャンネルが120 kB/sほどのスピードだったので、磁気テープに書き込んで送るくらいなら、同じスピードで直接データを送ればよいと思ったからである。家庭にまで1 Gb/sの光ファイバが通っている今からみると、笑い話である。研究会の報告は、講究録No. 586に収録されているが、パネルの記録はない。
4) BITNET
ネットワーク関係では1985年4月、東京理科大学とCUNYがBITNETで接続され、世界につながる日本のBITNET網が構成された。ただ、Unixメールへの転送はアメリカ経由であり、高エネルギー研のBITNETから筑波大学のJUNETに日本語のメールを送ると、8ビット目が落ちてしまい、文字化けしたことを思い出す。その後、筑波大学では池田克夫がBalance 8000上にBITNETのソフトを移植し、JUNETとのゲートウェイの役割を担った時期もある。
FACOM VP-400 |
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FACOM M-780 |
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HITAC M-640 |
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ACOSシステム1500 |
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MELCOM EX840II |
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上記5画像 出典: |
5) 通研ELIS
電電公社の電気通信研究所は並列LISPマシンELISを1985年開発した。
日本政府の動き
1) シグマプロジェクト
ソフトウェア関係では、1985年に通産省は国家プロジェクト「Σプロジェクト(シグマプロジェクト)」を始めた。これはプログラマが不足するという予測に基づき、200億円をかけて、ソフトウェア開発ツールの開発と普及を目指した。その後1990年に「シグマシステム」という会社を発足させたが、成果を出せずに5年後に解散した。恨み辛みの話は耳にするが実態はよく知らない。
日本の企業の動き
メインフレームでもスーパーコンピュータでもさまざまな動きがあった。スーパーコンピュータ関係では以下の通り。
1) 富士通
4月11日、VPの下位機種V-50と上位機種VP-400を発表した。VP-400はベクトル演算器の要素並列を強化したもので、ピーク性能は1.142 GFlopsと初めて1 GFlopsを越えた。このマシンは、1986年1月にリクルートに、12月に航空宇宙技術研究所に設置された。
京都大学大型計算機センターは1985年11月、VP-200をVP-100のリプレースとして設置した。
2) 日立
6月10日、待望の高エネルギー研のS810/10の利用が開始された。S810/10(主記憶128MB)である。未確認であるが、東大センターが256MBに増強する直前であり、高エネルギー研の方が、主記憶が大きかった一時期があったと思う。筆者も初日から早速飛びつき、多数の複素3次方程式を並列に求解するテストプログラムを流したが、複素指数関数のあたりでマシンが異常を検知しシステムダウンを起した。日立の工場から技術者がやってきて週末をかけて原因究明を行い、電気的に弱い部分を見出し修復した。本当の原因は、筆者のこのテストプログラムが初期値設定を忘れていたためであった。高エネルギー研ではゼロクリアが標準だったので、オールビット0の多量の信号が流れた。東大のS810ではゼロクリアがなく、メモリにゴミが入っていたためエラーは起こっていなかった。筆者のお粗末なミスではあるが、弱いところが初日に見つかって幸運であった。
なぜ複素指数関数をテストしたかというと、東大のS810を使っていたとき、CEXP関数の計算がおかしいのではと気づき、テストプログラムを作りそれによりベクトル標準関数にソフト上のバグを発見した。CEXPの計算には、EXPとSINとCOSの計算が必要であるが、どこかで同期を忘れたらしく、データが上書きされていたのである。まさかとは思ったが「高エネルギー研のS810では直っているか」と、そのテストプログラムを流したところ、ソフトは正しかったがハードの弱点にぶつかってしまったというわけである。
3) 日本電気
前2社より少し遅れたが、6月SX-2が出荷された。これはベクトル演算器4本(シフト、論理、乗算、加算)を一組として、4組(SX-1では2組)用意されている。6 ns(SX-1では7 ns)のマシンサイクルで1.3 GFlops(SX-1では570 MFlops)のピーク速度を実現した。ACOS-4と互換な制御プロセッサに加えてスカラパイプラインが別に装備されていることが特徴である。1985年、東北大学にはSX-1が設置され、1989年にSX-2Nに更新された。また大阪大学レーザー核融合研究所には、7月、民間との共同研究に基づき日本電気からSAP (Scientific Arithmetic Processor)が導入されたが、これは技術的にはSX-2(1.3 GFlops、主記憶128 MB)と同等のマシンであった。Top500でもSX-2として掲載されている。
季刊誌「コンピュートロール」1987年10月号の渡辺貞の記事「スーパーコンピュータの現状と動向」によると、当時のベンチマークの一つLivermore Loops (24 kernels)においてSX-2は唯一1 GFlopsを越えたマシンである。Loop 7でSX-2は1042.3 MFlopsの性能を記録した。このLoop 7はスピードの出やすいプログラムであるが、Cray X-MP/4では806.765 MFlopsしか出ていない。
SX-1の、S810/10(マシンサイクル14 ns、6演算実行、ピーク430 MFlops)に対する比較データによると、連続アクセスでは1.43倍(要素毎乗算)から4.24倍(総和)であるが、リストベクトル代入では0.55倍(右辺がリストベクトル)から0.87倍(左辺がリストベクトル)となり、SX-1は連続アクセスには強いが、リストベクトルには弱く、S810/10では要素並列が働いていないことが分かる。
メインフレーム関係では、
4) 富士通
11月、FACOM M-780モデルを発表
5) 日立
3月、HITAC M-600シリーズ発表
6) 日本電気
2月、ACOS 1500シリーズ発表
7) 三菱電機
1月、MELCOM EXシリーズ発表
8) ジャストシステム社
8月28日、初代PC9801用のワードプロセッサソフト「一太郎」を発売。筆者は V.2 からの利用者である。今でも愛用している。MS Wordと違ってユーザの言う通り動くので好きだったが、最近はだんだんMS Wordに似て言うことを聞かなくなってきた。
日米貿易摩擦
1980年代、日本のスーパーコンピュータが性能を向上させている一方で、アメリカでは性能が停滞していた。この背景には、日本ではメインフレーム・メーカであり、半導体メーカでもある3社がスーパーコンピュータ開発に本腰を入れていたのに対し、アメリカではIBM社が本腰を入れず(研究は続けていたようであるが)、Cray ResearchやCDCなどベンチャーに近い会社が開発していたことがあると思われる(CDC社はメインフレームを出しているのでベンチャーとは言えないが)。
1985年にアメリカのNCAR(国立大気研究センター)のスーパーコンピュータ導入案件に対し、日本からは日立がS-810、日本電気がSX-2、富士通がVP-200で応札したらしい。日本電気が落札したが、政治的な圧力により取り消され、Cray-2に決定した。これが日米スーパーコンピュータ貿易摩擦の最初の事件と言われている。次は1987年のMIT導入キャンセル事件。
また1985年6月に米国半導体工業会からの訴えにより、8月から日米半導体協議が始まった。翌1986年9月2日には日米半導体協定が結ばれ、日本市場における外国製品の割合を5年間に20%まで増やすこととなった。
SDI(戦略防衛構想)
1983年に米国レーガン大統領が華々しく提唱したSDIは、衛星軌道上に、早期警戒衛星、ミサイル衛星、レーザー衛星などを配備し、地上のシステムと連携して、敵国(具体的にはソ連)の大陸間弾道弾を撃墜し、アメリカ本土への被害を減らそうという構想である。これが成功すれば核兵器が時代遅れになり、アメリカの優位が確立されるはずであった。
レーザー兵器、粒子線兵器、運動エネルギー兵器などの技術的困難、膨大な開発費もさることながら、コンピュータ科学にとって大きな問題は、このようなシステム全体を制御しうるコンピュータやそのためのプログラムが開発可能かということであった。一説には1億行以上になるともいわれた。とくに、プログラムの検証が不可能なことが問題となった。ソフトウェア工学者のDavid L. Parnasは、核攻撃を防ぐことを保証できる十分な品質のアプリケーションソフトを書くことはソフトウェア工学の観点から不可能であると主張した(“Software aspects of strategic defense systems”, Comm ACM 28 (12), 1985)。かれは1987年、この業績によりCPSR (Computer Professionals for Social Responsibility)から、最初のNorbert Wiener賞を受賞した。当時のコンピュータ科学者や物理学者は、技術の倫理の問題を否応なしに突き付けられた。
SDIは、レーガン大統領が交替し、冷戦が終結するとともにいわば自然消滅した。当時のソ連も同様な技術を開発しようとしたが、すでにその体力はなかった。SDIそのものは非現実的であったが、間接的にはソ連の崩壊を早めたのかもしれない。
外国の動きは次回に。アメリカでは5カ所のNSFスーパーコンピュータセンターを結ぶNSFNETが設置され、HPCとネットワークの連携が重要視されるようになる。また、ICSという国際会議は現在も続いているが、それとは違うICSが始まる。
(タイトル画像 Cray-2 出典:Computer History Museum)