提 供
HPCの歩み50年(第31回)-1989年(b)-
スーパーコンピューティング会議SC89(ネバダ州Reno)に初めて参加した。そのテーマは、いかに日本に追いつき追い越すかということであった。アメリカは国を挙げてHPCを推進しようとしていた。Intel社はi486やi860を発表した。パソコン実習室のPCを接続してスーパーコンピュータに変えるソフトPVMの開発が始まった。「貧者のスーパーコンピュータ」と言われた。

連邦HPCプログラム
NAS(National Academy of Sciences 全米科学アカデミー)は、1989年に”Information Technology and the Conduct of Research : The User’s View”という90ページの文書を発表した。この中で、新しいシステムを設計する際には、専門家のみならずユーザの要求を考慮すべきと述べている。
またアメリカ政府のOSTP (Office of Science and Technology Policy)は、9月8日に報告書”The Federal High Performance Computing Program”を発表した。議会に対し、The Federal HPC Programを始めるよう促している。中身としては、a) HPC Systems, b) Software and Algorithms, c) Network, d) Basic Research and Human Resourcesの4つを上げている。 ”A National Computing Initiative”(1987)に続き、Grand Challenge となる課題を提示している。1991年に始まるHPCC Programの原型が示されている。サマリはこの資料にある。
アメリカ・ヨーロッパの学界の動き
1) SC’89
第2回のSupercomputing会議(Supercomputing ’89)は、11/13-19にネバダ州Renoで開催され、筆者は初めて参加した。だだっ広いホテルの1階ロビーが全部カジノで埋まっておりびっくりした。筆者も共著者であったが、白川友紀が登壇してQCDPAXについて講演した。この回には日本からの講演が10件と多いが、これはRaul Mendezがプログラム委員として尽力したそうである。参加者は1926人、展示は計47件であった。
日本電気の渡辺貞のSX-3に関する講演は、大入り満員で熱気にあふれ、質問に対してちょっとでも言いよどむと、「何か隠しているのでは」と会場が興奮に包まれたことを覚えている。特にメモリバンド幅やランダムアクセス性能について鋭い質問が出た。
一番印象に残っているのはCenter Directors’ Round Tableで、主要なテーマはHPCCプログラムを政府に認めさせようということであった。ある経済予測家がもっともらしいグラフを示しながら、「いま○億ドルを投資すれば○年後日本に勝てるが、このままでは永久に日本の後塵を拝することになる。」と日本を仮想敵国(実敵国かも?)として熱っぽく議論していたのが印象的だった。思わずあたりを見回すと、その席にいた日本人は筆者ただ一人だった。
16日(木)の昼食会のスピーチで、G. P. Smaby という経済アナリストが、「ウォールストリートから見たスーパーコンピュータ」と題して講演を行った。彼によればCrayの株が下がり○[不明。Convexか?]の株が上がっていることからも分かるように、メガクラスのスーパーコンピュータには先がなく、これから伸びるのはエントリーレベルのスーパーコンピュータである、とのことである。今から考えるとどうであろうか。
余談であるが、このころ盛田昭夫、石原慎太郎共著「NO(ノー)と言える日本―新日米関係の方策」(光文社、1989)がアメリカでも話題になっていた。ホテルでアメリカのテレビ局のモーニングショーを見ていたら、盛田氏が英語で出演していた。盛田氏曰く、「私はアメリカに留学し多くを学んだ。私はアメリカを尊敬している。」これに対し女性キャスター、「しかし、あなたはこの本でアメリカを批判しているではないか?」これに対する盛田の答えはパンチが効いていた。”To speak frankly is also what I learned in the United States.”
これも余談であるが、SC89の直前、10月17日17時4分にサンノゼ市の近くのLoma Prieta山付近を震源とするM6.9の大地震が起こった。サンフランシスコの多くの建物が壊れ、高速道路が倒壊したり、サフランシスコ・オークランド・ベイブリッジのスパン1個が崩落したり、死者62名の大被害が出た。バークレーの友人に、「日本だったら十分に地震対策が施されているから、高速道路なんか大丈夫ですよ。」とメールを送ったが、1995年の阪神大震災後に訂正とお詫びの言葉を送った。SC89の最中、11月18日にベイブリッジは復旧したが、開通式典でサンフランシスコとオークランドの両市長が両側から歩いて渡り、橋の中央でなんとかという歌手(Tony Bennettか?)が有名な”I left my heart in San Francisco”を歌ったというニュースが流れていた。この地震に近いM6.0の地震が、25年ぶり2014年8月24日3時20分にNapa Valley付近で起こり、多くのワインが被害に遭った。
2) ICS会議
ICS (International Conference on Supercomputing)の第3回目が、ギリシャのクレタ島で、7月5~9日に開催された。ACMからプロシーディングスが発行されている。
3) PVM
1989年夏から、ORNL (Oakridge National Laboratory)やUniversity of Tennesseeにおいて開発が始められ、PVM v.1がORNLで作成した。PVM (Parallel Virtual Machine)は、ネットワークで接続されたコンピュータを、一つの並列計算機として稼動させるための汎用ソフトウェアである。このころ、大学などでは教育用に多数のPCが設置され、これがネットワークで接続されていることが多くなったので、空いている時にこれを並列計算機として使うことが可能になり、「貧者のスーパーコンピュータ」と言われた。
PVMの大きな意義は、ソフトウェア自体もさることながら、マシンに依存しないメッセージパシングインタフェースをde facto standardとして提供したことであり、後のMPIの先駆と見ることも出来る。例えば、IBM SP1 (1993)では、High Speed Switchという独自の相互接続網が用意されており、専用のインタフェースもあったが、PVMもインタフェースとして利用できた。
また初期のMPIと違って、次の特徴があった。
a) ヘテロジニアスな環境で使えること、つまり異なる語長やendianでもデータ交換ができ、またOSが違ってもよい。
b) プロセスの起動や停止ができること。
このような性質は後のグリッド・コンピューティングとも関連性が大きい。ただし、これらの機能を実現するためにオーバーヘッドが生じ、速度的に性能は大きくなかった。
PVM v.2は1991年3月にUniversity of Tennesseeから配布され、v.3は1993年3月に発表された。
4) Columbia University
コロンビア大学の格子ゲージ専用機の3号機が1989年完成した。256ノード、ピーク16 GFlopsである。後で述べるように1990年にNew Yorkで開かれたSC90のついでに、コロンビア大学を訪れて見せてもらった。
世界の企業の動き
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Intel i860 出典:Wilipedia |
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DEC VAX9000 |
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Apollo Domain Workstation |
1) Intel社
Intel社はCPUのi486を4月に発表した。FPUをCPUに統合した。次の586は出ず、Pentiumとなった。
また、月は不明だがi860マイクロプロセッサを発表した。これはx86とは全く異なるRISCプロセッサであった。I860およびその後継であるi860XP (1991)は、iPSC/860, Touchstone Delta, ParagonのCPUとして用いたほか、多くの他社のCPUまたはFPUとして採用された。たとえば沖電気のOKIstation 7300、クボタコンピュータのTitan VISTRA、SGI Reality Engine、Mercury Computer Systems、AlliantのFX/2800、ドイツのGMDのMannaなどがある。
ただ、商業的には成功といえず、1990年中頃には消滅した。
2) Myrias Research社
カナダのMyrias Research社(1983年創業)は、4月、MC68020を用いた512プロセッサのSPS-2が稼働した。
3) nCUBE社
1983年創業のnCUBE社は6月nCUBE 2を発表した。プロセッサはメモリを含めて1インチ×3.5インチの細長いモジュールに収まり、64ノードで1枚のボードを構成している。nCUBEの筐体の一つにはピラミッド型の上蓋が付いているが、いつかどこかで「なんでこんな形をしているのか。放熱のためか?」と聞いたところ、「上にものを置かないためだよ」という答えだった。
4) Supertek Computer社
1989年、CMOSを用いたCray X-MP互換のSupertek S-1を製造し10台販売した。
5) DEC社
Digital Equipment Corporationは、1989年10月、ベクトル演算器を付加できるメインフレームVAX 9000を発売した。V-BOXと呼ばれたベクトル演算器のピーク性能は125 MFlopsで、FORTRANから使うことができた。V-BOXは、ベクトルレジスタ、ベクトル加算器、ベクトル乗算器、マスクユニット、アドレスユニット、制御ユニットの6個のユニットからなっていた。恥ずかしながら、筆者はVAXにベクトルがあったことを知りませんでした。
ベンチャー企業の創立
1) Cray Computer社
Seymour Crayは4月、Cray Research社からスピンオフして11月15日にCray Computer社(CCC)を設立。わずかな社員とともにGaAsを用いたCray-3の開発に取り組みはじめた。
2) The Portland Group社
Floating Point Sysems社(1970年創業)のソフトウェア部門関係者により1989年創設され、1991年、Intel i860のためのFortranおよびCのコンパイラを開発した。このコンパイラは、iPSC/860、Touchstone Delta 、Paragonなどで使われた。1990年代にはHPF (High Performance Fortran)の開発にかかわった。
3) Aries Research Inc.
Aries Research Inc.は、1989年、シリコンバレーのFremontに設立された。Sparcベースの特注システムの製造をおこなっている。
4) Stardent Computers社
前に述べたように、日本の機械メーカであるクボタの資金により、 Ardent社(1985年創業)とSteller社(1985年創業)は合併してStardent Computer社となった。
ベンチャー企業の終焉
1) Scientific Computer Systems社
1983年創業の同社は、3月、ミニスーパーコンピュータの業務を停止した。
2) Inmos社
Inmos社(1978年創業)は4月SGS-Thomosonに売却された。予告されていたtransputer T9000は結局出なかった。
3) ETA Systems社
1983年にCDCの子会社として創立されたETA Systems社は4月閉鎖された。ETA30は日の目を見なかった。これでCDC社は、スーパーコンピュータビジネスから撤退した。現在はCDCの情報サービス部門がCeridian社(1992年創立)となり、最終的にはCeridian HCM Holding Inc.として残っている。
4) Apollo Computer社
Apollo Computer社(1980年創業)は、1989年Hewlett-Packard社に買収された。HP Apolloというブランドのシステムは今でも販売されている。
次回は1990年、iPSC/860やMP-1が出荷された。3回で終わったSupercomputing Japanの第1回が池袋で開催された。筑波大のQCDPAXは1989年度末に完成し物理の計算を始めるが、なおハード・ソフトのデバッグが必要であった。
(タイトル画像 Seymour CrayとCray-3 出典:Computer History Museum)
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