新HPCの歩み(第75回)-1985年(a)-
1985年、ベクトルスーパーコンピュータの性能向上は続く。富士通は上位機種VP-400を発表、日本電気はSX-2を出荷、Cray Research社はCray-2を製造した。日本では大型計算機センターや共同利用研に続々スーパーコンピュータが導入される。Feynmanが来日し、量子コンピュータについて講演したが、筆者は理解できなかった。 |
社会の動き
1985年(昭和60年)の社会の出来事は、1/1改正国籍法施行、1/2中曽根首相訪米、1/9両国国技館完成、1/10キツネ目の男、似顔絵公開、1/15北の湖引退表明、1/20ロナルド・レーガン大統領2期目を開始、2/7竹下登、砂防会館で「創政会」立ち上げ、2/27田中角栄元首相、脳梗塞で入院、3/10青函トンネル本坑が貫通、3/11ゴルバチョフ、チェルネンコの死去に伴いソビエト連邦共産党中央委員会書記長に選出、3/14東北・上越新幹線上野発着、3/17国際科学技術博覧会(つくば科学万博)開幕(9/16まで)、3/21日本で初のAIDS患者確認、4/1電電公社民営化、NTTに、4/1放送大学開学、4/30パラコート連続毒殺事件(11/17まで)、5/2第11回サミット(ボン)、5/17夕張炭鉱でガス爆発、5/17男女雇用機会均等法成立、6/8大鳴門橋開通、6/18豊田商事事件、永野会長刺殺、6/19「投資ジャーナル」社長中江滋樹ら11人逮捕、6/23成田空港手荷物爆破事件、エア・インディア182便爆破事件(いずれもシーク教過激派による)、6/24神田正輝・松田聖子が碑文谷教会で結婚式、6/27ドイツでオーストリア産白ワインにジエチレングリコール混入発見(毒入りワイン事件の始まり)、7/1豊田商事破産、7/3アメリカで“Back to the Future”公開、7/10京都市が古都保存協力税条例を施行、7/25女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約を日本が批准・発効、8/12日航ジャンボ機、御巣鷹の尾根に墜落、8/20テレビ朝日「やらせリンチ事件」を放送、9/2 NTTが「ショルダーフォン」を発売、9/11警視庁、ロス疑惑の三浦和義を逮捕、9/11夏目雅子死去、9/19メキシコ大地震(M8.1)、9/22プラザ合意、円高不況始まる、9/25藤ノ木古墳から朱塗りの家型石棺が発見される、9/30埼京線開業、10/7テレビ朝日、久米宏の「ニュースステーション」放送開始、10/11政府が1987年4月1日の国鉄分割民営化を正式決定、11/2阪神タイガース日本シリーズ優勝、11/19米ソ首脳会談(6年ぶり)、11/29国電同時多発ゲリラ(分割民営化反対)、12/7日本で「バック・トゥ・ザ・フューチャー」公開、12/27ローマ空港・ウィーン空港同時テロ事件、など。プラザ合意はバブル経済の起点と言われる。
流行語・話題語としては、「うざったい」「金妻」「実年」「新人類」「団塊ジュニア」「ダッチロール」「やらせ」「投げたらアカン」「毒入りワイン」など。
チューリング賞は、NP完全理論への貢献に対してRichard Manning Karp(UCB)に授与された。授賞式は、1985年10月、Denverで開催されたACM年次総会で行われた。
エッカート・モークリー賞は、RISCアーキテクチャの父とも呼ばれるIBMのJohn Cockeに授与された。なおCockeは1987年にはチューリング賞、1999年にはSeymour Cray賞も受賞している。
ノーベル物理学賞は、「ホール効果の発見」に対して、Klaus von Klitzing に授与された。化学賞は、「結晶構造を直接決定する方法の確立」に対して、Herbert Aaron HauptmanとJerome Karleに授与された。生理学・医学賞は、コレステロール代謝の調節に関する発見に対し、Michael Stuart BrownとJoseph L. Goldsteinに授与された。
このころ、万博見学も兼ねて、Stephen Wolfram (9/5)やSydney Fernbach (9/14)が筑波大学に現れた。Wolframは当時の重いラップトップを持っており、「これがあれば空港の待ち時間も苦にならない」と言っていた。Fernbachは、日立で三浦武雄に会い、富士通で三浦謙一に会い、筑波大学で三浦功第三学群長に会い、泊った銀座東急ホテルで三浦和義の逮捕騒ぎに遭遇し、「日本はミウラばっかりだ」と驚いていた。
日本政府関係の動き
1) シグマシステムプロジェクト
ソフトウェア関係では、1985年に通産省はソフトウェア開発効率化を目指して国家プロジェクト「Σプロジェクト(シグマシステムプロジェクト)」を始めた。これはプログラマが不足するという予測に基づき、200億円をかけて、ソフトウェア開発ツールの開発と普及を目指した。1985年度予算の大蔵省原案ではゼロ査定となっていたが、財政投融資として復活し、30億円が計上された。その後1990年に事業を終了し、「シグマシステム」という会社を発足させたが、成果を出せずに5年後に解散した。恨み辛みの話は耳にするが実態はよく知らない。高橋茂は、「通産省と日本のコンピュータメーカ」において、失敗の原因は、開発したツールがたちまち陳腐化して使えなくなったため、と述べている。
2) 第五世代コンピュータプロジェクト
通産省が1982年に始めた第五世代コンピュータプロジェクトは、ICOTの研究体制を拡充した。研究員は70名となり、5研究室体制とした。大学や研究所の若手研究者とICOT研究者の共同作業の場として13のWGを作った。
1985年に、最初の個人用逐次推論マシン PSI(Personal Sequential Inference Machine)とそのOSであるSIMPOS(SIM Programming and Operating System)がリリースされた。中核となるハードウェア・モジュールが委託された三菱電機からICOTに納入されたのは1983年12月24日とのことである。SIMPOS は Prologにオブジェクト指向プログラミングを取り入れた ESP で記述されていた。また、並列論理プログラミング言語KL1を用い、並列オペレーティングシステムPIMOSの試作を開始した。
3) 国有特許ライセンス
通産省は、1985年11月1日、大型プロジェクト「次世代産業基盤技術研究開発制度」の研究成果に基づいて取得した国有特許700件を、アメリカIBM社にライセンス供与することを決定した。これは、IBM社の要請を受けて検討していたもので、国有特許の占有実施権を保有する財団法人日本産業技術振興協会とIBMとで契約した。契約期間は5年である。ライセンス料は明らかにされていない。
4) 通研ELIS
電電公社の電気通信研究所は並列LISPマシンELISを1985年開発した。ELIS(エリス)の名前はNTTの電気通信研究所(Electrical Communication Laboratories : ECL)に由来し、Ecl LISt processorから採ったものである。なお、日本電信電話公社は1985年4月から民営化され、日本電信電話株式会社(NTT)となった。
5) 通信自由化
1985年4月1日、日本電信電話公社が日本電信電話株式会社に移行するにともない、電気通信事業法当が制定・改正された。日本でもやっと一般加入回線への端末設備の接続が認められるようになった。これにより、パソコン通信が普及した。出版社のASCIIは、1985年5月にパソコン通信ホストの実験運用を開始した。
6) 著作権法改正
1985年、日本の著作権法が改正され、著作物の例示の中に新たに「プログラムの著作物」が加えられた。プログラムとは「電子計算機を機能させて一の結果が得ることができるようにこれに対する指令を組み合わせたものとして表現したものをいう。」と定義された。1986年1月1日から施行される。
これを受け、通産省と文部省は、企業や個人が開発・製作したプログラムを登録するために、財団法人ソフトウェア情報センターを1986年12月17日に設立する。2011年に一般財団法人に移行する。
7) 日本学術会議
1985年7月から日本学術会議第13期が始まったが、1984年のところに書いたように、1983年の法改正により、1984年5月から、会員は、登録学術研究団体として認定された学協会からの推薦に基づく選考により決定されるようになった。2005年からはcooptation方式。
日本の大学センター等
1) 東北大学(SX-1)
東北大学大型計算機センターには1985年、SX-1が設置された。1989年にSX-2Nに更新される。
2) 東京大学(VAX8600)
副システムをVAX11/780 (4 MB)からVAX8600 (20 MB)に更新した。
3) 名古屋大学(M-382+M-380)
名古屋大学大型計算機センターは、1985年10月、1979年に導入したM-382にM-380を加え、CPUは3個、メモリは96 MBとなった。
4) 京都大学(VP-200)
京都大学大型計算機センターは1985年11月、VP-100をVP-200 (1 CPU, 256 MB, 500 MFlops)に機種更新した。
5) 九州大学(VP-100)
九州大学大型計算機センターは、1985年12月、VP-100 (32 MB)を設置した。フロントエンドはM380S。設置当初には利用率がなかなか上がらなかった。1987年にVP-200にアップグレード。
6) 弘前大学
1985年11月、弘前大学計算センターを弘前大学情報処理センターに改組拡充し、翌年1月にACOS 850にシステム更新。
7) 福島大学
1987年5月、福島大学計算センターを福島大学情報処理センターに改称した。
8) 千葉大学(HITAC M-260K)
千葉大学情報処理センターでは、HITAC M-180をM-260Kにレベルアップし、主メモリを12 MB増設して24 MBとした。
9) 青山学院大学
1985年4月、厚木キャンパスにスーパーミニコンMS-190を導入した。また10月、青山キャンパスには、事務用にACOS 430、教育・研究用にACOS 950、およびパソコンシステム(PC-9801)を導入した。世田谷キャンパスにはACOS 950を導入した。
10) 高エネルギー物理学研究所(HITAC S-810/10)
1985年6月10日、筆者が以前(1973年~78年)勤務していた高エネルギー研では、待望のS-810/10の利用が開始された。S-810/10(主記憶128MB)である。東大センターのS-810が256MBに増強される直前であり、高エネルギー研の方が、主記憶が大きかった一時期があった。汎用機はM-280H(16MB)とM-280D(32MB)である。MSSは102GBに増強された。それとともに、1981年から使われたホログラムカードで出力リストを取り出す方式が廃止された。
筆者も公開初日から早速飛びつき、多数の複素3次方程式をCardano法で並列に求解するテストプログラムを流したが、複素指数関数のあたりでマシンが異常を検知しシステムダウンを起した。日立の工場から技術者がやってきて週末をかけて原因究明を行い、電気的に弱い部分を見出し修復した。本当の原因は、筆者のこのテストプログラムが初期値設定を忘れていたためであった。高エネルギー研ではゼロクリアが標準だったので、オールビット0の多量の信号が流れ、タイミングがずれてメモリ書き込みでパリティエラーを検出して停止したとのことである。異常を検知すると、普通は「自分のプログラムを見直せ」とか「SEに相談しろ」というメッセージが出るが、この時は「弊社にご連絡ください」というメッセージが出てびっくりした。東大のS-810ではゼロクリアが標準ではなく、メモリにゴミが入っていたためエラーは起こっていなかった。筆者のお粗末なミスではあるが、弱いところが初日に見つかったのは幸運であった。
なぜ複素指数関数をテストしたかというと、東大のS-810を使ってQCDに出てくる3×3複素行列の対角化のため多数の複素3次方程式求解をCardano法でベクトル計算をしていたとき、CEXPベクトル関数の計算がおかしいのではと気づいた。そこだけを調べるテストプログラムを作り、それによってベクトル標準関数にソフト上のバグがあることを発見した。CEXPの計算には、EXPとSINとCOSの計算が必要であるが、どこかで同期を忘れているらしく、データが上書きされていたようである。標準関数ソフトは直ちに修正された。まさかとは思ったが「高エネルギー研のS-810の標準関数ソフトでは直っているか」と、そのテストプログラムを流したところ、ソフトは正しかったがハードの弱点にぶつかってしまったというわけであった。
11) 分子科学研究所(HITAC S-810/10)
分子科学研究所は、1985年12月、S-810/10 (主記憶128 MB、拡張記憶 1024 MB)を設置した。フロントエンドはM680H。
12) 統計数理研究所
HITAC M-280Hのメモリを10 MBから24 MBに増強した。TSSが同時34回線まで稼働できるようになった。
日本の学界の動き
1) 筑波大学星野グループ
記憶ははっきりしないのだが、星野グループは物理学系の岩崎洋一氏を誘い、85年に文部省科学研究費補助金「特別推進研究」に応募した。手元に記録はないが、この年提案したのは計算物理学を広くサポートする並列計算機を構築するプロジェクトであった。最初の応募は84年かもしれない。東大や高エネルギー研のスーパーコンピュータは強力であったが、QCDの研究は計算性能がキーであり、少なくともさらに1桁か2桁性能の高い、しかも占有できるコンピュータがほしかった。特別推進は、1979年度からの試行を経て、1982年度から実施しているもので、少人数で3~5年間3億円程度まで補助が申請できた。
星野力を代表者として申請した。審査委員の故西島和彦先生から推薦していただけることになり、書類審査はフリーパスで星野力、川合敏雄がヒアリングに臨んだ。筆者は同行しなかった。ヒアリングでは、共同研究者に鈴木増雄(東京大学)が入っていたのを咎められた。審査員の坂井利之先生(京都大学)からなぜDECのミニコンが入っているか聞かれた。のれんに腕押しだったが、採択はされなかった。
1985年2月5日、川合敏雄は『スーパーコンピュータへの挑戦』を岩波書店からNew Science Ageシリーズの一つとして出版した。この本で川合は超並列こそが今後の科学技術計算の進む道であることを熱く語っている。岩波書店の社員が、同じ慶応義塾大学理工学部の久保亮五先生(東京大学名誉教授)にその本を進呈したところ、久保先生がパラパラと見て、「言っちゃわるいが、岩波というよりカッパブックスだね」と感想を述べられた。岩波の人は「それは最高の誉め言葉です。岩波は今やそういう方向を目指しているのです」と答えたそうである。川合氏から聞いた話である。
2) 大阪大学(Q-p)
大阪大学の寺田浩詔は、データ駆動型プロセッサの研究を行ってきたが、1983年、シャープ、松下電器、三洋電機、三菱電機と共同で、「民生・家電用高機能素子の設計手法」の研究組織を設立し、3年間にわたって通産省の助成を受けた。1985年春には、個別ICによる、4台の試作プロセッサ(Q-p)が完成し、レイトレーシングによる立体画像生成プログラムの稼働に成功した。
3) 情報処理学会
情報処理学会は、1985年5月17日に、創立25周年を記念してわが国コンピュータ分野の草分けとして今日の情報処理の基礎を築いた下記の先覚者7名を特別功労賞として表彰した。
「山下英男、喜安善市、後藤以紀、高橋秀俊、森口繁一、和田弘、岡崎文次」
4) WIDE研究会
1985年、慶應義塾大学と東京大学、東京工業大学の3大学を結ぶデータ網を構築したことがきっかけとなりWIDE研究会が発足した。代表は村井純。
5) Wnn
1985年から京都大学、慶応義塾大学、立石電機、アステックで、ワークステーション用のローマ字漢字変換ソフトウェアを開発していたが、1987年完成した。”Watashino Namaeha Nakanodesu”と入力して正しく「私の名前は中野です」と一括変換できるような連文節変換を実現することを目指して開発されたことから、その文字列の頭文字を取ってWnnという名前が付けられた。筆者も、SunのWSで愛用したが、ほどなくPCをWSのフロントエンドとして使うようになり、ATOKに宗旨替えした。
6) Feynmanの講演
ノーベル賞物理学者R.P. Feynman(California工科大学)が仁科記念財団の招きで来日し、1985年8月9日、学習院大学創立百周年記念会館で「The Computing Machines in the Future(未来の計算機)」と題して講演した。テーマは量子力学を利用した可逆的コンピュータであった。Feynmanはこのころ量子力学に基づくコンピュータの可能性を研究していた。十分理解はできなかったが、その中で、「空気力学のシミュレーションの計算が余りに大変になると、ある日、『そうだ、風洞実験でやれば簡単だ』と風洞を再発見する」というようなジョークを言っていた。量子力学系の計算は、量子力学を使ってやった方がよい、ということであろう。筆者は見ていないが、この講演は岩波現代文庫『聞かせてよ、ファインマンさん』(R. P. Feynman著、大貫昌子、江沢洋訳)に収録されている。
あと筆者が覚えているのは、かれが「私は2年前までは、並列計算機のプログラミングはとても難しくてできないと思っていたが、今は意見が変わった。それは、既存のプログラムを書き換えるという観点にたっているから難しいのであって、元の物理現象やシミュレーションの素過程に立ち帰って考えるならば、非常に簡単であることを発見した」と述べたことで、筆者も同感であった。かれは当時、創立間もないTMC (Thinking Machines Corporation)社に入り浸っていた。
ちなみに、この3日後に日航機が御巣鷹の尾根に墜落した事故があった。
7) 『岩波数学辞典 第3版』
日本数学会編の『岩波数学辞典 第3版』が、1985年に発行された。この英語版は1993年にMIT Pressから発行される。
8) 高橋秀俊先生死去
物理学とコンピュータ科学の両分野で大きな業績を残された高橋秀俊先生(東京大学→慶応義塾大学)は1985年6月30日に逝去された。享年70歳。
9) 元岡達先生死去
1985年4月に東京大学大型計算機センター長に就任した元岡達(とおる)東京大学工学部教授は、11月11日に56歳の若さで逝去された。1978年からは、第五世代コンピュータ開発プロジェクトの調査委員会で、人間の推論をベースにした計算機システムの研究開発計画を立案し、1982年から正式に通商産業省のプロジェクトを発足させ、電子計算機基礎技術開発推進委員会委員長としてこの世界的に有名なプロジェクトを指導していたところであった。
国内会議
1) 情報処理学会「数値解析研究会」
1985年からは、予稿集が「研究会資料」から「研究報告」と名称が変更された。
2) 数値解析シンポジウム
つくば科学万博に合わせて、筆者らのいた筑波大学数値解析研究室の担当で「数値解析シンポジウム」がつくば研究交流センターで1985年5月30日(木)から6月1日(土)まで開催された。つくば以外からの参加者はホテルニューたかはしなどに宿泊した。参加者は106名。2日目の午後は万博見学ということで、筆者も初めて万博会場に足を運んだ。
3) 数理解析研究所
京都大学数理解析研究所は、1985年11月20日~22日、森正武(筑波大学)を代表者として、「並列数値計算アルゴリズムとその周辺」という研究集会を開催した。通算第17回である。報告は、講究録No. 585に収録されている。タイトルには「並列」という言葉が出ているが、講演の中には並列処理やベクトル処理に関係するものはほとんどない。
この1ヶ月前、10月2日~4日、後藤英一(東大)を代表者として「ソフトウェア科学・工学の数理的方法」という研究集会が数理解析研究所で開かれ、筆者はパネリストとして出席した。この研究会も数値計算関係の研究会と同様に、1979年から毎年継続的に開催されていたようである。パネルは「プログラミング環境の現状と将来」で、司会は戸村哲(電総研)、パネリストは、小柳義夫(筑波大学)、竹内郁雄(NTT基礎研究所)、村井純(東京工業大学)、横井俊夫(ICOT)であった。研究会の発表は、講究録No. 586に収録されているが、パネルディスカッションの記録はbit誌1986年1月号に掲載されている。筆者に割り当てられたテーマは「スーパーコンピュータまわりの環境について」で、ベクトル計算機と並列計算機(特にPAX)の利用環境について論じた。特に大型数値計算においては、プログラミングだけではなく、その基礎になっているアルゴリズムまで考え直す必要がある、と強調した。「いつまでもフィボナッチ数列では困る」と嫌みを言ったら、一同苦笑していた。高エネルギー物理学研究所のS810/10では、我々のグループのVPU(ベクトルプロセッサ)使用率が平均で96.54%にも達しているが、その裏には、高度なベクトル化コンパイラがあるだけではなく、ユーザがきめ細かいチューニングを行って極限まで性能を上げていることを強調した。後藤英一先生から「Cray-1ではどうだったか」という質問があったが、筆者は「たしかにCray-1の当初のプログラミング環境は悪かったようだが、欧米の人がそれを寄ってたかって使いこなしてしまったところがすごい。『プログラミング環境が整ったら使いましょう』なんて言っていたら今日のスーパーコンピュータはなかった」と述べた。村井純はUNIXでの環境、特にJUNETなどネットワークについて、竹内郁雄はLISPの環境について、横井俊夫は論理型言語での環境について議論した。フロアからの議論も活発であったが、筆者はお呼びでなかったようである。
この記録には見当たらないが、フロアから筆者に「物理屋はネットワークとしてどのくらいのバンド幅か必要なのか」という質問が出た。筆者は、それこそ清水(きよみず)の舞台から飛び降りる気持ちで、「1 Mb/sを使えたら御の字だ」と答えたことを覚えている。当時の専用線は4.8 kb/s程度でも目の玉の飛び出るほど高価であった。なぜ1 Mb/sと考えたかというと、当時メインフレームコンピュータの磁気テープのチャンネルが120 KB/sほどのスピードだったので、磁気テープに書き込んで送るくらいなら、同じスピードで直接データを送ればよいと思ったからである。家庭にまで1 Gb/sの光ファイバが通っている今からみると、笑い話である。
4) PCGシンポジウム
1985年から、PCGシンポジウム(PCG Symposium on Large Sparse Sets of Linear Equations)が野寺隆(慶応義塾大学)により始まり、慶應義塾大学(日吉図書館、 AVホール)で毎年2~3月頃開催されている。線形計算、特に前処理付共役傾斜法関連をテーマとする1日のシンポジウムである。筆者もしばしば参加した。
5) AIジャーナル
第五世代コンピュータプロジェクトに刺激されてか、1985年12月に株式会社ユー・ピー・ユーから「AIジャーナル」が発刊された。隔月刊であった。12号まで発行され、最終号は1987年12月号であった。創刊号で渕一博は、「コンピュータ科学科なんていうのはいらないんじゃないか」などと大言壮語している。なお、「AIジャーナル」は、Maruzen eBook Libraryから全号が有料で電子化されている。
次回は日本企業、ネットワーク、標準化など。富士通は上位機種VP-400を発表、日本電気はSX-2を出荷する。一太郎が発売される。通信自由化で、日本でもJUNETやBITNETが動き出す。「並列計算は実用になるか?」とKarpが挑戦状を突き付けた。
(アイキャッチ画像:Cray-2 出典:Computer History Museum)
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4件のコメントがあります
1985年7月には阪大レーザー研にSAPと呼んでいた1.3GF, 128MBのNECスパコンが導入されています.
確か,SX-2のプロトタイプだったかな?
私もお世話になりました.
講究録No. 586
へのURLリンクの文字列記述が
貴WEBページの中で正しくなく
ダブっているために、
リンクをクリックしても
正常に開くことが出来ません。
Webを良く理解している人なら簡単に誤りを理解して正しく開くことができますが、皆がそうであるとは仮定出来ませんでしょう。
村上様、ご指摘ありがとうございました。リンクを修正いたしました。
坂上様
前回のシリーズ、HPCの歩み50年(第22回)-1985年(a)-https://www.hpcwire.jp/archives/6442では、「また大阪大学レーザー核融合研究所には、7月、民間との共同研究に基づき日本電気からSAP (Scientific Arithmetic Processor)が導入されたが、これは技術的にはSX-2(1.3 GFlops、主記憶128 MB)と同等のマシンであった。Top500でもSX-2として掲載されている。」という文章がありましたが、今回は抜けています。入れた方がいいかもしれません。