世界のスーパーコンピュータとそれを動かす人々


提 供

6月 1, 2015

HPCの歩み50年(第41回)-1993年(a)-

小柳 義夫 (高度情報科学技術研究機構)

1993年の大事件は、IBMがSP1を、Cray ResearchがT3Dを発表し、満を持して超並列ビジネスに参入したことである。これによって市場の空気は一変し、1980年代からがんばって来た並列ベンチャーが続々倒産や吸収に追い込まれた。その背景にはアメリカ政府(特にDOD)がTMCやIntelばかり応援しているというGordon Bellらの批判もあった。さらにこの年にはTop500が登場した。アメリカ政府は副大統領ゴアの主導のもと、HPCと通信に多大の投資をおこなった。

社会の動きとしては、1/18山形県、中学生がマットに巻かれて死亡、1/20クリントン米大統領就任、2/26ニューヨークの世界貿易センタービル地下駐車場で爆発、3/6金丸信、逮捕、3/18「のぞみ」が山陽新幹線乗り入れ、4/23天皇、初の沖縄訪問、5/11自衛隊、モザンビークPKO活動(1995年1月6日まで)、5/15サッカーJリーグ発足、6/9皇太子結婚、6/18衆議院解散、6/22自民党羽田・小沢派の44人が離党、翌日新生党結成、7/12北海道南西沖地震、8/6土井たか子、初の女性衆議院議院議長、8/9細川内閣発足、自民党野党へ、10/19アメリカの加速器計画SSCの予算が否決、計画中止へ、10/20美智子妃、失声症、12/11姫路城、世界遺産登録、12/16田中角栄死去、など。この年は、エルニーニョや2年前のピナトゥボ火山噴火などのため、記録的な冷夏で米不足(平成の米騒動)になった。

Top500秘話

最初のTop500は、1993年6月1日に発表された。申請に基づき、1991年に提唱されたLINPACK HPC(Highly Parallel Computing、サイズは自由)のFlops値(Rmax)で、世界中のスーパーコンピュータを順位付け、1位から500位までをリストしたもので、著者はJack Dongarra, Konxville and Hans Meuer, Mannheimとなっている。Erich Strohmaier (Mannheim)は実際の作業を担当したようだが、このときの著者には入っていない。当時はまだWWWが一般的でなかったので、comp.sys.superというネットニュース(ネットニュースは1980年ごろ始まる)や、netlibというftpサービスによって発表された。

Dongarraらは、それまでLINPACK(サイズ100,1000,任意)を用いたコンピュータの性能評価のリストを定期的に作成してきた。1993年4月には、LINPACKに基づく“Top 550 Computers”(04.02.93)などという表も公表されているらしい。また、Meuerらも、Mannheim Supercomputer Seminar(1986年開始、2001年からはISC)では第1回からスーパーコンピュータの性能の情報収集を行っていた。2014年6月19日付けのHPCwireに掲載されているNages Sieslack (ISC)のHans Meuer追憶記事では、Dongarraの方からMeuerに協力を申し出たと書かれているが、私の想像では、むしろMeuerがDongarraに呼びかけて、LINPACK HPCの数値を用いて組織的にランク付けを行うTop500を始めたのではないかと思われる。

6月の第1回のリストでは、1~4位はCM-5、5~6位はSX-3であった。Mannheim Supercomputer Seminarは6月に開催されているが、発表は6月1日なので、現在のように、会議のイベントとして発表したのではないようである。日本のNWT(数値風洞)は、すでに動いていたのに、最初のリストには載っていない。

このとき、ちょっとした騒ぎが巻き起こった。Top500に対して、西オーストラリア大学のGunter Ahrendtがいちゃモンをつけたのである。実は、かれは1993年1月11日付けで、ニュースグループcomp.sys.superにおいて”List of the world’s most powerful computing sites as of 11-JAN-93”を公表している。これは、サイト毎に、所蔵するコンピュータ(7 MFlops以上)のピーク性能の総和を出し、これを順にリストしている。1位はLLNL (34138 MFlops)、2位はPSC (22540 MFlops)など130位まである。かれはNASA NPBの数値を使ったと書いているが、どう見てもピーク値である。Meuerがこのリストを見たかどうかは分からない。

彼は早速comp.sys.superに投稿し、「これは私が膨大な時間を使って作ったリストだ。DongarraとMeuerは私のリストのentryを盗んで、LINPACKに入れ替えただけだ。 “So Dongarra shows his true self, a rip-off merchant.”(ドンガラはついに正体を現した。かれは悪徳商人だ。)」と激怒した。Dongarraは当惑したようだが、Ahrendtの余りに下品な激怒に、多くの識者がTop500の肩を持った。Ahrendtはその後もしばらく定期的に(webに)リストを出していた。

すっかり忘れていたが、当時筆者はAhrendtとメールのやりとりをしていて、日本のスーパーコンピュータのデータを尋ねられたり、送ったりしていた記録がある。

面白いことに、1996年9月6日号のHPCwireに彼のインタビューが載っている。それによると、「私はドイツ生まれで、Perthで育ち、西オーストラリアの政府機関で働き、1994年にクジでアメリカの永住権を取ったのでアメリカのカリフォルニアに移住した、私のwebには1日150件のアクセスがある。」などなど。激怒した時よりはだいぶ落ち着いた感じである。1999年ごろもらったメールでは所属をGAPCON Corp. (NJ)と書いている。

11月には第2回のTop500リストが出た。日本のNWT (140 processors, Rmax=124, Rpeak=235.79)がトップに躍り出た。(後述)

LINPACK benchmarkでコンピュータを評価することについていろいろ批判がなされている。たしかに、演算速度のみに重点があり、メモリバンド幅やランダムアクセス性能、相互接続網のバンド幅などは大きく影響しない。しかし、これは結果論である。この時点で考えると、メモリバンド幅や相互接続網のバンド幅が小さく、LINPACKがまともに(ピーク性能の2~3割以上で)動かない並列コンピュータは数多くあった。つまり、LINPACK benchmarkは、並列コンピュータのメモリバンド幅や相互接続網のバンド幅などについてベースライン(最低条件)を定めたと見ることができる。LINPACKでさえまともに動かない並列コンピュータは舞台から姿を消した。これがLINPACKおよびTop500の大きな功績であったと思う。

アメリカ政府の動き

1) アメリカの情報スーパーハイウェイ構想
クリントン政権は1993年1月に発足したが、副大統領Al Goreは情報スーパーハイウェイ構想を発表した。これは官民共同で、ネットワークや情報機器や情報サービスを整備し、情報革命を推進するという構想である。

6月30日、アメリカ連邦下院のCommittee on Science, Space and Technologyは、National Information Infrastructure Act of 1993を通過させ、本会議に送った。これはこれまでHigh Performance Computing and High Speed Networking Application Act of 1993と呼ばれていたもので、HPCや高速ネットワーク応用のために、1994~1998会計年度に総計$1B(約1000億円)を投資しようとするものである(アメリカの会計年度は前年10月から9月まで)。

2) Blue Ribbon Panel on High Performance Computing
NSFはLewis Branscombを座長とするNSF Blue Ribbon Panel on High Performance Computingを構成し、1993年8月に報告書をNSB (National Science Borad)に提出した。副題は、“From Desktop To Teraflop: Exploiting the U.S. Lead in High Performance Computing”である。これには現在NSFが直面している4つの挑戦が述べられている。

a) 急速に発展するHPCを米国中の科学技術者に利用可能なものとするための障害の除去。
b) デスクトップからGrand Challengeに必要なTera Flopsまでの階層的な資源へのアクセスを提供する。
c) HPCのユーザ層を教育と訓練により広げること。
d) 将来のHPCへのリーダーシップをどう育成するか。HPCCの中でのNSFの位置づけ。

そのためにNSFの投資を拡大することが必要であることを強調している。4つのスーパーコンピュータセンター(Cornell, UCSA, PSC, SDSC)はこの報告に勇気づけられた。CornellとUCSAは二三年後にベクトルコンピュータを停止してスケーラブルな超並列コンピュータを中心に置く構想を発表した。この報告書からPACI (Partnerships for Advabced Computational Infrastructure, 1997/3)につながっていく

3) アメリカ国防省HPC現代化プログラム
アメリカ国防省(DOD)は、1993年、国防省のスーパーコンピュータ・インフラ構造を革新するためにHPCMP (The High Performance Computing Modernization Program)を発足させた。スーパーコンピュータとともに、ネットワークDREN (The Defense Research and Engineering Network)をも含む。

4) Gordon Bellの批判
このころ日本で、ISRのMendez氏から、「Gordon Bellが、つぶれるべきコンピュータ会社が政府の援助により生き延びている、と批判している。」という話を聞いた。主な標的はTMCのCM-5と、IntelのParagonのようである。このころGordon Bell氏は同様な趣旨の発言を何度も行っているようであるが、手元にあるHigh Performance Computing and Communication Weekの1993年7月8日号には、かれへの長文のインタビュー記録と、TMCとIntelからの反論が掲載されている。かれは「連邦政府(とくにDARPA)はコンピュータ・アーキテクチャ(の選択)から手を引け」と言っている。

実はDARPAへの他社からの同様な批判は、以前からなされていた。1991年、Cray Research社やIBM社は、「DARPAは不当にTMCを助成している」と批判した。MasParやnCUBEがIntelとTMCに対するDARPAの支援を批判した記事もある。4月にはこのような批判に答えて、同社がDARPAから受けた研究資金やDARPAによる購入の詳細について明らかにした。

このせいかどうかは別として、TMCは結局翌年1994年8月に破産することになる(後述)。

またBellは1994年12月のDecision Resourcesにおいて同様な発言をしている。「ある会社に政府が直接投資して製品を開発させることが、健全な会社を育成するとは思われない。」

5) SSC計画中止
HPCとは直接の関係はないが、元高エネルギー物理屋の筆者としては、SSC計画が建設途中で中止されたことは大事件であった。SSC (Superconducting SuperCollider)とは、テキサスのダラスの近くに建設中の巨大な高エネルギー加速器で、超伝導磁石を使い、衝突型であるところからこの愛称が付けられていた。すでに86.6 km長のトンネルも1/4程掘られ、多数の研究者も働いていたが、予算が年々膨張するなどからアメリカ議会は冷たく、毎年の予算審議のたびに建設を中止すべきだとの議論が起こっていた。

10月17~20日に、筆者はたまたま、PDG (Particle Data Group) の日本代表として、外部評価を受けるためにLBNLに滞在していたが、この間10月19日にあった下院本会議での討論の生中継を研究所の所長室で、所員仲間とワイワイ言いながら見た(『SSC最後の日』)。

反対派の言い分は、”I do not say SSC is a bad science. It is a good science. But it is an unaffordable science.” という誰かの発言に要約できる。賛成派は、「アメリカが技術的優位を保つためには、基礎科学に投資する必要がある」と言っていた。結局、283対142で、SSCの予算削除が可決された。党議拘束のない議会運営は目から鱗であった。その結果SSC計画は中止された。

この前日10月18日には、North BerkeleyにあるApplied Parallel Research社のオフィスにRichard Friedman氏を訪ね、xHPF90 pre-compilerのデモを見せていただき議論した。このオフィスは彼一人しかいないとのことであった。

中国政府関係

1) 曙光(Shuguang, Dawning)
中国科学院コンピュータ技術研究所は、Motorola 88100を4個、Motorola 88200を8個用いた共有メモリマルチプロセッサ「曙光一号(Shuguang Yihao)」を開発した。OSはUnix V、ピーク性能は640 MFlops。1993年10月に政府の証明書を獲得した。20台以上が製造された。この動きは1996年の曙光信息産業有限公司(Dawning Information Industry)の創立に連なる。

世界の学界の動き

1) SC93
第6回のSupercomputing国際会議(Supercomputing ‘93報告)はオレゴン州ポートランドのOregon Convention Centerで11月14から19日に開かれた。参加者5196名、内technical session登録1886人の規模であった。展示は106件で初めての3桁。テーマがネットワークの方に広がった。Gigabit、ATM、NIIなどの話題が注目された。会場には45 Mb/sのバックボーンが引かれていた(Gb/sではないことに注意)。会場には、参加者のために数十台の端末を用意してtelnetのサービスを行っていた。日本への接続も快適であったが、漢字やかなが出ないのは困った。まだlap topを持ち歩く習慣はなかった。

目欲しいものもたくさんあった。Cray-3のクロック2 nsのボード、CM-5X、KSR2、Convex、IBMのSP2とか。SequentやParsytecは出展していなかったが、SequentはE-mail serviceのスポンサーとして協力していた。日本からは富士通や日本電気。ソフトではFortran 90関係やHPFなど。HPFは別項目で示す。研究展示にもリキが入っていた。アプリとしては、MPP上の並列化が進んでいた。種々の並列コンピュータをプラットフォームとして、流体や計算化学などのアプリが動いていた。Oracleデータベースなどの非数値計算の応用分野の重要性を各社とも強調していた。

もう一つの特徴は、教育とくにハイスクールでのコンピュータ教育の問題がクローズアップされたことである。HPCCの中には教育の問題も含まれている。前年から始まっているようであるが、K-12(幼稚園から高校3年まで)という標語で特別のプログラムや展示が企画され、ハイスクールの先生が多数参加していた。高校生が地理学から計算物理、計算化学などの問題をスーパーコンピュータを駆使して解き、かなりレベルの高い発表を行っていた。日本では、パソコンすら高校に行き渡っていない。これでは日本はますます遅れてしまう、と筆者達は焦りを感じた。

会議の主要部分の始まる前、14日か15日に、会場近くのホテルでIEEE Technical Committee on Supercomputing Applications (TCSA)のSSS (Scientific Supercomputing Subcommittee)が開かれた。これは1991年に始まった会議で、世界のスーパーコンピュータとHPCの進展を分析するためのもので、年に4回ほど会合を持っているようである。今回、筆者は依頼により出席し”Japanese Efforts”と題して、日本の状況について報告した。この後、1995年には日本のHPCそのものをテーマとする会議を企画することになる。

前年創設されたSidney Fernbach Awardの第1号は、「ベクトルコンピュータ上のFFT、行列乗算、多倍長計算に関する革新的アルゴリズムなどの数値計算上の寄与」に対して、David H. Bailey(当時NASA Ames Lab.)に授与された。SCの最中に授与式があったかどうか記憶はない。

2) PSC計画(日本)
SC93の直後、村岡洋一(早稲田大学)から連絡があり、アメリカでは高校生以下まで並列計算を浸透させているが、日本ではコンピュータ科学者でさえ本当に並列ソフトを作った経験のある人が少ない、という認識のもと、94年のJSPPにおいて並列計算機を開放してコンテストをやろうという提案があった。筆者はJSPPの実行委員長だったので連絡があったのだと思う。具体的な展開は次の1994年である。

世界の動きの続きは次回。HPFには早くも暗雲が漂い始めた。HPCではないが、Mosaicの登場は画期的で、これによりWWWが飛躍的に利用されるようになった。

 

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