世界のスーパーコンピュータとそれを動かす人々


提 供

11月 9, 2015

HPCの歩み50年(第62回)-1997年(e)-

小柳 義夫 (高度情報科学技術研究機構)

Intel社はPentium IIを発表した。Quadrics Supercomputer World 社はMeiko社の技術を引き継ぎ、高速結合網の会社として羽ばたいた。前年から続いていたNCARでのスパコン日米摩擦は454%の懲罰関税という、飛んでもない展開となった。三浦謙一氏はITCの公聴会で弁舌を振るった。

世界の企業の動き(続き)

5) Intel社
Intel社は1993年にPentiumを、1995年11月にPentium Proを発表したが、1997年1月、PentiumにSIMD動作を行うMMX拡張命令を追加したMMX Pentiumを発表した。MMXはMultimedia Extensionの略称に見えるが、Intel社は略語でない一つの語であるとしている。1997年5月7日にPentium ProにMMXを付加し高速化したPentium IIを発表した。動作周波数は233MHzから300 MHzである。1996年のところで述べたように、ASCI Redは1999年にプロセッサをPentium II (333 MHz)に差し替えて、Linpack 2.379 Tflopsを実現した。AMD (Advanced Micro Devices)社も1997年4月にMMXに対応したK6プロセッサを発表した。

MMXは整数演算しか高速化せず。浮動小数演算に対応するのは専用の128 bitレジスタ(8本)を使うSSE (Streaming SIMD Extensions)からで、Pentium III (1999年2月)に採用された。他方、AMD社は、32 bit浮動小数2個をSIMD演算するMMXユニット2個を装備した3DNow!を約1年早く1998年5月に発表されたK6-2プロセッサで採用した。

Pentiumの浮動小数除算にバグがあったことは前に述べたが、Pentium ProやPentium IIにもバグがあることが、1997年5月12日発表された。これは浮動小数から16/32ビット整数への変換の際に、整数の表現範囲に収まり切らない場合に立つべきフラグが、特定の条件の下では立たないことが発見された。

Hewlett-Packard社とIntel社は1994年からEPIC (Explicitly Parallel Instruction Computing, IA-64)に基づくItanium(コードネームMerced)を開発してきたが、10月その概要を発表した。Itaniumは1999年発売を予定していたが、実際に発売されたのは2001年である。AMD社はこれに対抗して、x86を64 bitsに拡張したAMD64の開発を進め、2000年8月に仕様を公開した。Intel社も結局この路線に乗ることになる。

1997年5月、DEC (Digital Equipment Corporation)は、Intel社のPentium、Pentium Pro、Pentium IIの設計がAlphaの特許を侵害しているとしてIntel社を訴えた。その結果DECの半導体部門がIntel社に売却されることになった。その後1998年1月にDEC社そのものがCompaqに吸収されることとなった。

6) IBM社
IBM社は10月、12-way までのSMPが可能なRS/6000 Model S70 serverを発表した。

チェス専用コンピュータ”Deep Blue”により、1996年2月10日にチェスチャンピオンのGarry Kasparovと初対戦しDeep Blueが勝利したが、結局Kasparovが3勝1敗2引き分けで勝利した。翌1997年にも対戦し、結果は1勝2敗3引き分けでDeep Blueが僅差で勝利した。ちなみに、1997年6月のTop500においてDeep Blueが260位に出ていた。

1997年7月4日に火星に着陸したPathfinderの中央コンピュータは耐放射線版のRS/6000 single chip CPUであり、128MBのRAMと6 MBのEEPROMを持つと発表された。OSはVxWorks。

7) Sequent Computer Systems社
1996年6月にChen Systems社を買収したSequent Computer Systems社は、1997年S. ChenをCTOに迎えた。NUMA-Qがどれだけ売れたかは不明であるが、1997年4月にフィリピンのIBankが NUMA-Q 2000を購入したとのニュースがある。同社は1999年9月にIBM社に吸収され、名前が消えることになる。

8) NCR社
1884年に米国オハイオ州で設立された情報システムのグローバル企業であるNational Cash Register社(1974年からはNCR社)は、コンピュータの黎明期にBurroughs, Univac, CDC, Honeywellと並びBUNCHと称されていた。1990年にIntelの386や486 やPentiumを用いて、System 3000シリーズという、デスクトップから数百プロセッサの大型機までカバーするファミリー開発すると発表した。成功したという話は聞かない。直後の1991年にAT&Tに買収された。なお、1997年1月1日に再び独立を果たしている。

9) Parsytec社
ドイツのParsytec社は、1994年に、transputer T800とPowerPC 601を用いたPowerXplorerを発表したことは前に述べたが、1997年1月、オランダのthe Advanced School for Computing and Imagingという組織,は、Pentium Proを用いたシステムを同社から購入することとなった。商品なのか特注品なのかは不明。この組織はオランダの4大学により設立された。

10) Quadrics Supercomputing World Ltd.
Meiko Scientific社が1996年、Alenia Spazi社とMeiko Scientific社との合弁会社としてQuadrics Supercomputer World (QSW)社をブリストルとローマで設立したことは述べた。1997年6月、QSW社のJohn Taylorは、Meikoの技術はQSW社が引き継ぐことになったと表明した。

日米貿易摩擦

1) 1996年の動き
第57回に書いたように、NCARのスーパーコンピュータ調達において、5月20日に日本電気がSX-4で落札したが、Cray社があった地元の議員がロビー活動を始め、7月29日にダンピング提訴を行った。アメリカ政府のITC (International Trade Commission)は9月11日にダンピング審判を行うことを表明した。

2) ダンピング認定
1997年に入り、3月31日にアメリカ商務省はSGIの子会社であるCray社からのダンピング提訴について結論を出し、日本電気と富士通がアメリカにおいてダンピングを行っていた、と認定した。

3) 懲罰関税
その結果、アメリカ商務省は8月21日、日本電気製スーパーコンピュータに対し454%、富士通製に対し173.08%、他の日本メーカー(具体的には日立製作所)に対し313.54%(平均をとっただけ)のダンピング関税を課すことを決めたと発表した。商務省はダンピング率の算出根拠を明らかにせず、Cray社の主張をそのまま追認したようである。HPCwire (1997年7月17日号)によると、Cray社は当初388%の懲罰関税を主張していたとのことである。NCARの入札には日本電気と富士通しか参加していないが、商務省は日本の2社がダンピングしたとの認定をもとに、対象を他の日本メーカーにも広げ、平均の税率課すということにした。(朝日新聞1997年8月22日号)

4) 導入中止
これを受けてNSFは8月、NCARにおけるSX-4の導入中止を決定した。

5) 日本からの批判
これに対し日本電気は、8月22日、「適用された454%のダンピング率は、クレイ社が商務省に提出した数字をそのまま使ったものと思われ、全く根拠がない」とのコメントを発表した。また、富士通も同日発表したコメントで「このような決定は遺憾だ。スパコン市場で、日本が米国産業に被害を与えたこともなければ、その恐れも全くない。改めて、米国市場の閉鎖性を感じざるを得ない」と批判した。(朝日新聞同上)

6) ITCでの公聴会
米国ITCは、8月25日の週に公聴会を開き、Cray社が主張しているように、日本製のベクトルスーパーコンピュータの輸入が、米国のスーパーコンピュータ産業に具体的な損害を与えているかどうか検討した。日本側の公述人が証言した。

三浦謙一は富士通を代表してこう証言した。「1993年1月から1996年6月の期間を考えると、アメリカ市場において、CrayやSGIが何百台ものシステムを販売しているのに対し、富士通は2台しか販売していない。1996年において、全米のスーパーコンピュータ市場において、富士通と日本電気のシェアは、合わせても1%より遙かに少ない。このような状況をみると、日本の製造業者が米国の産業に損害を与えているとか、与える恐れがあるというCrayの主張には根拠がない。

Cray製品の膨大な設置と、政府機関からの日本の業者の排除を考えると、日本製品が日本やヨーロッパでは成功しているのに、なぜアメリカでは成功しないのかという理由は明らかである。Crayの市場独占は、アメリカ政府がけして日本のスーパーコンピュータを購入せず、MITのような組織やアカデミアに日本製品を調達しないように圧力を掛けているという事実によるところが大きい。

Crayのロビイストは、連邦政府の資金で日本のスーパーコンピュータを実質上買えないような法律を作ることに成功した。このようなことから分かるように、連邦政府が支える市場は外国との競争に対して閉じられている。もし、このような市場が真にオープンになれば、富士通や日本電気は上記の4年半の間に少なくとも1台は売れたであろう。これとは全く対照的に、日本政府は1993年以来、少なくとも20台のアメリカ製スーパーコンピュータを購入している。

日本のメーカーは、アメリカの小規模な私的企業のマーケットでは競争力を持っているが、それにも係わらず、日本のメーカーはそのマーケットで脅威にはなっていない。Crayはアメリカ市場で非常に厳しい競争にさらされていることは確かである。それは、日本製のスーパーコンピュータに対してではなく、IBMやHP/Convexのようなベクトルでないメーカーに対してである。ベクトルでないコンピュータはアメリカで大きなビジネスとなっており、これはCrayに対しても富士通や日本電気に対しても脅威である。」(HPCwire 1997年9月5日号)日本電気を代表して誰かが証言したかどうかは不明である。

7) 日米交渉
日本とアメリカ合衆国は10月から、日本のスーパーコンピュータに対するダンピング関税について交渉を開始した。堀内光雄通産大臣は、商務省が公式の調査が始まる前に日本電気がダンピングしていると指摘するなどアメリカ側の調査が透明性を欠いていると主張した。東京にあるアメリカ政府関係者は調査は十分透明であると反論した。

9月下旬の日経新聞には、「NEC, クレイとの和解交渉が決裂」と出ていたが、両社はなにか交渉を行っていたのであろう。

8) Bill Buzbeeの感想
NCARでスーパーコンピュータ調達チームを率いたBill Buzbeeは、SC 97 の最中に開かれたある委員会でずいぶん悲観的なことを言っていた。彼は、アメリカ、ヨーロッパ、日本などの予報用のコンピュータの性能を比較し、アメリカが如何に劣っているかを指摘した後、アメリカのHPC全体について、こう述べた。

“Leadership in the development and application of high performance computing has moved offshore and will remain there for at least five years.”

「5年経ったら良くなるのか」という質問 (ほとんど茶々) もあったが、「だから at least と言ってるだろ。」と答えていた。このあと、彼が引退したとの噂が聞こえてきた。

ベンチャー企業の終焉

1) Encore Computer社
Kenneth Fisher、Gordon Bell、Henry Burkhardt IIIなどそうそうたるメンバーによって1983年創立されたEncore Computer社は、Multimax (1985)、Multimax 500 (1989)、Encore-91 (1991)、Encore-93、Infinity 90 (1994)、Infinity R/T (1994)などを製造した。日本の代理店は理経。1990年代半ばに超並列市場が振るわなくなると、コンピュータ部門を何年かかけて売却し、最後にStorage Products GroupをSun Microsystemsに売却し、コンピュータ関係の業務を停止した(1997)。

2) Amdahl社
1970年、IBM技術者のGene Amdahlによって創立されたAmdahl Corporationは、IBM mainframe互換コンピュータを製造して来たが、1997年7月富士通の完全子会社となった。

次は1998年。日本では情報科学技術部会、アメリカではPITACの議論が続く。日本では計算科学を表題とする初めてのプロジェクトACT-JSTが始まった。ASCIはPathforward Programを始めた。

(タイトル画像: Pentium IIプロセッサ 出典: Computer History Museum)

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