世界のスーパーコンピュータとそれを動かす人々


1月 24, 2022

新HPCの歩み(第77回)-1985年(c)-

小柳 義夫 (高度情報科学技術研究機構)

アメリカ政府は、大学関係者がスーパーコンピュータをふんだんに使えるように、5か所のNSFスーパーコンピュータセンターを設置し、それらと研究者をネットワークNSFNETでつないだ。また、半導体やスーパーコンピュータを巡る日米摩擦が激化する。ドイツではSUPRENUMプロジェクトが始まる。

アメリカ政府関係の動き

1) スーパーコンピュータセンターとNSFNET
Lax ReportとBardon-Curtis reportとに基づき、1984年に(1985年度予算として)連邦議会はNSFにスーパーコンピュータ設置の予算を承認した。ちなみにアメリカの予算年度は10月から始まるので、1985年予算年度は、1984年10月から1985年9月まで。NSFは国立スーパーコンピュータセンターの提案を公募し、20件(一説では22件)の提案が提出された。1983年のところに書いたように、Illinois大学Urbana-Champaign校(UIUC)では、Lax Reportに呼応して、自分の大学にスーパーコンピュータセンターを創設したいと、1983年末、NSFに自主的に提案していた。これらに対して通常のNSFのpeer-review審査を行い、1985年2月、4件の提案を採択した。1986年初頭に、5番目の提案を追加する。当初は10カ所の設立を考えていたが、ひとまずこの5か所の設立を決定した。各センターの運営形態は多様である。運営組織、設置年、初期の設置システムも記す。

The Cornell Theory Center at Cornell University

Cornell大学が運営

1985

SP1, KSR1

NCSA at University of Illinois at Urbana-Champaign

Illinois大学が運営

1985

Y-MP, C3880, CM-5

The Pittsburgh Supercomputing Center

Carnegie Mellon 大学とPittsburgh 大学とWestinghouse Electric Corporationが共同で運営

1985

CM-5, T3D

The San Diego Supercomputer Center

 (California大学San Diego校に設置)

General Atomics Corporationという非営利団体が運営

1985

Paragon, nCUBE, Cray-C98

The John von Neumann Center

 (Princeton 大学に設置)

the Consortium for Scientific Computing, Inc. (CSC)という12大学などからなる非営利団体が運営

1986

Cyber 205, ETA 10

 

ARPANETに接続されていない研究者をつなぐために、NSF (National Science Foundation)の資金提供により、1981年にCSNETが構築されたことはすでに述べたが、スーパーコンピュータ設置に合わせて、NSFは1985年からこの5センターやNCARを太いバックボーンネットワークNSFNETで結合した。さらにこれを地域研究教育ネットワークと接続するネットワークを構築した。これにより、全米の大学キャンパスからスーパーコンピュータにアクセスすることが可能になった。CSNETはいわばこの一部を構成していたが、1989年まではCSNETとして運営された、1988年にBITNETと合併しCREN (Corporation for Research and Educational Networking)となる。

これらのセンターが動き出すまでのつなぎとして、NSFは早急に計算資源を必要とするユーザのために5つの既存のセンターに二三年間予算を出した。Cyber 205を持っていたPurdue大学とColorado州立大学、またCray X-MPを持っていたMinnesota大学とBoeing Computer ServicesとDigital Productions, Inc.とである。しかしこれらは、NSFスーパーコンピュータセンターが動き出すと、自然に資源提供センターとしての機能を終了する。

2) SDI(戦略防衛構想)
1983年3月23日に米国レーガン大統領が華々しく提唱したSDIは、衛星軌道上に、早期警戒衛星、ミサイル衛星、レーザー衛星などを配備し、地上のシステムと連携して、敵国(具体的にはソ連)の大陸間弾道弾を撃墜し、アメリカ本土への被害を減らそうという構想である。これが実現すれば核兵器が時代遅れになり、アメリカの優位が確立されるはずであった。

レーザー兵器、粒子線兵器、運動エネルギー兵器などの技術的困難、膨大な開発費もさることながら、コンピュータ科学にとって大きな問題は、このようなシステム全体を制御しうるコンピュータやそのためのプログラムが開発可能かということであった。一説には1億行以上のプログラムになるとも言われた。とくに、プログラムの検証が困難なことが問題となった。ソフトウェア工学者のDavid L. Parnasは、1985年6月28日にSDI会議から任命されていた戦闘管理支援計算の委員を辞任し、8種の文書を提出した。そこでは、核攻撃を防ぐことを保証できる十分な品質のアプリケーションソフトを書くことはソフトウェア工学の観点から不可能であると主張している(“Software aspects of strategic defense systems”, Comm ACM 28 (12), 1985)。かれは1987年、この業績によりCPSR (Computer Professionals for Social Responsibility)から、最初のNorbert Wiener賞を受賞する。当時のコンピュータ科学者や物理学者は、技術の倫理の問題を否応なしに突き付けられた。

SDIは、レーガン大統領が交替し、冷戦が終結するとともにいわば自然消滅する。当時のソ連も同様な技術を開発しようとしたが、すでにその体力はなかった。SDIそのものは非現実的であったが、間接的にはソ連の崩壊を早めたのかもしれない。

日米貿易摩擦

1980年代、日本のスーパーコンピュータが性能を向上させている一方で、アメリカでは性能が停滞していた。この背景には、日本では、メインフレーム・メーカであり半導体メーカでもある3社がスーパーコンピュータ開発に本腰を入れていたのに対し、アメリカではIBM社が本腰を入れず(研究は続けていたようであるが)、当初Cray ResearchやCDCなどベンチャーに近い会社が開発していたことがあると思われる。

1) NCAR事件
1985年にアメリカのNCAR(国立大気研究センター)のスーパーコンピュータ導入案件に対し、日本からは日立がS-810、日本電気がSX-2、富士通がVP-200で応札したらしい。日本電気が落札したが、政治的な圧力により取り消され、Cray-2に決定した。これが日米スーパーコンピュータ貿易摩擦の最初の事件と言われている。次は1987年のMIT導入キャンセル事件。

2) 日米半導体協議
また1985年6月14日にSIA(米国半導体工業会)から「日本の市場が閉鎖的かつ不公正」との訴えがあり、アメリカ通商代表部(USTR)は、7月11日、正式調査を実施することを決定した。調査終了期限は1986年7月13日。ただし、アメリカの半導体業界が対日攻勢で一枚岩ではなかった。Intel社やMicron社など半導体メーカはは強硬であったが、IBM社、Honeywell社、DEC社、Apple Computer社などの半導体ユーザ企業は、日本製半導体の輸入規制に強く反対した。高品質の日本製半導体は必需品となっていたからである。

日本電子機械工業会は、1985年8月下旬にアメリカに代表団を送り、「日本市場におおける米メーカのシェアは日本メーカの米国でのシェアより高い」など具体的な数字を挙げて反論した。訪米団は、SIAの資料にはIBM社など自社用に半導体を生産している会社の数字が抜けており、また米メーカの東南アジア工場から日本への輸入がカウントされてないなど反論に努めた。8月26日には、Washington, D.C.にあるUSTRに「SIAの提訴には根拠がない」との本文112ページ、付属資料50ページの意見書を提出した。27日にはシリコンバレーのSanta Claraでも同様の会見を行った。

8月から日米半導体協議が始まった。翌1986年9月2日には日米半導体協定が結ばれ、日本市場での外国系半導体の販売拡大と、日本企業によるダンピング輸出防止を約束する。非公開のサイドレターでは「外国系半導体の販売が5年で少なくとも日本市場の20%を上回るという米国半導体産業の期待を、日本政府は認識」と明記。「この実現を日本政府は可能と考え歓迎する」とし、達成は外国や日本の業界に加え「両政府の努力による」とした。2018年12月19日の外交文書公開で明らかになった。ただし、当時から5年以内に20%以上という数値目標の密約があることは、当時からマスコミで語られていた。

ヨーロッパの政府関係の動き

1) SUPRENUM
特筆すべきことは、1985年、西ドイツの国家プロジェクトSUPRENUMが始まったことである。これはドイツ語のSUPerREchner für NUMerische Anwendungen(数値応用のためのスーパーコンピュータ)から命名された。1985年から1990年にかけて総予算は1.6億マルク(約140億円)。「西ドイツの大プロ」という人もいた。SUPRENUM-1はMotorola 68020と4個の数値演算コプロセッサ(Motorola 68882とWeitek WTL2264/2265)からなるノード320個(うち64はメンテナンス用)を結合した超並列計算機である。16個のノードが共有バスで結合された1個のクラスタとし、16個のクラスタを4×4の2次元トーラス結合している。ピークは5120 MFlops。ソフトウェア開発にも力を入れた。研究プロジェクトとしては成功であったが、商用化は出来なかった。後継のSUPRENUM-2計画が提案されたが実現しなかった。プロジェクトは1992年終了した。商用化のために1986年SUPRENUM Supercomputer GmbHをBonnで設立したが、2010年7月12日に業務を終了した。

ただし、ソフトウェア関係ではこのプロジェクトの関連でGENESIS、SUPERB, Pallas, Manna, PPPE, RAPSなどの企業が出発した。またMeiko Scientific社はヨーロッパのGENESISプロジェクトから生まれた会社であるが、これもSUPRENUMでの研究の影響を受けている。

世界の学界の動き

1) RISC vs. CISC 論争
1980年に続き、再びRICS対CISCの論争が起こった。CMUのE. D. JensenはIEEE Computer誌1985年9月号の巻頭にRISC批判の論文を書いた。例えば、RISC I/IIの高速性はレジスタ・ウィンドウのためであり、命令セットとは関係がないとか、VAXの貧弱なコンパイラでの性能と、RISCでの手で最適化したコードの性能とを比較しているのは不公平だとか。これに対し、PattersonとHennessyは11月号の投書欄に連名でこれを批判した。12月号にはJensenが再反論を出している。また、IBM Almaden Lab.のGlen Langdon Jr.は、1985年のMicroprogramming Workshopの基調講演で、「RISCは垂直型マイクロコードを主記憶中の置くのと変わらず、メモリに負担をかける。むしろ、水平型のマイクロコードの方がよい」と論じた。

2) C++
1985年、Bell研究所のBjarne Stoustrupが”The C++ Programming Language”を出版した。

3) GNU Emacs
GNU projectの創設者である、Richard Matthew Stallmanらは、1976年に開発された初代のEmacsに対応するフリーソフトGNU Emacsを開発し、1985年3月20日に最初の公開版Version 13を完成した。

4) 量子チューリングマシン
イスラエル生まれのDavid DeutschはOxford大学の物理学教授であり、量子力学基礎論における多重世界解釈などを研究していたが、1985年、論文“Quantum theory, the Church-Turing principle and the universal quantum computer”において、量子チューリングマシンを定義した。量子コンピュータは、その後量子チューリングマシンの上で議論されるようになった。

5) Daniel Slotnick死去
1958年、John Cockeとともに数値計算における並列処理の利用について発表し、その後SolomonやILLIAC IVの開発に従事したアーキテクトDaniel Leonid Slotnickは、1985年、滞在中のJohns Hopkins大学のキャンパスにおいて、ジョギング中に心臓発作で突然死去した(10月31日付New York Timesに死亡記事)。53歳の若さだった。The Journal of Supercomputingの創刊号(1987)は、Slotnickへの弔辞を掲げた。

ISSCC 1985では、日米の各社が1 Mb DRAM関連の発表を行う。また、ICSという国際会議は現在も続いているが、それとは違うICSが始まる。

(アイキャッチ画像:Suprenum-1 出典:Wikipedia )

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