提 供
HPCの歩み50年(第51回)-1995年(b)-
SC95 (San Diego)の直前に、会場近くのホテルで、三浦謙一氏と協力して、IEEEのScientific Supercomputing Subcommittee主催のワークショップを開催し、日本のHPCについて報告した。またこのSCで行われたI-Way Projectというメタコンピューティング実験は、後のGrid Computingの嚆矢と言われている。

アメリカ政府の動き
1) ASCI計画開始
1995年に、アメリカ政府エネルギー省(DOE)はASCI (Accelerated Strategic Computing Initiative)を開始した。これは、1992年にブッシュ大統領(父)が地下核実験のモラトリアムを宣言したので、核実験を行わずに、シミュレーションによって核兵器の維持管理(stewardship)を行うためにスーパーコンピュータとその応用を推進しようということであった。プログラムとしては、DOE傘下のLANL、LLNL、SNLの3研究所が、スーパーコンピュータ・ベンダを支援しつつスーパーコンピュータの開発を進めてきた。これにより、米国政府が米国ベンダに莫大な研究投資を行うことが、国家的戦略的必要の名目で正当化されることになった。当初は10年の計画で開始された。当初のロードマップによると、演算性能、主記憶、完成年は以下の通り。
1+ TF/ 0.5TB | (1997 完成) | ||
3+ TF/ 1.5TB | (1998 完成) | ||
10+ TF/ 5 TB | (2000 完成) | ||
30+ TF/10 TB | (2001 完成) | ||
100+ TF/30 TB | (2003 完成) |
2004年にはASC (Advanced Simulation and Computing Program)と名称変更され、計15年間続けられた。
2) Hayes Panel
NSFはEdward F. Hayes(Ohio州立大学)を座長とするTask Forceを組織しNSFのスーパーコンピュータセンターのあり方について検討を加えてきた。1995年9月15日、報告書” Report of the Task Force on the Future of the NSF Supercomputer Centers Program”を公表した。この報告書では、アカデミアにスケーラブルな最先端コンピュータを設置し、アクセスのためのインフラを整備し、産官学の連携を促進し、人材養成に力を入れるよう勧告している。この勧告により、PACI (Partnership for Advanced Scientific Computing) programが翌年発足する。
3) Internet
NSFは1995年4月、vBNS (Very high-speed Backbone Network Service)の運用を開始し、NSFのスーパーコンピュータセンターと関連機関を高速に結合した。1998年までにVBNSは100の大学と研究所とをDS-3 (45 Mbit/s), OC-3c (155 Mbit/s), and OC-12c (622 Mbit/s)により結合した。
標準化
1) HPF
HPF Forumは精力的に作業を続けた。手元の資料では、Sept. 20-22, Dallas, Texas、November 1-3, Arlington, Texasの記録がある。年の前半にも2か月に1回ぐらいのペースで集まっていたと思う。
2) イーサーネット
それまでのイーサーネットの10倍の100 Mb/sで通信が可能ないわゆるFast Ethernet規格が、IEEE 802.3u-1995として制定された。その際、FDDIから符号化技術(4b/5b符号)などを借用した。
3) Java
Javaプラットフォームおよびプログラミング言語Javaの開発は、1990年からSun Microsystems社内で始まっているが、1995年5月23日のSunWorld Conferenceにおいて初めて公式に発表された。
Supercomputing 95
8回目になるSupercomputing 95国際会議は、California州南端San DiegoのSan Diego Convention Centerで、12月3日(日)~8日(金)に開催された(筆者の報告も参照)。12月に入ったのはこの回だけである。参加者は全体で5772人、Technical registrationは2264人で、展示は106件であった。この年は、ProceedingsはCD-ROMだけで配布された。
1) 展示
研究展示も44件に増え、日本からもNAL、GRAPE、早稲田、豊橋技科大、九大、東工大、埼玉大、筑波大など。企業展示では、破産したCray ComputerやKSRがないのはともかく、nCUBE、MasPar、Meikoも出さなかった。TMCがソフトウェア会社として展示していた。SGIはPower Challengeを、Cray Researchは直前に発表したT3Eを、IBMはSP2を出品していた。Tera Computer社はMTAを展示。日本からも日本電気はSX-4を、富士通はVPP-300を、日立はSR2201を展示していた。
2) 基調講演
基調講演は、Virginia工科大のWilliam A. Wulfが“And Now for some *Really* Super Computing”と題して行った。よくは理解できなかったが、研究費の減少の嵐のなかで、いかに新しい展望を開いて行くかということを述べたようである。
3) HPF
HPF関係では、Workshopがキャンセルされたが、BoF “High Performance Fortran Forum”では、実装の現状、HPF2の規格、ユーザの声などがあったようだ。IBMは、Watson Labと東京基礎研で独立開発し、競争の結果勝った方を製品として出すとか。
4) Gordon Bell
Gordon Bell賞は、3件のfinalistsのうち2件は日本からであった。航技研、山形大、広島大連合が、NWTの128プロセッサでQCD計算を行い、179 GFlopsを出してPerformanceのカテゴリーの賞を獲得した。牧野淳一郎・泰地真弘人は、GRAPE-4で112 GFlops相当の速度を出し、special-purpose machineのカテゴリーで入賞。Price/Performance比のカテゴリーでは、MITの人が20台のHPのWSをイーザーネットでつないだだけのシステムで入賞。メッセージパシングソフトは自分で書いたとか。PVMなんて知らない、と豪語していた。座長からは、PVMの本はMIT Pressから出ているのに、とからかわれていた。
最終日、金曜日にはEmbedded Applicationのパネルがあり、筆者の知らない世界で面白かった。
原著論文では、日本からの発表は一つもなかった。Gordon-Bell関係の上記2件と、招待講演の岩田修一(東大人工物)だけであった。
5) Cray Research (San Diego)訪問
会期中、日本からの参加者何人かでSan Diego市内のCray Research Superservers社の工場を訪問し、CS6400の後継機であるコードネームStarfireについて説明を受けた。UltraSPARC IIを最大64個共有メモリで結合したサーバであり、snoopingによりcache coherencyを保つということであった。1996年、Cray Research社がSGIに買収されたとき、この子会社はSun Microsystemsに買われた。2年後、東大の情報科学科がこのマシンを買ったときにはSun Microsystemsの製品Ultra Enterprise 10000となっていた。
6) SSS International Meeting
1993年のSC’93 (Portland)の直前に、IEEE TCSA (Technical Committee on Supercomputing Applications)のSSS (Scientific Supercomputing Subcommittee)が開かれ、日本のスーパーコンピュータの状況について報告したことは述べた。
1995年5月10日のSSS会議(筆者は出席していない)において、San DiegoでのSC’95の直前、12月4日(月)に「日本におけるHPCC活動」に関する1日の会議を会場近くで行うことを決定し、三浦謙一(当時富士通アメリカ)と筆者が企画を依頼された。場所はHyatt Regency Hotelとなった。プログラムは以下の通り。
8:30 | Coffee |
9:00-9:10 | John Riganati, Opening |
9:10-9:40 | Tadashi Watanabe, NEC Corp., “Present and Future of High Performance Computers” |
9:50-10:20 | Shun Kawabe, Hitachi Ltd., “Hitachi’s High Performance Computing Overview” |
10:30-11:00 | Kenichi Miura, Fujitsu America, Inc., “Vector-Parallel Processing and Fujitsu’s Approach in High Performance Computing” |
11:10-11:40 | Naoki Hirose and Masahiro Fukuda, National Aerospace Laboratory, “NWT (Numerical Wind Tunnel) and Computational Aerodynamics” |
High Noon | Working Lunch – General Discussion on the presentations of the morning |
12:40-13:10 | Makoto Taiji, University of Tokyo, “GRAPE: Special-Purpose Computers for Astrophysics” |
13:20-13:50 | Shuichi Sakai, Real World Computing Partnership, “RWC-1 Massively Parallel Computer” |
14:00-14:30 | Lloyd Thorndyke, Consultant, “Summary and Overview of a Trip to Japan” |
時間の関係で、CP-PACSやJUMP-1の話は入らなかったが、日本での活動は余り知られていないので、よい機会であったと思う。
7) I-Way Project
このSupercomputing 95において、イリノイ大学のTom De FantiとANLのRick Stevens等は最初の大規模なメタコンピューティングの実験を行った。全米17カ所の計算センターを結合し60以上のアプリケーションを走らせた。これは、I-Way Project (the Information Wide Area Year Project)と呼ばれている。この成果をもとにGlobus Project(次項)が始まった。恥ずかしながら、筆者はSC95に参加していたが、このようなことが行われていることに全く気づかなかった。
世界の学界の動き
1) Globus Project始まる
グリッド環境を構築するために必要な基板技術の開発を行うプロジェクトGlobus Projectが1995年ごろ始まった。参加者は、ANL、シカゴ大学、南カリフォルニア大学、IBM、Microsoft等の大学、研究所、企業である。その成果として、資源配分管理などの基本的なグリッド環境を構築できるミドルウェアGlobus Toolkitをオープンソースとして公開している。2003年9月に、Globus Allianceに名称変更した。
2) HPC Asia 95
第1回のHPC AsiaであるHPC Asia 95は、1995年9月18-22日に台北の臺北國際會議中心(TICC, Taipei International Convention Center) で開かれた。94年2月28日~3月1日に、新竹の國立高能計算中心(NCHC, National Center for High Performance Computing)で準備会(Steering Committee)を行った会議である。参加登録者は735人であった(19日現在)。筆者のレポートも見てください。IEでは漢字コードISO-2022-JPが認識されないようなので文字化けしたらChromeなどで見てください。
企業展示は20以上で、日本からは富士通、日立、日本電気、アメリカからはAT&T, BBN, Convex, Cray, DEC, HP, IBM, SGI, Sun, PGIなど、あと地元企業など。
NCHCは、IBM SP-2の5.0 GFlopsで1995年6月のTop500で187位に登場し、ちょうど意気の上がったところであった。
Scientific Programについては、基調講演(Irving Wladawsky-Berger, IBM)や招待講演(Steve Chen, Steve Nelsonなど)はレベルが高かったが、投稿論文が低調で、遅刻や取り消しが多かった。
Panelもいろいろあった。筆者も、”Benchmarking High Performance Computers: Mission Impossible?”にいやいや引っ張り出された。
会議の前日、関東では台風12号の暴風雨でたいへんであったが、最終日22日には台風14号が台湾に接近し、会議最終日の全プログラムがキャンセルされた。
3) ICS会議
ACM主催のICS (Internatinal Conference on Supercomputing)の第9回が、7月3~7日、スペインのバルセロナで開催された。ACMからプロシーディングスが発行されている。
4) Mannheim Supercomputer Seminar
第10回目にあたるこの会議は、1995年6月22~27日にMannheim市内で開催された。参加者は157人。6日間にわたって開いたのは初めてである。基調講演はChris R. Johnson, University of Salt Lake City, USA。
5) 18th Pacific Science Congress
ひょんなことから、1994年9月に、UNESCO PAC (Physics Action Council)のWG2 (Working Group 2)に日本代表として加わることになったことは述べた。この関係で、Pacific Science Association主催の第18回Pacific Science Congress(6月5~12日)の中のthe Global Information Infrastructure Symposiumに参加することになり、6月5~9日に北京の国際会議中心に赴いた。7日に”Research Networks in Japan”という講演を行った。この会議場は1993年に続き2回目であった。スーパーマーケットができるなど、前よりだいぶ開けたが、やはり交通不便であった。筆者はSteven N. Goldstein (NSF)やインターネット界の有名人に何人かお会いした。
その時は何が何だかわからなかったが、Pacific Science Congressは1920年にHonoluluで第1回が開かれ、4年に1度環太平洋地域の回り持ちで開かれている。前回は1991年のHonolulu。
6) Workshop “State of the Art Academic and Research Telecommunications — A Dialogue on Policy, Management and Infrastructure for the 21st Century”
WG2の活動の一環として、9月17日(日)に上記の会議を東大で開催した。主催はUNESCO、日本物理学会、日本応用物理学会、アメリカ物理学会。筆者がお世話をしたが、前記HPC Asia 95の前日で、台風が関東を襲撃したいへんであった。議論としては、ネットワーク技術の状況、ネットワークビジネスの今後、国際協力の可能性、ネットワークによる教育支援など。
7) ATIP
NIST(アメリカ国立標準技術研究所)所属の数値解析研究者であったDavid Kahanerは、1990年にONRFE (Office of Naval Research Far East)に最初2年の予定で出向し、日本に滞在していた。彼は、日本やアジアでのコンピュータを中心とした技術状況を研究し、電子メールやネットニュースなどにより膨大な量の情報を世界中に発信していた。その後延長して仕事を続けていたが、1995年2月、NISTやARPA他からの資金を得て、New Mexico大学のプロジェクトとしてATIP (Asian Technology Information Program)を創立した。当初は国際大学グローバル・コミュニケーション・センター(GLOCOM)の六本木のオフィスの一部に日本の事務所を置いていたが、その後この事務所を閉鎖した。現在でも数多くのレポートを発行しているが、要約版はwebなどで一般に公開し、詳細なレポートは有料の購読者に配布している。
8) ネットワーク余話
SC’95でもHPCよりネットワークの方に重点が移っているということを述べたが、たまたまSCの行き帰りに飛行機(エコノミー)で見た各2本の映画の1つがネットワーク関係であった。行きは”The Net”(日本では「ザ・インターネット」)で、在宅勤務の女性コンピュータ・アナリストが、たまたまfirewallに穴を開けるソフトの入っているFDを入手してしまい、犯罪組織とFDを取り合うが、犯罪組織は彼女の個人データを組織の一人と入れ替えてしまい、自分が自分であることを証明できなくなる、というようなドタバタ。
帰りの映画は”Hackers”(日本では「サイバーネット」)、5人の高校生のハッカーが、タンカーをネットワーク経由で沈没させようとする悪役の侵入者と戦って勝つ、という話。「タンカーを手動にすればいいじゃないですか」「だめだ、もはやそのような機能は付いていない」とかいうやりとりがおもしろかった。主人公は、あのRobert T. Morris君がモデルとのことである。
どちらも、ネットワーク社会に潜む危険性を示唆していた。
中国政府関係
1) 曙光
中国科学院コンピュータ技術研究所は、曙光一号に続いて、曙光二号(Shuguang Erhao)を開発し、1995年5月11日に政府の証明書を獲得した。このマシンは後にDawning 1000と改名した。CPUなどは不明であるが、36ノードで構成され、ピークは2.5 GFlopsである。中国科学院生物物理学研究所においてDNA解析のために使われている。
企業の動きは次回に。
(タイトル画像: Globusロゴ)
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