提 供
HPCの歩み50年(第61回)-1997年(d)-
昨年(1996)にCP-PACSは世界一の座を占めたが、世界的には日本はまだ神秘の国であった。われわれは、日本のHPCについて情報発信を続けた。SGIに吸収されて消えるかと思ったCray Researchはますます意気軒昂であった。CrayはSGIの子会社となり、Alphaを使った超並列の新規開発はしないと発表したのにT3Eは非常によく売れた。IntelはPentium IIを売り出した。
世界の学界の動き(続き)
2) HPCN 1997
ヨーロッパを舞台に1993年から開かれているHPCNは、5回目が、オーストリアのウィーンで4月28日から30日に開催された。HPC Asiaと重なっていたせいではないだろうが、出席者が少ないと、展示のベンダから文句が出た。展示には1928人、会議に登録したのは315人であった。前年のBrusselsのHPCN 1996より120人減少している。とくにウィーンはハンガリーのブダペストやチェコのプラハから約200キロの距離にあり、東欧圏からの参加を期待したが、両国からはだれも出席しなかったそうである。ポーランドからは何人か来たがこれは常連であった。出席者の国別は以下の通り。
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結局この国際会議は2001年までしか続かなかった。
3) Workshop “HPC in Japan”
日本のスーパーコンピュータ開発に関する情報がアメリカに伝わっていないということで、どこの主催だか忘れたが、”HPC in Japan”というクローズなワークショップがシリコンバレーのSanta Claraのホテルで開かれ、3月19~23日に出張した。California’s Great America遊園地のすぐそばである。私は、”CP-PACS, A Dedicated Computer for Computational Physics”という講演を行ったが、質問はほとんど地球シミュレータについてであったことが印象的だった。まあ、公表されている範囲でお答えした。このワークショップには、アメリカ側からはHPCの重鎮やジャーナリストなどが参加していた。手元にはプログラムが見当たりません。2002年に地球シミュレータがTop500でダントツの1位を占めたとき、DongarraはNew York Timesの記者に”Computonik”とか言って驚いて見せたが、これはいわばお芝居で、かれだって実は既によく知っていたのである。この一声のお陰で、アメリカのHPC予算が倍増したとのことである。
着いた夜、ホテルのバーで日本人仲間と地ビールを飲んでいたら、私のグラスの縁が薄く割れ、唇にうっすら血がにじんだ。最初は千切りのキュウリの1片のような感じがして、何かと思った。別に何のけがもなかったが、危ないよという意味でバーテンに通知したら、なんとホテルの苦情処理係みたいな女性が押っ取り刀で飛んできたのでびっくりした。アメリカですね。筆者は「訴訟を起こすつもりはありませんから」とか言い訳。その後も皆で飲み続けて、最後に「お勘定は?」と言ったら、「結構です」と。翌日、ホテルの部屋に「お詫び状」が投げ込まれていた。
4) 第8回NEC Research Symposium
NEC主催の8th NEC Research Symposium “Heterogeneous Computing and Multi-Disciplinary Applications”が1997年5月21~22日にベルリンで開かれ、招待された。“CP-PACS — Parallel Computer for Computational Physics”という講演を行った。
ベルリンは初めてだったが、東西ドイツ統一から7年も経っているのに、ブランデンブルク門を一歩東に入ると街全体が薄暗かったことを覚えている。
5) International Conference on Computational Physics, PC’97
PC’97 国際会議は1997年8月24日から28日まで、University of California, Santa Cruz 校にて開かれた。参加者約300人。この会議は、IUPAPの支援の下で、アメリカ物理学会 (APS) とヨーロッパ物理学会 (EPS) の共催で開催され、1年毎にアメリカとヨーロッパとで交互に開催されている。今回は、CP-PACS について招待講演を頼まれたこともあり、学術振興会未来開拓「計算科学」研究推進委員会の調査活動の一環として参加した。ASCI計画について特別セッションがあり、システムから応用まで熱心な討論が行われた。
この会議のアブストラクト集はインターネットで公開されている。筆者の報告もある。招待講演では”CP-PACS — Parallel Computer for Computational Physics”というタイトルで話したが、安定性、分割運転、将来計画など多くの質問が出た。
6) ICS 97
ACMが主催するICS (International Conference on Supercomputing)の第11回目は、オーストリアのViennaで7月7~11日まで開催された。ACMからプロシーディングスが発行されている。この会議でE. Johnson, D. Gannon and P. BeckmanはHPC++を提案した。これは並列標準テンプレートC++ライブラリである。その後どう発展したかはよく分からない。
7) PLAPACK
このころ、Robert van de Geijn (U. of Texas at Austin)らは、並列化された線形計算ライブラリPLAPACK(Parallel Linear Algebra Package)を開発し、その設計思想をSC97で発表した。1997年、MIT Pressから、” Using PLAPACK — Parallel Linear Algebra Package”を出版した。ICPP98 (February, 1998)では”PLAPACK: High Performance through High Level Abstraction”という発表を行っている。
8) Eckert-Mauchly賞
1960年代に、Robert Tomasuloは IBMでOut-of-Order実行の基本原理を確立し、IBM System360/91に実装された。この功績を受けて、1997年IEEE/CS Eckert-Mauchly Awardを受賞した。
9) SB-PRAM Project(ドイツ)
どのような背景があるのか不明であるが、ドイツの巨大な共有メモリ並列コンピュータ計画が話題になっていた。1997年4月25日付けのHPCwireによると、ドイツなSaarlandes大学コンピュータ科学科のコンピュータ・アーキテクチャおよび並列処理研究所では、アクセス時間が全く同一な共有メモリ(CRCW-PRAM-Model)に基づくMIMD並列コンピュータを開発するとのことである。クロックが8 MHzということなので、それならまあできるでしょう。プロセッサとメモリ・モジュールはbutterfly networkで結合されている。最終目標は、64個の物理的プロセッサ(2048個のバーチャルプロセッサ)で2 GBの帯域的メモリを持つ。完成したらインターネットを通して自由にアクセスできるようにするとのことであった。1997年には、4プロセッサのプロトタイプができたとの報告がある。
中国政府の動き
1) 銀河3号
1997年6月、中国の国防科学技術大学は銀河3号(Yin-he 3)を開発した。アーキテクチャは不明。ピーク性能は13 GFlops。同大学はすでに天気予報、地震研究などの科学技術アプリを開発している。
2) 米中問題
1997年6月にアメリカ国務長官Madeleine Albrightは議会に対し、中国の民間会社に売られたはずのアメリカのスーパーコンピュータが、核兵器開発などの軍事目的に使われているのではないか、という疑惑を表明していた。その頃までに46台のアメリカ製スーパーコンピュータが中国に売られていると推定されている。
これに対し中国は9月、スーパーコンピュータの一つをアメリカに返還することに同意した。商務省は、1996年2月に北京の中国科学院に出荷されたSun Microsystemsの2.7 GIPSのコンピュータが、中国軍が運営する長沙の国防科学技術大学に転売されていたことを発見した。このような性能のコンピュータは、中国の民間会社に売る場合には許可は要らないが、軍事的なユーザに売る場合には政府の許可が必要である。中国政府はアメリカのスーパーコンピュータは天気予報のような非軍事的な目的に厳しく限定している、とこのような疑惑を否定していた。1995年に当時のクリントン政権はロシアや中国へのコンピュータの輸出規制を緩めていた。
2015年4月に明らかになった、国防科学技術大学や関連のセンターへの高性能半導体の輸出禁止(Xeon PhiやNVIDIAなど)を連想させる。この場合は、前年2014年8月に、中国国内の公開の場で、「天河2号を原爆のシミュレーションに使い、経済的にも、時間的にも非常に有効だった」などと発表していた。
1997年2月ごろ、SGI社がロシアの核兵器研究所に4台のスーパーコンピュータを許可なく販売したことが問題となり、米国商務省が調査に入った。同じころ、The Wall Street Journalは、SGI社が中国の兵器研究所にコンピュータを販売したと報じた。
世界の企業の動き
1) SGI/Cray
1996年2月に合併したSGI/Crayは、SGI由来の製品としてOrigin 2000ファミリーを、Cray Research由来の製品としてT3Eを順調に発売した。長期戦略としては、両製品をSN1(Scalable Node)として統合するはずであった。このためAlpha processorベースの超並列コンピュータの新たな開発は中止された。SN1構想は2000年にOrigin 3000として実現したが、同じ年、SGIはCray事業をTeraに売却したので、T3Eの製造は継続した。このころT3Eは非常によく売れていた。1998年11月のTop500から512プロセッサ以上のT3Eの設置状況を示す。
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1997年8月頃、Irene Qualtersは、(SGIの子会社としての)Cray Researchの社長、兼SGI上級副社長に指名された。彼女はコンサルタントなどを経て、現在NSFに勤務している。
1984年からSGIのCEOを務めてきたEdward R. McCrackenは、1997年10月に辞任するむねを役員会に通告した。約13年間のCEO在任中に、SGIは年売り上げ$5.4Mの会社から、$3.7Bの会社にまで成長した。後任が決まるまでCEOにとどまったが、1998年1月からRichard BelluzzoがCEOとなった。かれはIRIXやMIPSへの投資を縮小させたため、SGIの2本柱をダメにしてしまい、Intel-Microsoft連合がHPCに進出する機会を作った、という見方もある。かれは2年足らずで、1999年8月にMicrosoftに移った。後任はRobert Bishop。
1997年1月、日本クレイ社も日本シリコングラフィックス社と統合され、日本シリコングラフィックス・クレイ株式会社となった。社長には、日本クレイの社長であった堀義和が就いたが、1997年4月に日本コダックの社長に移った(2005年6月まで)。
1997年2月14日、都内のホテルで盛大な披露パーティーがあり、筆者も出席した。奇妙だったのは、Tシャツにジーパンというグループと、スーツ姿のグループとが、ドレッシングの水と油のように、混じり合うことなくそこここに散らばってはいたことである。もちろん、前者はSGI関係者、後者はクレイ関係者である。こんなことで一つの会社になれるのかと危惧したことを覚えている。
京都大学化学研究所は、1997年1月、スーパーコンピュータシステムとして、Cray T94/4128やSGI Origin 2000 (128 CPU)などを導入した。
2) Sun Microsystems社
Sun Microsystems社は、1997年、UltraSPARC IIを発売した。これはSPARC V9命令セットアーキテクチャを採用し、最初250MHz、最終的には650MHzで動作した。ファブはTexas Instruments社。
1996年にSun Microsystems社はUltraSPARC-1またはIIを用いたUltra Enterprise 3000, 4000, 5000, 6000 serversを発売したが、Cray Researchで開発されていたコードネームStarfireのマシンをその最上位機種Ultra Enterprise 10000として売り出した。これは最大64個のUltraSPARC IIプロセッサを含むことができる。前に述べたように東大の情報科学専攻は3月に購入した。
3) Tera Computer Company
Burton SmithはJames Rottsolkとともに1987年Tera Computer CompanyをワシントンD.C.に創立し、翌年シアトルに移った。Burtonのアイデアは多数のスレッドを並行して動作させることにより、メモリレイテンシをデータキャッシュなしに隠蔽するMTA (Multi-Threaded Architecture)のアイデアであった。これまでのSC国際会議でも展示は出していたが、製品の発表はなかなかなく、不思議がられていた。
SDSC (San Diego Supercomputer Center)はNSFから$4.2Mの予算を獲得し、MTAを設置する計画であった。最初のプロセッサが1997年12月に完成し、1プロセッサ構成のMTA-1がSDSCに納入された。さらにSDSCはDARPAから、基幹アプリ、国防関係のアプリをMTAに移植する18ヶ月のプロジェクトを$1.9Mで受託した。SDSCはこのプロジェクトをBoeing社、JPL、Lockheed Martin社、CalTechと協力した。Tera Computer社は、SC97において、マルチプロセッサでプログラムを動かしたと大々的に発表した。
4) Hewlett-Packard社
1995年11月に発売されたPA-8000に続くPA-8200は、1997年6月に発売された。クロックは200 MHzから240 MHzである。分岐予測やTLBを改良した。
Convexの創立者であるSteve Wallachは、Convex社がHewlett-Packard社に吸収されるとともに移っていたが、1997年9月頃Hewlett-Packard社を退社した。
世界の企業の続きは次回。Intel社はいよいよHPCに本格的に乗り出した。
(タイトル画像: Cray T3E 出展:http://www.craysupercomputers.com/)
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