世界のスーパーコンピュータとそれを動かす人々


提 供

6月 22, 2015

HPCの歩み50年(第44回)-1993年(d)-

小柳 義夫 (高度情報科学技術研究機構)

日本はベクトルコンピュータ全盛であった。航空宇宙技術研究所のNWTはベクトル超並列コンピュータで11月のTop500の首位を占めた。情報処理学会の「数値解析研究会」は「ハイパフォーマンスコンピューティング研究会(HPC研究会)」と名前を変えた。日本でもHPCという言葉が使われるようになった。

日本の学界の動き

1) 情報処理学会
情報処理学会では、これまでの「数値解析研究会」を名称変更し、「ハイパフォーマンスコンピューティング研究会(HPC研究会)」を発足させた。趣意書によると、「数値解析は計算機利用の中でもっとも長い歴史をもつ分野のひとつですが、他の研究発表の機会の増加という事情があり、情報処理学会の研究活動が相対的に沈滞しておりました。」とあり、日本応用数理学会の発足もあって、新しい方向性が求められていた。HPC研究会では、「情報処理の新しい流れ、例えば、並列・分散処理、ベクトル処理、ワークステーション、実験システム、スーパースカラ、キャッシュ、メモリアクセスなどを取り込めるような研究会を目指した。

アーキテクチャ研究会などとは重複する分野もあるが、連携を深めると同時に、HPC研究会は高性能計算のためのシステム化技術を対象とする点で、要素技術を対象とする他の研究会と違いを出した。

第1回研究会は、4月26日に竹橋会館で開かれ、筆者は「ハイパフォーマンスコンピューティングと並列処理」と題して講演した。当時筆者は、HPFに大きな希望を寄せており、HPFが並列化の基本モデルとなるのではないかと期待していた。HPFコンパイラは使わなくても、HPFプログラムをベースにMPIプログラムを作成する、という並列化方法論を考えていた。ただHPFでは、同期がたくさん入ってしまい、ソフトウェア・パイプラインがうまく動かないという難点を感じ始めていた。

第2回研究会は「EWSにおけるHPC」という特集で、工学院大学において6月18日に開かれた。年度内にはSWoPPを含め合計5回開催された。年間発表件数は50件強であった。

2) JSPP 93
第5回目のJSPP93は、早稲田大学総合学術情報センター国際会議場で5月17~19日に開かれ、筆者はプログラム委員長を務めた。主催は、情報処理学会・計算機アーキテクチャ研究会、データベース研究会、アルゴリズム研究会、プログラミング-言語・基礎・実践-研究会、数値解析研究会、電子情報通信学会・コンピュータシステム研究会、協賛は、日本ソフトウェア科学会、人工知能学会であった。委員長は村岡洋一、副委員長は小柳 義夫(プログラム委員長)と島田 俊夫、幹事は、上田 和紀,中島 浩,村上 和彰であった。

3) ICS93
7月19~22日に、早稲田大学総合学術情報センター国際会議場を会場にして、第3回目のICS (International Conference on Supercomputing)が開かれた。本当は「世界の動き」の方に入れるべきかも知れない。ACMからプロシーディングスが発行されている。最終日にパネル討論”Supercomputing in 1998”があり、筆者も参加した。

この国際会議で、中村宏らの筑波大グループは日立関係者と連名で“A Scalar Architecture for Pseudo Vector Processing based on Slide-Windowed Registers”という講演を行い、slide-windowのアイデアを初めて発表した。

また、直後の7月23日には、同じ会場で、科研費島崎班の最終年シンポジウムを兼ねて”Workshop on Benchmarking and Performance Evaluation in High Performance Computing”(代表、津田孝夫教授)が開かれた。

4) SWoPP 93
第6回目のSWoPPは、「1993年並列/分散/協調処理に関する『鞆の浦』サマー・ワークショップ (SWoPP 鞆の浦’93)」の名の下に、1993年8月18日(水)-20日(金)に 鞆シーサイドホテル(広島県福山市)において開催された。発表件数127、参加者数248であった。共催研究会は、電子情報通信学会からは、コンピュータシステム研究会, フォールトトレラントシステム研究会、情報処理学会からは人工知能研究会、アルゴリズム研究会、計算機アーキテクチャ研究会、プログラミング-言語・基礎・実践-研究会、ハイパフォーマンスコンピューティング研究会、システムソフトウェアとオペレ-ティング・システム研究会であった。

5) 数値解析シンポジウム
第22回数値解析シンポジウム(1972年発足)が、6月9日(水)~11日(金)に宮城勤労総合福祉センター蔵王ハイツで開かれた。参加者93名。

6) 数理解析研究所
京都大学数理解析研究所の研究集会「数値計算アルゴリズムの現状と展望」は山本哲朗(愛媛大学)を代表として、1993年10月25日~27日に開催された。第25回目である。報告書は講究録No. 880に収録されている。

7) ISR Workshop
リクルートISRは1993年に閉鎖され、Raul Mendezは東京でISR (International System Research)というオンラインショッピングなどの会社を立ち上げた。

ISR Workshop「実用化時代の並列処理」が、8月30日に筑波第一ホテル(現在のオークラフロンティアホテルつくば)において開催された。ワークショップとあわせて並列コンピュータ展示会も開かれた。プログラム委員は、R. Mendezと朴泰祐と筆者であったが、主催のISRはリクルートISRではなく、Craig Lundを社長とするアメリカのコンサルティング会社(Durham, New Hampshire)であり、MendezのISRのアメリカ側のパートナーらしい。協賛は(財)科学教育研究会。参加者は約100人であったが、後に述べる1993年度の補正予算でスーパーコンピュータを購入する予定の日本の11組織から参加を得て、アメリカのISRとしては米国のベンダと結びつけるよいチャンスであった。

ちなみに、Craig Lundは元々Mercury Computer Systemsという組み込みシステム会社の技術者であったが、この頃はISRとともに雑誌Parallelogramの編集者をやっていた。

supercomputingjapan93-card

 Supercomputing Japan 93

テレフォンカード

SM-1

SIMD型並列計算機 SM-1

出典

一般社団法人情報処理学会Webサイト

「コンピュータ博物館」

8) Supercomputing Japan 93の延期
第4回目のSupercomputing Japan 93は、昨年と同様にパシフィコ横浜で4月14~16日に計画していたが、出展者から、昨今の経済状況に鑑み、あと一年景気の回復を待ちたいとの希望が出され、1994年6月15~17日に、東京池袋サンシャインシティーに会場を戻して開催することとした(結果的には中止された)。せっかく作ったテレフォンカードが宙に浮いてしまった(写真)。

9) PCG’93
1985年から慶応大学理工学部で開かれてきたPCGシンポジウムは、9回目のこの年「並列処理と科学計算シンポジウム」として3月2日に開催された。

10) 愛媛大学
山本哲朗(愛媛大学)主催の国際シンポジウムが7月5~9日に奥道後ホテルで開かれ、筆者はマルチグリッド前処理CG法について講演した。愛媛大学は1990年8月(世界数学会議に続き)にも同様な国際会議を松山のANAホテルで開催している。

11) 豊橋技科大 SM-1
豊橋技術科学大学の湯浅太一らは、SIMDの並列計算機SM-1を住友金属工業との協力の下に開発した。SM-1は1024台のPEを持ち、各PEは8ビット演算のALU、128バイトの汎用レジスタを持つ。

2台製作され、1台は豊橋技科大で画像処理、素因数分解、数式処理などに使われ、もう1題は慶應義塾大学の安村研で並列Fortranの開発に使用された。浮動小数演算はマイクロコードで実装したため、高い性能は得られなかった。

12) 東京大学
筆者が勤務していた東京大学大学院理学系研究科情報科学専攻では、1億強の予算が付き、「高並列高分散研究支援装置」を購入することになった。経緯は忘れたが、文部省高官が専攻を見学に来られたとき、「何がほしいか?」とご下問があったので、「高並列の研究教育のできる機械がほしい」と答えた記憶がある。市場を調査したところ、外国ではCrayのAPP、Convex、IntelのParagon、TMCのCM-5、IBM、KSR、ParsytecのGC256、NCUBE3など、国内では、Cenju-3、AP1000などが候補に上った。官報公示が8月20日、入札締め切りは10月13日、納入期限1994年3月25日であった。コンピュータ科学の研究を行うので、単なる計算速度より、並列計算方式、OS,言語処理系、アルゴリズム、計算モデル、可視化などの研究を行うことを重視した。

開札の結果、富士通のAP1000+ (256 nodes)と決まった。ペナペナのPCクラスタを見慣れていた我々は、納入されたAP1000+を見て、「これはメインフレームだ」と驚嘆した。このマシンはその後しばらく、専攻の主要な研究ツールとなり、筆者の研究室でも多くの論文を産出した。

13) 日本IBMのHPCユーザーズ・フォーラム
日本IBM社はユーザグループとしてHPCユーザーズ・フォーラムを組織し、東京理科大学教授(東京大学名誉教授)川井忠彦教授を会長にお願いしていた。SP1の発売開始にともない、ユーザーズ・フォーラムの中に約半年の予定で「パラレル研究分科会」を作り、筆者が座長、八尾徹(三菱化成)と窪島達雄(日産車体)両氏が幹事となった。設立記念を兼ねて、12月9日に第1回の定例会を開いた。定例会はほぼ月1回のペースで開催した。

パラレル研究分科会では、川崎のIBMに設置されているSP1を、参加者に試用させ、並列処理を体感させるワークショップを行った。主として企業のメンバー10数名が参加した。応用テーマとしては、PVMやFORGE90の試用のような練習レベルから、FEM、分子科学、3次元乱流、中性子モンテカルロ、ILUCGS法などの実用問題までいろいろあった。

日本の国家的プロジェクト

1) 科研費重点領域
前年に始まった科研費重点領域研究「超並列原理に基づく情報処理体系」のカテゴリー4「超並列処理モデルに関する研究」(最初はA班といっていたはずだが)は、1月9日から10日に箱根の静山荘で合宿を行った。また、全体の重点会議は、9月19日から21日に、湯布院で開催された。

2) 「性能評価の標準化」
日本規格協会の情報技術標準化研究センター(INSTAC)の調査研究事業として、日本小型自動車振興会の補助を受け、1993年度に「システムの性能評価調査研究委員会」を行うことになり、筆者が委員長を務めた。これは日本応用数理学会の「高性能計算機評価技術」研究部会(1990年度~91年度)の成果を引き継ぐものである。実際に開始したのは11月であった。

3) 数値風洞
航空宇宙技術研究所(現在のJAXAの前身の一つ)は、富士通と共同開発したNWT(数値風洞)を、1993年1月に稼動し、2月から運用を開始した。1993年6月の第1回のTop500リストには登場していない。Top500を知らなかったのか、LINPACK計測が間に合わなかったのか、政治的理由(日米貿易摩擦?)もしくは科学的理由(LINPACKなど研究の本旨ではない)で避けたのか、不明である。関係者によるとどの理由も何となく当たっているようである。

数値風洞の噂は1991年ごろから聞こえてきていた。筆者は出席しなかったが、1991年6月12~14日に航空宇宙技術研究所で開催された「第9回航空機計算空気力学シンポジウム」において、三好甫や福田正大らはいくつかの講演を行い、数値風洞の概要を開示した。それによると、システムは100台以上のPEが完全クロスバで結合され、各PEはVP-400より速いということであった。

NWTの開発を推進した三好甫は、1993年3月航空宇宙技術研究所を定年退職し、材料科学技術振興財団に移った。三好はアメリカのHPCC計画に危機感を抱き、財団内に「計算科学研究会」(仮称)を設立することを提案したが、科学技術庁は三好甫を会長とする計算科学研究会を12月から発足させた。この活動は、若手の研究会とマネージャクラスの懇談会に分かれて実施された。これがやがて地球シミュレータ開発に向かう。

商用機であるFACOM VPP500と共通の技術開発が行われており、CPUボードではBiCMOS、ECL、GaAsの3種類のLSIが使用されている。主な違いは、VP500のクロックが10nsである(したがって、プロセッサ当たりのピーク性能が1.6 GFlops)のに対し、NWTは9.5 nsであること(ピーク性能1.68 GFlops)である。演算ノードは140台なので、ピーク性能(Top500ではRpeakという)は235.79 GFlopsである。

1993年11月の第2回Top500には登場し、Rmax=124 GFlopsで1位を獲得している。メーカである富士通が測定したようである。RmaxはLINPACKのHPCでの測定値である。今から見ると、ピーク比は52.6%でベクトルプロセッサとしては低い。チューニング不足と思われる。

1994年6月の第3回では、アメリカのSNLのParagon XP/S 140(3680プロセッサ、Rmax=143.4、Rpeak= 184)にトップを奪還され、2位になってしまう。

続く1994年11月では、プロセッサ数は変わらないが、チューニングを行い、Rmax=170で1位を奪還した。そのまま95年11月まで1位を確保した。1位は合計4回である。

1996年6月は、東京大学大型計算機センターのHITAC SR2201(1024プロセッサ、Rmax=220.4、Rpeak= 307.2)が1位となり、NWTは2位となった。Top500のリストによると、このときプロセッサ数は166に増え、Rpeak=279.58となっているが、Rmaxは変わっていない。ちゃんと計測していなかったのであろうか。なお、NWTのクロスバは56プロセッサが単位となっていて、I/Oノード2台を入れて168は3単位の上限であった。次の1996年11月のTop500では、プロセッサ数は167となり、Rpeak=281.26、Rmax=229で2位となっている。I/Oノードの1台を演算に使ったのであろう。チューニングも進んでRmaxが飛躍的に増大している。Rmax=170のままでは東大のSR2201より低い3位となってしまうところであった。
筆者は、1994年11月に1位を奪還したのはプロセッサ数を増やした効果かと思っていたが、増強は1996年のようである。

PIE

PIE

出典

一般社団法人情報処理学会Webサイト

「コンピュータ博物館」

4) 第5世代
第5世代コンピュータプロジェクトにおいて、東大はPIEを完成。64個の推論ユニットをクロスバで多段結合(Omega網)。翌年稼働。

5) 科学技術庁の動き
当時、すでに科学技術庁傘下の研究機関にスーパーコンピュータが30台近く導入されていたが、各研究機関のインフラと位置づけられ、独立に運用されていた。この頃、アメリカのHPCCの動きを受けて、計算科学技術の重要性が指摘され始めた。例えば、1993年9月の航空・電子等技術審議会でも「原子・分子レベルの現象、機能解明のための計算科学技術に関する総合的な研究開発の推進方策について」を諮問し、調査審議が開始されていた。

6) 「複雑現象の解明」
アメリカでは原子力委員会やその後身であるエネルギー省が計算科学を含む科学技術全体の戦略的推進を担っているが、日本でも「原子力分野の」という限定付きではあるが、原子力委員会傘下の原子力試験研究の一つとして「計算科学的手法による原子力分野の複雑現象の解明」というクロスオーバー研究が1993年度に始まった。

クロスオーバー研究とは異なる組織が交流することにより新しい発展を切り拓こうという共同研究で、この課題は関口智嗣(電総研)を中心に、原子力研究所、動燃(動力炉核燃料事業団)、電総研を軸に、大学企業などの研究者が集まった。5年間実施し、途中から理研も加わった。原子力関連のアプリの高度化をコンピュータ科学者が助力するというプロジェクトであった。筆者の研究室も1994年から関係した。一例であるが、1996年11月6日に電総研での分科会で、D3の建部修見が「LU分解の並列化と効率的実装」について発表している。関口によると、Ninf (1994)の発想もこのクロスオーバー研究から芽生えたとのことである。

この継承として、1998年から「高密度マルチスケール計算技術の研究」というクロスオーバー研究が始まったが、筆者は1998年6月から、基盤技術推進専門部会計算科学技術評価WGに加わり、2001年からは原子力試験研究検討会(原子力委員会の下部機構)専門委員に加わり、評価する立場になったのであまり関係していない。

次回では、この頃の日本の超並列スーパーコンピュータの設置状況を表にして示す。日本電気は超並列コンピュータCenju-3を発表する。あと、NVIDIAの創立もこの頃。

(タイトル画像: FUJITSU VPP500 出典:一般社団法人情報処理学会Webサイト「コンピュータ博物館」)

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