世界のスーパーコンピュータとそれを動かす人々


1月 17, 2022

新HPCの歩み(第76回)-1985年(b)-

小柳 義夫 (高度情報科学技術研究機構)

日立・富士通に続いて日本電気もスーパーコンピュータSX-1/2を出荷した。通信自由化によりパソコン通信が始まった。JUNETも拡大し、海外ともつながった。1 Mb DRAMメモリでは、東芝を中心とする日本メーカが躍進する。現在広く用いられているIEEE浮動小数演算標準IEEE 754が制定される。

日本の企業の動き

メインフレームでもスーパーコンピュータでもさまざまな動きがあった。

1) 富士通(VP-50、VP-400、M-780)
1985年4月11日、VPシリーズの下位機種V-50と上位機種VP-400を発表した。VP-400はベクトル演算器の要素並列を強化したもので、ピーク性能は1.142 GFlopsとこのシリーズで初めて1 GFlopsを越えた。このマシンは、最初に航空宇宙技術研究所にNS (Numerical Simulator)システムとして設置された。普及版のベクトル計算機であるVP-50のピーク性能は142 MFlopsである。

メインフレームでは、11月14日にFACOM M-780モデルを発表した。CPUが1台の10S、CPUが2台の20Sと20、CPUが3台の30、CPUが4台の40の6機種で構成される。IBM 3090の向こうを張った新製品であった。

2) 日立製作所(M-680H、VOS3/ES1、S810/5)
1985年3月11日、日立製作所はメインフレームHITAC M-680Hシリーズを発表した。IBM 3090の対抗機種である。1986年6月には、上位機のM-683H (3 CPU)およびM684H (4 CPU)および下位機M-680Dを発表した。IAPが付加機構としてサポートされた。IAPはM-680Hが最後となった。このほか、M-660Hグループ、M-620H、M-630H、M-640Hグループもある。翌1986年6月2日、M-680Hや大型ディスク装置H6585を、NAS社などを通してOEM供給を開始した。

1985年10月から、VOS3新対話システムを出荷した。その中核となるのが、総合型テキストエディタASPEN (Advanced Editor System for Programming Environment)である。これはそれまでのDESPに代わるものである。1985年、日立は下位機種S810/5を発表した。ピーク性能は160 MFlopsである。

1985年12月19日、日立製作所は汎用機にUnix(OSF/1)を採用する方針を固めたと報じられた。東京大学大型計算機センターでは、1992年12月から試験運用をおこなっていたが、1993年3月にはVOS3に加え、汎用機M-880にm-unixを、6月にはスーパーコンピュータS-3800にs-unixの利用をVM (virtual machine)により開始した。

ワークステーションとしては80286を搭載した2020と、MC68010を搭載した2050を1985年9月に発売した。いつだか忘れたが、日立の社員がKEKのデータ処理センターに来てデモを行っていた。筆者が通りかかると試用を進められたので、2020のマウスをちょっといじっていたら、いきなりシステムダウンし、画面が動かなくなってしまった。筆者はよっぽど日立さんと相性が悪いのか。

1985年4月、日立製作所創立75周年記念事業の一環として、基礎研究所を設立した。

3) 日本電気(SX-2、ACOS 1500)
前2社より少し遅れたが、1985年6月SX-2が出荷された。これはベクトル演算器4本(シフト、論理、乗算、加算)を一組として、4組(SX-1では2組)用意されている。6 ns(SX-1では7 ns)のマシンサイクルで最大1.3 GFlops(SX-1では570 MFlops)のピーク速度を実現した。ACOS-4と互換な制御プロセッサに加えてスカラパイプラインが別に装備されていることが特徴である。1985年12月24日、日本電気はSX-2で1.3 GFlopsのピーク性能を実測したと発表した。1985年、東北大学にはSX-1が設置され、1989年にSX-2Nに更新される。NECスーパーコンピュータSX-2パッケージは、2020年3月6日、情報処理学会により2019年度情報処理技術遺産に認定された。また大阪大学レーザー核融合研究所には、7月、民間との共同研究に基づき日本電気からSAP (Scientific Arithmetic Processor)が導入されたが、これは技術的にはSX-2(1.3 GFlops、主記憶128 MB)と同等のマシンであった。Top500でもSX-2として掲載されている。

季刊誌「コンピュートロール」1987年10月号の渡辺貞の記事「スーパーコンピュータの現状と動向」によると、当時のベンチマークの一つLivermor Loops (24 kernels)においてSX-2は唯一1 GFlopsを越えたマシンである。すなわちSX-2はLoop 7で1042.3 MFlopsの性能を記録した。このLoop 7はスピードの出やすいプログラムであるが、Cray X-MP/4では806.765 MFlopsしか出ていない。(Frank H. McMahon, “The Livermore Fortran Kernels: A computer test of the numerical performance range”Technical Report UCRL-53745, December 1, 1986)

SX-1とS-810/10(マシンサイクル14 ns、6演算実行、ピーク430 MFlops)との比較データによると、SX-1の方が、連続アクセスでは1.43倍(要素毎乗算)から4.24倍(総和)であるが、リストベクトル代入では0.55倍(右辺がリストベクトル)から0.87倍(左辺がリストベクトル)となり、SX-1は連続アクセスには強いが、リストベクトルには弱く、S-810/10では要素並列が働いていないことが分かる。

下位機種として、ベクトル演算器を1組としたSX-1E(ピーク285 MFlops)を1985年10月22日に発表した。SX-1Eは岡山大学や東海大学の計算センターに導入される。加えてキャッシュやメモリのインタリーブ数を減らしたSX-J(ピーク210 MFlops)が1987年に発表される。

メインフレーム関係では、2月、ACOS 1500シリーズ発表した。4 CPUまでサポートする。OSはACOS-4である。IBM 3090の対抗機種である。IBM 3090発表のわずか2週間後であった。ACOS 1000と同様に、科学技術計算用に統合アレイプロセッサが搭載されており、システムキャッシュ(512 KBまたは512 KB×2)からデータが直接、演算器に供給される。

また、日本電気は通産省の「スーパーコン大プロ」に参加してきたが、日経産業新聞7月9日号によると、1チップ3000ゲート、ゲートあたり遅延時間30psのGaAs LSI実用化の見通しがついたと発表した。メモリ用のGaAs LSIとしては、16Kbのチップが進んでいる。

4) 三菱電機(EX series)
1985年1月、MELCOM EXシリーズを発表した。OSはGOS/VSである。

5) 日本電信電話株式会社(DIPS-11)
DIPS-11/5の後継機DIPS-11/5Eの開発が1979年から電電公社研究所で開始され、1985年9月にはモデル25Eが、1986年3月にモデル15Eが、1986年中頃にはモデル45Eが、1987年初めにはモデル5Eが試作を完了した。

6) 東芝(1 Mb DRAM、ラップトップ)
東芝は1MbのDRAMを1982年から開発していた。1985年2月13日~15日のISSCC 1985で、世界初の1 Mbit CMOS DRAM開発を発表した(4件)。後で述べるように、この会議では日米の各社が1MbのDRAMを発表したが、東芝は同時に大手ユーザへのサンプル出荷をおこない、高い歩留まりにより他社に大きく先行した。1985年10月には月産1千万個を達成。これにより、メモリ開発分野で世界のトップとなった。

東芝は1985年4月、欧州・米国向けにラップトップパソコンT1100を発売した。CPUはIntel 80C88(クロック4.77 MHz)、メモリは256 KB RAM(最大640 KB)、OSはMS-DOS 2.11、3.5 inch フロッピードライブ内蔵であった。世界初のラップトップPCと言われている。情報処理学会2011年度報処理技術遺産に登録された。1986年には10 MBのHDを搭載したT3100を発売、J-3100SSに始まるダイナブックは1989年に発売。

7) 沖電気(if1000 UNITOPIA 10)
沖電気は、1985年5月、UNIX workstationとしてif1000 UNITOPIA 10を発表した。CPUにMotorola社のMC68010 (16 bit, 10 MHz)を用い、OSにはユニソフト社UNIPULUS+版を搭載した。1987年5月には、MC68020を搭載したif1000 UNITOPIA 20を発表した。

8) 日本半導体製造装置協議会(SEAJ)
1980年代に、パソコンとビデオの需要に支えられ、半導体産業は史上空前の活況を呈し、製造装置産業も一大業界となっていた。業界の横断的な組織を成立する機運が高まり、1985年3月27日に日本半導体製造装置協会(SEAJ)が発足した。準備委員会に参加した15社のうち東京エレクトロンを除いて輸入商社や外資系メーカが含まれず、通産省が後押ししていることから、SEAJは半導体製造装置分野での日本株式会社を目指すと目され、アメリカをベースとするSEMI (Semiconductor Equipment and Materials Institute)からは、「喧嘩を売る気か」という反応もあった。1995年7月からは公益法人。

後で述べるように、直後の1985年6月にSIA(米国半導体工業会)から「日本の市場が閉鎖的かつ不公正」との訴えがなされ、8月から日米半導体協議が始まった。

9) MSX2
アスキーは、MSXを機能強化したMSX2規格をまとめ1985年5月7日に発表された。

10) LSIロジック社
1984年東京で設立されたLSIロジック社は、1985年、川崎製鉄との合弁会社日本セミコンダクターを設立した。

11) アスキーネット
1985年、パソコン関連出版社のアスキーが実験サービスとしてパソコン通信ホストを開設した。3月26日に入会申し込みの受付を開始し、5月1日に実験運用を開始した。1987年から正式運用を開始する。1997年にサービス停止。

12) ジャストシステム社(一太郎)
8月28日、PC9801用のワードプロセッサソフト初代「一太郎」を発売した。管理工学研究所の「松」とパソコン上の日本語ワープロソフトとして、一時人気を二分したが、カナ漢字変換フロントエンドATOKが、独立して他のソフトのフロントエンドとしても使えたので、一太郎が優勢となった。初代「一太郎」は、2010年3月9日、情報処理学会から2009年度情報処理技術遺産に認定された。筆者はV.2 からの利用者である。今でも愛用している。MS Wordと違ってユーザの言う通り動くので好きだったが、最近はだんだんMS Wordに似て言うことを聞かなくなってきた。

ネットワーク

1) JUNETの拡大・海外接続
JUNETは1984年から始まっているが、当初東京工業大学、慶応義塾大学、東京大学の3大学だったのが、1985年5月には階層的なドメインに基づく名前管理を実現するシステムが導入された。トップドメインを.jpとし、ドメインの分類により、ac.jp, co.jp, go.jp, or.jpなどのサブドメインを定めた。2文字にしたのは、それまでのトップドメインがjunetだったので、置き換えを簡単にするためと言われている。歴史的な理由により、ntt.jp, nttdata.jp, kek.jpだけは第2レベルでの利用が例外として認められた。各組織は第3レベルのドメインで指定するが、その調整はボランティア組織junet-adminが担当した。筆者もいつからかその末席を汚した。筆者は、「割り当ての時に、短いドメイン名(ibmとか)は貴重な資源なので、ある程度の規模の組織に優先して与えるべきである。『茨城美人娘』という小さな酒蔵がibm.co.jpを要求して来たら困るのではないか。」と主張した。最初はそういう方針で調整したが、しだいに先着順になったようである。

ちなみに、当時の他のメールアドレスの書き方は、BITNETではWHO@JPNKEKVMで、HEPnet(DECnet)ではkekvax::whoの形であったと思う。いずれも階層的ではない。

1985年7/8月号掲載の石田晴久、松方純の記事「いよいよ始まったアメリカやヨーロッパとの電子メイル交換」によれば、その頃には、図書館情報大学、上智大学、大阪大学、長野大学なども参入した。さらに、ICOT、電総研、NTT、KDD、民間会社からも参加希望が出ているとのことである。また、JUNETで日本語メールが使えるようになった。

またこのころから海外とも試験的にメールの交換ができるようになった。1985年1月には、KDD研究所においてUSENETとの国際接続の実験が開始され、JUNETとUSENETとのネットワーク間の結合が実現された。国際回線のパケット料については、当初は某機関(実はKDD研究所)が負担していた。上記の石田・松方の記事には、1985年4月にCarnegie-Mellon大学の徳田英幸から、東大の石田に送られたメールが掲載されている。WIDEの記録にも記されている。、

2) BITNET
BITNETも1981年7月に発足したが、1985年2月4日現在で、BITNETには517大学が加入し、次の1か月で75増加したとのことである。アメリカが中心であるが、カナダ、ヨーロッパ、イスラエルにも広がっている。BITNETのサーバは当初IBM機が多かったが、その後VAX/VMSが増え、UNIXマシンもある。

1985年4月、東京理科大学とCUNYがBITNETで接続され、世界につながる日本のBITNET網が構成された。また、1985年10月には、東京理科大、金沢工大、名古屋商大、大阪工大の4大学で日本BITNET協会が発足した。その後、東京経済大、摂南大、高エネルギー物理学研究所(1986年11月からテスト、1987年4月正式運用)が加入しており、東北大、早稲田大、東大(産業機械工学科)なども加入手続きを進めている。

ただ、Unixメールへの転送はアメリカ経由であり、高エネルギー研のBITNETから筑波大学のJUNETに日本語のメールを送ると、8ビット目が落ちてしまい、文字化けしたことを思い出す。その後、筑波大学では池田克夫がBalance 8000上にBITNETのソフトを移植し、JUNETとのゲートウェイの役割を担った時期もある。1988年ごろの筆者のbitnet addressは“oyanagi%is@jpntsuku”であった。ちなみにjunet addressはoyanagi@is.tsukubaであった。前述のように、当時はプロバイダ毎にアドレスがちがっていた。いわば、日本郵便と宅急便で住所の書き方が違うような状態であった。

BITNETとWIDEとのメール交換が正式に開始するのは1991年9月2日である。

3) HEPnet-J
高エネルギー物理学研究所では1985年(一説では1986年)、HEPnetに接続されているVAX/VMSがクラックされた。実害はなかったが、関係者が気づいてトラップを掛け、逆探知をしたところ、ヨーロッパの某国(西ドイツ)にたどりついたとのことである。当時はメンテナンスのSEの便宜のため、システム管理者のIDとPWが工場出荷のままなどというマシンがかなりあったようである。NHKや新聞で大きく報道され、その後、セキュリティが重視されるようになった。

標準化

1) IEEE 754(IEEE浮動小数演算標準)
IEEE/CS標準化委員会は、1985年3月21日にIEEE Std 754-1985 “IEEE Standard for Binary Floating-Point Arithmetic”を承認した。7月26日にはANSI (American National Standards Institute)も承認した。これは、J. Coonen et al. “A Proposed Standard for Binary Floating Point Arithmetic,” ACM SIGNUM Newsletter Special Issue (Oct. 1979) pp. 4-12で提案され、議論が進められていたものである。それまであったIBM表現(IBMメインフレームやその互換機で使用)、DEC表現、Cray表現などの種々の表現に代わって、多くのCPUやFPUで用いられるようになった。

32ビットと64ビットの表現を規定し、それぞれについてa) 正規化数、b) 符号付きのゼロ、c)非正規化数、d) 符号付きの無限大、e) NaN(非数)が規定されている。基数は2で、正規化数ではいわゆるケチ表現を採用している。4種類の丸めや、演算についても規定されている。

2008年8月にはさらに拡張し、十進数や16ビット浮動小数などを含むIEEE 754-2008が発行される。

2) Linda
Yale大学のDavid GelernterがACM Transaction on Programming Languages and Systems, pp. 80-112, January 1985において並列プログラミングのためのLinda言語のアイデアを発表。その後、協調言語と呼ばれるようになった。仮想的な共有空間tuplespaceとのやりとりで並列処理を記述する。量子化学のソフトウェアGaussianの並列化に使われているそうである。筆者は名前しか知らない。

3) 情報技術標準化研究センター
日本規格協会は、1985年7月、産業界、学界、関係各機関の支援のもとに情報技術標準化研究センター(INSTAC)を設立し、技術動向、市場動向、標準化動向等についての幅広い知識を集約するとともに、国際提案、JIS原案作成、標準化推進活動を推進することとなった。2010年3月31日をもって活動を停止した。

4) 情報処理相互運用技術協会
INTAP(Interoperability Technology Association for Information Processing, Japan、財団法人 情報処理相互運用技術協会)は、OSIに即した機能標準を作成し、相互運用性を検証する組織として、1985年に設立された。

5) 物理学用語標準化
前に述べたように、筆者も編集委員の末席を汚した培風館『物理学事典』が1984年9月に発行された。これを契機に、1954年から改訂されていない文部科学省発行の物理学用語集を改訂しようということになり、1985年度の科学研究費「物理学用語の標準化の調査研究」が高エネルギー研の菊池健を中心に組織され、作業を行った。科研費は1年であったが、その後の作業が大変で、結局、1990年9月に、『学術用語集 : 物理学編』が培風館から出版された。

性能評価

1) Karp Challenge
有名なGordon Bell賞の先駆となったのがKarp Challengeである。IBMに在籍してたAlan H. Karpは、1985年11月18日~21日にバージニア州Norfolkで開催されたPPSC 1985 (the Second Conference on Parallel Processing for Scientific Computing)に参加したが、そこで1000プロセッサとか4000プロセッサとか、果ては1000000プロセッサまで論じられていたのを聞いて、こんなシステムが汎用科学計算にとって最善の道具なのか、と疑問を感じた。1985年12月(要確認)、Communications of the ACMのEditor欄に以下のような挑戦状を公開した。これが後にKarp Challengeと呼ばれるものである。

「科学技術計算で用いられる汎用MIMDコンピュータにおいて、200倍以上の加速率を示した最初の者に$100を与える。締め切りは1995年12月31日午後11時59分。」

この後、「加速率」「汎用」「応用」の詳しい定義を与え、さらに「シミュレーションではだめだ(実機で示せ)」「同一の問題を逐次と並列プロセッサの双方で走らせなければいけない」「逐次プロセッサの速度をわざと遅くしてはならない」「(今の言葉でいえば)弱スケーリングではなく強スケーリングでなければならない」などの注意が示されている。その後、条件が厳密でないとの批判があり、さらに説明が加えられた。

アメリカでは5カ所のNSFスーパーコンピュータセンターを結ぶNSFNETが設置され、HPCとネットワークの連携が重要視されるようになる。アメリカのNCARのスーパーコンピュータ導入案件では、いったん日本製が落札しながら、政治的圧力によりこれが取り消される事件が起こった。日米スーパーコンピュータ摩擦の始まりである。

(アイキャッチ画像:NEC SX-2 出典:一般社団法人 情報処理学会 Web サイト「コンピュータ博物館」)

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