世界のスーパーコンピュータとそれを動かす人々


提 供

4月 27, 2015

HPCの歩み50年(第37回)-1992年(a)-

小柳 義夫 (高度情報科学技術研究機構)

第3世代のスーパーコンピュータとして、日立はS-3800を、富士通はVPP500を発表した。同時に超並列コンピュータとして、富士通はAP1000を、日本電気はCenju-IIを開発した。IntelはParagon XP/Sを発表し、並列ビジネスに本格的に参入した。日本では3つの超並列研究プロジェクトが走り出した。通産省の新情報処理開発機構(RWCP)、文部省科研費の重点領域「超並列原理」、そして筑波大学のCP-PACSプロジェクトである。

1/22「脳死臨調」が、脳死は人の死との結論を出した、2/7 EC、マーストリヒト条約調印、2/8アルベールビル(フランス)冬期五輪開幕、2/14東京地検、東京佐川急便関係者を特別背任で逮捕、3月、ボスニア・ヘルツェゴビナ独立宣言、軍事衝突へ、3/14 東海道新幹線に「のぞみ」登場、4/29ロドニー・キング事件無罪評決、ロサンゼルスで黒人暴動、6/2常総鉄道列車が取手駅ビルに突入、7/1山形新幹線開業、7/21バルセロナ五輪開幕、9/12毛利衛、宇宙へ、9/17自衛隊、カンボジアでPKO活動へ、9/28金丸信、略式起訴、(佐川急便疑惑)、10/14金丸信、議員辞職、10/17服部君、射殺される、10/23~28天皇、中国訪問。

取手駅ビルに列車が突入した直後、筆者は通勤途中に常磐線で通りかかった。人だかりに気づき、「何か?」と思ったが、すぐポケットラジオを聞いて理解した。

5月3~9日に、日本IBM社が、日本の大学の情報電子関連学科の就職担当者をアメリカに派遣するという企画があり、筆者も参加した。東海岸では、IBM Customer Exec Education Center (Palisades, NY、ハドソン川のすぐ西側)に泊まった。快適ではあったが、全館禁酒なので、こっそり持ち込んだ酒を個室で飲んだ。まず、センターではIBMの世界戦略について説明があった。当時、日本はバブルの余韻が残っていたが、アメリカは不景気で、IBMがどうそれを切り抜けるか解説があった。Watson Lab.では、午前中は研究所全体の説明があり、午後は筆者一人で並列研究部門を訪問した。Marc SnirとGeorge Almasiが対応してくださった。GF11は500ノードで動いているとのこと。RP3について聞いたが昨年閉鎖したと言っていた。T800を16×16に近接接続したVictorとか、i860を2個(片方は通信用)用いたノードを多段ネットワークで結合したVulcanなどの説明を受けた。後者は40人以上で開発していると、かなり力が入った感じだった。今から思うと、VulcanのチップをPowerに代えればIBM SP1である。NY最後の晩に貿易センターの最上階のレストランで食事をしたが、翌1993年2月には地下が爆破され肝を冷やした。もちろん、2001年には9.11事件が起こっている。いずれもアルカイダの仕業であった。西海岸では、Almaden研究所を訪問した。

どういう経緯だか忘れたが、1992年から新技術事業団(JSTの源流のひとつ)の新技術審議会の専門委員を務め、ERATO(戦略的創造研究推進事業)の研究領域選定のお手伝いをすることになった。最初に担当したのは河内微小流動プロジェクト(1992年10月~1997年9月)であった。この専門委員は、1996年に日本科学技術情報センターと合併して、JST(科学技術振興事業団)となった後も継続し、2000年9月まで務めた。

日本の学界の動き

1) Supercomputing Japan 92
3回目のSupercomputing Japanは、4月22~24日、今度は前年竣工したばかりの「みなとみらい」にあるパシフィコ横浜で開かれた。参加費はなんと75000円。実行委員を務めた(参加費免除)。日本側の担当はJTB系のアイシーエス(ICS)企画に変更した。初日の講演は英語で、あと2日は日本語の講演が主であった。展示会場はかなり広く、55社が出展、盛会であった。Convex社が元気で、ヒラヒラの薄物を身にまとった女性を10人ほど踊らせていたのを思い出す。まだ気分は半分バブルだった。

4回目もパシフィコ横浜で、1993年4月14~16日に計画した。今度は組織委員長を頼まれた。プログラム委員長は杉本大一郎。11月のSC92の帰りにLBNLに寄ったが、その時Parker氏とICS企画の鬼頭氏と会い、3人でソーサリトのレストランで打合せた。ところが、日本はバブル崩壊の真っ最中で、出展者が集まらず、1年延期。しかも94年にも開かれず、Meridian Pacificは倒産してしまった。筆者の机の中には、Supercomputing Japan 93の幻のテレフォンカードがある(後述)。

2) JSPP 92
第4回目のJSPPは、パシフィコ横浜で6月15~17日に開催された。プログラム委員を務めた。パネル「並列計算機の実用化・商用化を逡巡させる諸要因とは?」において、「なぜユーザはベクトル計算機から離れられないのか」という発題を(ベクトルユーザの観点で)行った。続いて懇親会を隣接するヨコハマグランドインターコンチネンタルホテルで行ったが、食べ物が乾杯後13分でなくなってしまい、話題となった。雑誌『Oh!X』8月号のpp.162-3に、「第62回知能機械概論『なぜ13分で料理が消えたのか』」という記事が出ていたそうである。担当のA実行委員曰く、「これでも“質より量を”と頼んだんですが。」

3) SWoPP 92
第5回目のSWoPPが、「1992年並列/分散/協調処理に関する『日向灘』サマー・ワークショップ (SWoPP日向灘’92)」の名の下に、1992年8月19日(水)-21日(金)にシーサイドホテルフェニックス(宮崎市)で開催された。発表件数126、参加者数254であった。筆者は初めて参加した。前日に台風が来て飛行機のスケジュールが乱れた。

共催研究会は、電子情報通信学会からは、コンピュータシステム研究会、人工知能と知識処理研究会、ウェーハスケール集積システム研究会、情報処理学会からは、数値解析研究会,プログラミング-言語・基礎・実践-研究会、人工知能研究会、オペレ-ティング・システム研究会、計算機アーキテクチャ研究会、人工知能学会からは知識ベースシステム研究会であった。

JSPPでの13分料理消滅事件に懲りて、「懇親会には夕食を済ませてからおいでください。」という珍掲示が出されたが皆首を傾げた。

4) 数値解析シンポジウム
第21回数値解析シンポジウムは、1992年6月10日(水)~12日(金)に宮城県鳴瀬町野蒜(奥松島)のかんぽ保養センターで開催された。参加者95名。

5) 数理解析研究所
京都大学数理解析研究所の研究集会「数値計算技術の基礎理論」は、伊理正夫を代表として1992年11月4日~6日に開催された。第24回目である。報告書は講究録No. 832に収録されている。

6) 筑波大学
4月1日、新プログラム研究「専用並列計算機による『場の物理』の研究」(CP-PACSプロジェクト)が5カ年計画で開始された。計算物理学研究センターは、政府予算成立の遅れのため4月10日に設置。6月12日に日立製作所と契約した。7月3日にセンターの開所式を行った。

7) TISNなど
TISN (Todai International Science Network)への動きは1988年から始まっているが、1989年にはネットワークの運用を開始した。筆者は,1992年9月ごろ、この運営委員会に加えられた。1992年度末には、43ドメインがTISNに参加していた。任意団体としてはそろそろ限界の規模に近づきつつあった。

6月にINET 92が神戸で開かれたが、この頃の日本の学術ネットワークの状況を石田晴久の報告から引用する。

a) WIDE: 58 domains、Hawaiiと128 kb/s接続
b) BITNETJP: 118 nodes (82 domains)、Princetonと56 kb/s接続
c) SINET: 9 domains(7大型センターと筑波大と学術情報センター)、NASA Amesと192 kb/s接続。
d) JAIN (Japan Academic Inter-University Network): 44 domains、科研費総合研究として1986年発足。IP over X.25で実装。
e) TISN: 17 domains、Hawaiiと128 kb/s接続
f) HEPNET-J(高エネルギー物理学用): LBLと56 kb/s
g) TRAIN(東京地域アカデミックネットワーク):1992年12月18日正式発足

これ以外にも多くの地域ネットワーク、分野ネットワークがあった。程なくこれらが全体的なインターネットを構成するようになる。

日本政府の動き

1) 新情報
通産省は、新情報処理開発機構(RWCP, Real World Computing Partnership)を1992年度から発足させた。当初の案では「4次元コンピュータ」という名前が付けられていたそうである。1990年ごろには「第5世代」に続く「第6世代コンピュータ」という名前も使われていた。英語名も構想の初期にはNIPT (New Information Processing Technologies)であった。1989年から2年間の準備研究が行われ、1990年12月28日に箱根で小さなワークショップが開かれたのに続いて、1991年3月13~14日に東京でInternational Symposium on New Information Processing Technologiesという公開のシンポジウムが開催され、世界12カ国からの30名を含め400名が参加した。1991年にはfeasibility studyが行われ、11月5~8日には横浜でNIPT Workshopが開かれ80名が参加した。このワークショップでは、国内の大学や企業に加えて、ドイツ、韓国、カナダ、シンガポール、英国、オランダ、イタリアから研究テーマの提案があったが、アメリカから一つも出てこなかったことが注目された。米国OSTPは1992年12月18日になってRWCPに参加することを表明した。

プロジェクト推進委員長は田中英彦東大教授、つくば研究所長は島田潤一氏。2001年度までの10年間。RWCPの集中研究室がつくば三井ビルの複数階に設置され、電総研や企業から30人ほどの研究者が結集した。20近い企業が参加した。RWCプロジェクトでは、「柔らかな情報処理機能を持つコンピュータ」をめざし、次世代の情報処理技術の基盤となる (1) 実世界知能技術、 (2) 並列分散コンピューティング技術 の開発に取り組んだ。最初は光コンピューティングにかなりの重点があったが、後半ではPCクラスタの実用化にも貢献した。前半では、RWC-1という並列コンピュータを開発した。

RWCPは、つくば研究所の他に多くの参加企業内に分散研究室を置いた。海外ではドイツのGMDが全面的に参加した他、5月にはStichting Neuronale Netwerken (SNN), Swedish Institute for Computer Science (SICS), National University of Singaporeが加わった。1993年にはドイツ(GMD)との間に512 kb/sのネットワークを引いた。

2) 科研費「超並列」
文部科学省科学研究費重点領域研究「超並列原理に基づく情報処理体系」(代表田中英彦)が始まった。1995年までの4年間で、総括班の他4つの班に分かれていた。A班は「超並列処理モデルに関する研究」(主査、村岡洋一)、B班は「超並列記述系・処理系に関する研究」(主査、雨宮真人)、C班は「超並列処理体系・制御系に関する研究」(主査、斎藤信男)、D班は「超並列ハードウェア・アーキテクチャに関する研究」(主査、富田眞治)であった。D班では JUMP-1という並列コンピュータ(当初1024プロセッサを計画)を開発した。各研究者が自分のアイデアを詰め込んだので、システムとしての統一性に欠けるところがあった。実際にはJUMP-1は後続の「並列分散コンソーシアム」において256プロセッサで実現した。

筆者は、A班に「場モデルによる超並列処理の研究」という公募課題として採用され、大学院生を中心にマルチグリッド前処理共役傾斜法の研究を行った。1992年度採択の公募課題は14件であった。総括班の最初の会議が6月に開かれた。

「これまでの『ばらまき』になりがちな重点領域研究の研究方法とは異なり、ハードウェア、OS、言語処理系等のシステム、並びにアプリケーション・プログラムを実際に参加研究者が協同で開発している点に特徴がある。」というお題目で始めたが、うるわしき垂直統合は現実には困難であった。実際にはわれわれのモデルの班では、富士通から寄付していただいたAP1000をプラットフォームとして研究開発を行った。

これは通産省のRWCPや筑波大学のCP-PACSと並ぶ、我が国の超並列マシン開発プロジェクトの1つでもあった。

3) Kahanerの観察
1990年ごろからUS Office of Naval Research Asiaの一員として来日していたDavid K. Kahaner(元NIST、専門は数値解析)は、日本の情報科学研究についての情報を配布していたが、1992年6月29日のニュースでは、「日本においては、研究開発における政府の役割は(アメリカと比べて)比較的小さい」と見ている。

日本の企業の動き

S-3800

HITAC S-3800/480

出典:

一般社団法人情報処理学会 Web サイト

「コンピュータ博物館」

1) 日立
4月、日立は第3世代のHITAC S-3800シリーズを発表した。最大のmodel 400は4並列の共有メモリプロセッサで、ピーク性能32 GFlopsであった。日立では最初の並列ベクトルプロセッサである。従来のS-810やS-820に比べてベクトル命令が9個増えている。8つはvector=vector×vector+vector型の演算であるが、もう一つは乱数生成用の7バイト整数乗算である。

これは、実は後藤英一先生と筆者のアイデアである。31ビットの整数では乗算合同法の周期229が1秒以下で生成されてしまい、不十分である。ところが、日立のベクトル乗算器は、S-820でも倍精度の仮数部56 bitsの乗算において、積を112 bitsフルに保存している(下位を捨てないのは整数演算にも使うためであろう)ことを知り、これを使ってわずかなゲートの付加で56 bitsの乗算合同法を実行することをGNOH研究会で提案した。これで周期は254に伸びる。S-3800のベクトル命令に採用された。他の目的には使わず、乱数パッケージだけで使われていた。その後のシステムには継承されていない。実はS-820でも下位の56ビットを上位に移す命令があり、これを使うとS-820でも同様なことができる。がんばってそのアセンブラプログラムを書いてみたが、テストはしていない。

ベクトルコンピュータではバンクコンフリクトが大問題であった。メモリが2のべき乗個のバンクに分かれているので、連続アクセスには強いが、2の高いべき乗の奇数倍の間隔でアクセスすると、同一バンクを集中的にアクセスすることになり実質的なメモリバンド幅が激減する。しかも、科学技術計算にはこういうケースが多い。そこで、S-3800では、バンクのマッピングに工夫を加え2のべき乗の間隔のアクセスでもコンフリクトが起こらないようになっていた。しかしバンク数が有限である限りバンクコンフリクトは完全にはなくせない。この工夫により今度は9語とか17語とかの間隔でコンフリクトが起こるようになった。筆者の作ったQCDのプログラムでは、カラーの自由度が3のため、3×3=9語間隔のアクセスが頻出していたために、かえって遅くなってしまった。この原因を究明するまでに時間を要した。原因が分かったので、割り付けを変えて対処した。

メインフレームでは、2月にM-860プロセッサグループを発表した。
1996年6月のTop500から、S-3800の設置状況を示す。

設置組織 機種 Rmax 設置年
東京大学大型計算機センター S-3800/480 28.4 1993/2
気象庁 S-3800/480 28.4 1995
日立社内 S-3800/480 28.4 1994
東北大学金属材料研究所 S-3800/380 21.6 1994
北海道大学 S-3800/380 21.6 1994
電力中央研究所 S-3800/380 21.6 1996
気象研究所 S-3800/180 7.4 1993
スズキ株式会社 S-3800/260 7.1 1993
千葉大学 S-3800/160 3.7 1996

 

2) 富士通

AP1000

FUJITSU AP1000

出典:

一般社団法人情報処理学会 Web サイト

「コンピュータ博物館」

 

富士通は、9月10日、第3世代のスーパーコンピュータとして、高並列ベクトルコンピュータVPP500を発表した。これはNAL(航空宇宙技術研究所)と富士通が共同開発し、翌1993年1月に稼動したNWT (Numerical Wind Tunnel 数値風洞)の技術で開発されたもので、物理的には分散メモリの高並列ベクトル計算器である。ノードはGaAs, BiCMOS, ECLが混在して用いられ、クロックは10 ns、ノード当たりのピーク性能は1.6 GFlopsである。また相互接続網は単段のクロスバネットワークで、理論上222ノードまで結合できる。スカラユニットはメインフレーム互換ではなく、64ビットのLIW (Long Instruction Word)プロセッサであった。出荷は1993年9月を予定していた。

1996年6月のTop500においては、VPP500の設置状況は以下の通りである。

設置組織 機種 Rmax 設置年
高エネルギー研 VPP500/80 98.9 1994
名古屋大学 VPP500/42 54.5 1995
日本原子力研究所 VPP500/42 54.5 1994
東大物性研 VPP500/40 52 1994
国立遺伝研究所 VPP500/40 52 1995
オングストローム技術研究組合 VPP500/32 42.4 1993
筑波大学 VPP500/30 39.8 1993
理研 VPP500/28 37.2 1993

これ以下のVPP500は10件記載されている。

これとは別であるが、このころ富士通は1チップのベクトル処理LSI(μVP)を発表した。テクノロジは0.5μCMOS。クロック70 MHzで、ピーク性能は単精度289 MFLops、倍精度149 MFLopsである。バスのバンド幅は560 MB/s。ただ、ベクトル命令のissueに制限があり、ベクトルスーパーコンピュータには及ぶべくもなかった。以前に述べたとおり、Meiko Scientific社(1985年創業)は、1993年、SPARCとμVPをノードとしたCS-2を開発している。「マイクロヴェクトルプロセッサμVPボード」(ママ)を開発した会社もあった。

10月、富士通研究所は、超並列コンピュータAP1000を発表した。これは16台から1024台のSPARCチップを用いたPEからなる分散メモリ型並列コンピュータであり、2次元トーラス形のトポロジで接続されている。そのほかに放送用のネットワークと同期用のネットワークを持つ。CAP-IIという名前で開発されて来たものであろう。1024台の場合の最高性能は12.5 GFlopsであった。発表の前年1991年9月号のSupercomputing Reviewによると、富士通は、その頃からすでに海外の大学2校にAP1000(というかCAP-II)を設置している。英国のUniversity of Manchester Institute of Science and Technology (UMIST)とオーストラリアのAustralian National University (ANU)である。

富士通は1991年頃から並列処理研究センターにAP1000を設置し研究者に公開している。あわせて1992年から公開のワークショップ”Parallel Computing Workshop”を川崎市中原の富士通川崎工場などで毎年開催している。筆者が参加したのは1996年ごろからである。なお、このセンターでのAP1000など超並列コンピュータの提供は1999年3月末で終了した。

メインフレームでは5月、新M-1000シリーズを発表した。

3) 日本電気
1988年に並列コンピュータCenjuを開発した日本電気は、1992年に並列コンピュータCenju-IIを開発した。CPUとしてはMIPS R3000のNEC版であるVR3000(25 MHz)を用い、プロセッサ数は最大256である。初代のCenjuとは異なり、純然たる分散メモリマシンである。Cenju-IIは一般的な商品ではないが、スイスのCSCSにはSX-3とともに設置されていた。また1993年1月には日本原子力研究所那珂研究所が20プロセッサのCenju-IIを導入し、プラズマ核融合のシミュレーションに用いている。

4) 計算流体力学研究所
同社は、一時は数十社の取引先があったが、業績不振に陥り、富士通や日立のベクトルスーパーコンピュータを5月末までにすべて撤去した。7月23日付けの日本経済新聞によると、同社はユーザ会社に使用料残額7億円の支払いを求めて訴訟を起こしたことが書かれている。契約の曖昧さが問題とされている。背景にはバブル崩壊があったと思われる。日経ビジネス1993年6月14日号で、桑原氏は「父親の遺産を惜しげもなくスーパーコンに投入、100億円もの資金を使ったが、それ自体には悔いはない」と語っている。

新会社「流体力学研究所」を設立してソフトウェアを中心とした事業を継続した。日本クレイがこの会社に出資し、スーパーコンピュータを貸与するとのことである。一部のソフトをクレイ製品に移植する作業が始まった。

5) リクルート社
スーパーコンピュータの時間貸し事業をやってきたリクルート社は、所有しているスーパーコンピュータ2台を1992年度中に廃棄し、事業から撤退すると発表した。研究所は1993年に閉鎖。

世界の動きなどは次回に。HPFがまとまりつつあり、日本でも勉強を始めた。

(タイトル画像: 富士通 VPP-500  出典: 一般社団法人情報処理学会Webサイト「コンピュータ博物館」)

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