新HPCの歩み(第70回)-1983年(b)-
アメリカのBardon-Curtis reportはNSFに対し、アカデミアのコンピュータネットワーク環境に十分投資すべきと勧告した。Cedar project、Ultracomputer Project、RP3 Projectが始まる。またこのころ、中国人民解放軍国防科技大学はCray-1そっくりなスーパーコンピュータ「銀河1号」を開発した。「天河1号、2号」の遠い祖先に当たる。 |
国内会議
1) 情報処理学会「数値解析研究会」
前年に発足したこの研究会は活発に活動を続けていた。先駆的なものでは、「数値シミュレーション用プログラム言語DEQSOL(偏微分方程式専用言語)」(梅谷征雄、日立中研)、「ICCG/MICCG法の多段メッシュによる加速について(マルチグリッドによる前処理)」(村田健郎、図書館情報大)、「多変数関数の勾配の計算方法(高速自動微分)」(岩田憲和、伊理正夫、東大工)があり、数式・数値混合処理の発表が3件あった。また、スーパーコンピュータについては、「スーパーコンピュータS-810東大システムにおける数学ライブラリの性能」(唐木幸比古、東大大型センター)の発表があった。応用分野では、「最近の数値予報の進歩について」(住明正、気象庁)や「非線型モデルにおける異常振動の例」(熊野長次郎、三菱総研)などの発表があった。
2) 数値解析研究会
自主的に開催している、第12回数値解析研究会(後の数値解析シンポジウム)は、名古屋大学二宮研究室の担当で、1983年5月26日(木)~28日(土)に、長野県木曽郡王滝村の名古屋市民休暇村「おんたけ」で開催された。参加者111名。筆者も出席した。1979年の御嶽山の(有史以来)初噴火から4年であった。
3) 数理解析研究所
京都大学数理解析研究所は、1983年11月24日~26日、森正武(筑波大)を代表として、「並列数値計算アルゴリズムとその周辺」という研究集会を開催した。第15回目であるが、タイトルに「並列」が付いたのは初めてであった。報告は講究録No. 514に収録されている。12件の発表の内半数が並列またはベクトルのアルゴリズムであった。筆者も、「格子ゲージ理論に現れる大規模連立一次方程式の不完全LU分解CR法とその並列化」という発表を行った。
また、独立の研究集会として「乱数プログラム・パッケージ」(代表、渋谷政昭)が6月9日~11日に開催された。報告は講究録No. 498に収録されている。筆者は「場の理論モンテカルロ計算における乱数」という発表を行った。物理学会誌にも報告を書いた。
発表はしなかったが、1983年1月20日~22日に一松信を代表者として「数式処理と数学研究への応用」が開催され出席した。報告は講究録No. 486に収録されている。研究会の中で、「数式処理システムはいかにあるべきか?」と題したパネル討論会が、一松信の司会、金田康正、佐々木建昭、永田守男、三井斌友をパネリストとして開催された。詳細な報告がbit誌1983年6月号p.5-16に掲載されている。三井斌友(京都大学)は、小鹿丈夫(大阪教育大)および渡部敏(東北歯科大)と三人で開発しているNAESを紹介した。永田守男(慶応大)は工学系の研究道具として開発しているCOSMOSについて紹介した。金田康正(東大)はREDUCEとその普及活動について紹介した。佐々木建昭(理研)はGAL (General Algebraic Language)を紹介するとともに、数式処理の研究者の立場から、今後数式処理がどうあるべきかを論じた。筆者も発言していて、REDUCEの出力がFORTRANコンパイラの最適化機能とマッチしていないことを指摘した。アメリカ国防省によるソフトウェアの輸出禁止(後述)も話題になった。
日本の企業の動き
1) 日立製作所(S-810/20、VOS3/ES1)
日立が1983年10月にS-810/20を東大大型計算機センターに納入したことは前に述べた。正式稼動は1984年1月から。また、アドレスを24ビットから31ビットに拡張したVOS3/ES1を1983年11月に発表し、1984年12月から出荷した。
HITAC S-810論理パッケージは、2016年3月10日、情報処理学会から2015年度情報処理技術遺産に認定された。
2) 日立製作所(DEQSOL)
数値解析研究会の項でも触れたが、このころ日立中央研究所の梅谷征雄らは、数値シミュレーション用プログラミング言語DEQSOLを開発していた。これは偏微分方程式の解法を数値アルゴリズムのレベルで記述し、これをベクトル計算機向きの FORTRANプログラムに自動的に変換するプリプロセッサである。今でいうDSL (Domain Specific Language)である。情報処理学会論文誌の1985年1月号に論文があるが、最初の投稿は1983年11月であった。
3) 富士通(VP-100)
富士通のVP-100の1号機は1983年末に出荷され、翌年1月から名古屋大学プラズマ研究所で稼動した。国内での設置状況は1987年のところに一覧として記す。
4) 日本電気(SX-1、SX-2、PC-9801F、PC-100)
日本電気は1983年4月21日、スーパーコンピュータSX-1, SX-2を発表した。初出荷は1985年である。1980年10月には、3年後をめどに750 MFlopsの超高速マシンを開発中との発表があった。
日本電気は前年からPC-9801を販売してきたが、1983年10月、16ビットプロセッサIntel 8086-2(8 MHz)を搭載したPC-9801Fを発売した。1台または2台の5インチFDDを内蔵し、第1水準の漢字ROMを標準搭載している。
また、1983年10月13日、GUIをサポートしたPCであるPC-100を発売した。開発は日本電気とアスキーと京セラ傘下のサイバネット工業で、製造は京セラが担当した。日本製PCで初めてマウスをサポートした。CPUはIntel 8086の日本電気によるセカンドソースのμPD8086-2を搭載し、クロックは7MHz、主記憶は128KB~768KB。担当は電子デバイス事業部であったが、互換性より機能や性能を重視したため、互換性を重視した情報処理事業グループの担当したPC-9801(1982年)と比べてほとんど売れなかった。
5) 日本電気(V30)
日本電気はIntel8086上位互換の16ビットプロセッサV30を1983年商品化した。
6) 任天堂(ファミコン)
7月15日、任天堂はファミリーコンピュータを発売した。Apple II(1977)に搭載されたMOS 6502と互換のリコー製RP2A03をCPUとして搭載した。
7) 管理工学研究所(「松」)
管理工学研究所(1967年創業)は、1983年3月、PC9801用のワードプロセッサソフト「日本語ワードプロセッサ」を12万円で発売した。入力はローマ字・仮名漢字自動変換、6万語の辞書内蔵、N88-BASIC(86)プログラムとの結合などを謳っている。1983年末、これをバージョンアップして「松」として発売。初代PC9801の128 KBしかないメインメモリで動いたことは驚異的である。1985年発売の「一太郎」と、パソコン上の日本語ワープロソフトとして、一時人気を二分した。
8) 日本IBM(IBM 5550)
1983年3月15日、日本IBM社は「IBMマルチステーション5550(通称IBM 5550)」を発売した。CPUはIntel 8086、OSは日本語DOSであった。表示の解像度は1024×768で、1文字を24×24ドットで表示した。本体の製造は松下電器産業。
標準化
1) Pascal言語
1983年、Pascal 言語はIEC/ISO 7185として国際標準となった。
2) C++
1979年、Bell LabsのBjarne StroustrupがC言語の拡張として“C with Classes”の開発を始めたが、1983年に名前をC++に変更した。
3) Ethernet
1982年に提案されたEthernet 2.0規格を基に、1983年、IEEE 802.3 CSMA/CDが策定された。
4) MSX
アメリカMicrosoft社の極東担当副社長であり、アスキー社の副社長であった西和彦を中心に、8ビットおよび16ビットのパソコンの共通規格MSXが多くのメーカに提示された。当初の案ではソフトウェア・ベンダに高額の契約金が決められており、反対の声も上がっていた。これを受け、パソコン向けソフト卸売り大手の日本ソフトバンクは独自の統一案を発表し、Microsoft社と対立していた。6月27日にトップ交渉が開かれ、Microsoft側が契約金問題で大幅譲歩したので、MSXに一本化することになり、同日発表された。複数のメーカからMSX仕様のパソコンが発売された。ゲーム機としても利用された。1985年にはMSX2が、1988年9月2日にはMSX2+が、1990年にはMSXturboRが出される。
5) 国際度量衡総会
1983年に開催された第17回国際度量衡総会(CGPM)において、メートルが光速と秒で定義された。光速は299792458 m/sと定義された。原器に頼るのはキログラムだけになった。
ネットワーク関係
1) ARPANET
前にも述べたが、1983年1月1日、ARPANETはTCP/IPプロトコルに切り替えた。32ビットのIPv4アドレスを使った。当時としては32ビットもあれば世界中でも十分と思われたのであろうが、インターネットの急激な普及によりアドレスが不足するようになった。この時、(IPv6のように128ビットでなくとも)、64ビットかせめて48ビットのアドレスを採用していたらと悔やまれるが、技術の進歩とはそんなものであろう。DNS (Domain Name System)にあたるものが、1983年、インターネットを使った階層的な分散型データベースシステムとして、Southern California大学のInformation Sciences Institute(ISI)のPaul MockapetrisとJon Postelにより開発された。11月、DNSに関する一連のRFCが発表された。
それとほぼ同時に軍事部門がARPANETから切り離され、独自のネットワークMilnetを構成するようになった。一般向けのネットワークがInternetと呼ばれるようになったのはこの頃からである。
2) EARN
EARN (European Acdemic and Research Network)は、1983年、大西洋回線を通じてアメリカのBitnetに接続したことに端を発する。これにより、ARPANET、Milnet、NSFNET、CSNETなどと接続することができた。
3) コンピュータ犯罪
1981年に初期的なコンピュータ犯罪が起こったとのべたが、1983年8月には、414グループ事件が発覚し、関係者がFBIに逮捕された。15歳から22歳までのミルウォーキーの少年12人(自称、414グループ、おそらく市外局番から)が、前年から、LANLを始め、60以上の企業や銀行、病院などのコンピュータ回線に侵入し、データを破壊したり、システムダウンを起させたりしたとのことである。かれらが広範囲のマシンにアクセスできたのは、長距離電話無料の番号を手に入れ(そんなのあるんですね)、そこから手当たり次第に侵入したとのことである。
映画 ”War Games”(日本名「ウォーゲーム」)が公開されたのもこのころ(1983年6月)である。筆者は普段映画をほとんど見ないが、1984年1月16日にたまたま札幌の街をうろついていて寒さしのぎに入った映画館で見たのがこれであった。筆者は気づかなかったが、映画の中でコンピュータのfirewallがはじめて登場したようである。現実のfirewallは1986年DEC社が開発した。
また、雑誌Newsweekの1983年9月5日号では、”Beware: Hackers at play”(ハッカーの遊びに注意せよ)の見出しでハッカー特集を組んだ。
1983年11月2日、19歳のUCLAの学生が、自分のPCを用いてアメリカ国防総省のネットワークに侵入し、関連機関の情報を盗み出したとして逮捕された。ちなみに、1988年のモーリス・ワーム事件も同じ11月2日に起っている。
アメリカ政府関係の動き
1) Bardon-Curtis report
1982年12月にLax reportが出されたことはすでに述べたが、議会の要請を受けて、NSFがLax panelの指摘した問題にどう対応すべきかをまとめ、1983年7月に発表した(M. Bardon and K. Curtis, A National Computing Environment for Academic Research, National Science Foundation, July 1983)。これはBardon-Curtis reportとして知られている。NSFに対し6点の勧告を行っている。
a) 政府や企業のプログラムを連携させ、スーパーコンピュータ研究を推進させる
b) 各地の研究用コンピュータ設備への支援を増強する
c) スーパーコンピュータ研究センターを募集し、3年以内に10のセンターを設置する
d) 大学、研究所、スーパーコンピュータセンターをつなぐネットワークを支援し、設備へのアクセス、ファイル転送、科学的通信を可能にする
e) コンピュータのサービスやネットワークに関するNSFの決定を支援し監視する諮問委員会を設置する。
f) 先進的なコンピュータシステム設計、計算数学、ソフトウェア、アルゴリズムの領域での研究教育プログラムを支援する。
2) Scientific Supercomputing Committee Report
1983年10月25日、IEEEは“Scientific Supercomputing Committee Report”を発表した。委員長はSidney Fernbach。詳細は不明である。
3) Report of the Supercomputer Panel
これも表題だけで詳細は不明であるが、1983年12月、Federal Coordination Council on Science, Engineering and Technologyは、Washington, D.C.において、“the Supercomputer Panel on Recommended Acting to Retain U.S. Leadership in Supercomputers”というレポートを発表した。「アメリカが(日本などに負けることなく)スーパーコンピュータにおけるリーダーシップを保持するための行動勧告」露骨であるが、この後2000年ごろまでこのような動きが続く。
4) “A Center for Scientific and Engineering Supercomputing”Proposal
Illinois大学Urbana-Champaign校(UIUC)では、Lax Reportに呼応して、自分の大学にスーパーコンピュータセンターを創設したいとNSFに提案した。これが“A Center for Scientific and Engineering Supercomputing”Proposalである。表紙の色からBlack Proposalと呼ばれている。提案者はLarry L. Smarr, John Kogut, David Kuck, Robert Wilhelmson, Peter Wolynes, Karl Hess, Thomas Hanratty, Roberg McMeekingである。日付は書かれていないが、1983年10月の会議の発言が引用されているので、1983年末であろう。これはNSFからの何かの募集に応じたものではなく、Larry Smarrらが、大学の理事会を通して自主的にNSFに提出したものである。この提案は受け入れられ、UIUCにNCSA (National Center for Supercomputer Applications)が設置され、Larry Smarrは創立者センター長となった。後で述べるように、これはNSFの5スーパーコンピュータセンターの嚆矢となる。
5) 国防省(ソフトウェア輸出規制)
1983年3月、アメリカ国防省は、電子回路設計プログラムSPICE2G.6および環境INTER-LISPに対し、1983年1月1日をもって輸出規制措置が行われたという報道があった。確か、今後の新版については国外に出さないということだったと思う。ソフトウェアは金を出しても買ってこられないということで、日本の関係者に驚愕が走った 。なお、SPICEはSimulation Program with IC Emphasisの略である。SPICE2は1975年公開、最後のFORTRAN版SPICE2G.6は1983年公開され、この版をもとに多くの商用版が生まれた。規制措置はこれらの商用版を対象にしたものであろうか。実際に規制されたという話は聞かれない。
アジアの動き
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1) 銀河1号
中国のスーパーコンピュータが初めて登場する。10年余にわたって中国を政治混乱に陥れた文化大革命は1976年10月6日の四人組逮捕で終わったが、その影響は大きかった。鄧小平(Deng Xiaoping)は1977年7月の第10期3中全会において、国務院常務副総理、党副総理などの要職に復帰すると、文革で混乱した人民解放軍の整理に着手するとともに、科学技術と教育の再建に取り組んだ。
その成果の一つが、1983年11月21日、中国人民解放軍国防科技大学(湖南省長沙市)が開発に成功した、中国初のスーパーコンピュータ「銀河1号」(YH-1)である(写真)。李磊教授(法政大学)の記事によると、四人組逮捕の1年前、しかもCray-1誕生の1年前の1975年から開発に着手したとのことである。ピーク性能は100M Flops。アーキテクチャは分からないが、写真を見ると、円筒形の本体の周りを低い棚のようなものが取り巻き、Cray-1に何となく似ている。その後の中国のスーパーコンピュータ発展の原点となるマシンであった。ソフトウェアとしてはベクトル化FORTRANが開発されたようである。主要な応用の一つが石油探査のための地震波解析であった。この動きが後のいわゆる「863計画」につながる。
2) 浪潮
浪潮(Inspur)社は、1983年、済南(山東省)においてマイクロコンピュータを製造発売した。浪潮は1945年創立(当時は山東電子設備Shandong Electronic Equipment Factory)で、最初はコンピュータの周辺機器や真空管などを製造していたが、1970年、中国初の人工衛星「東方紅1号」は浪潮製のトランジスタを搭載した。その後、中国を代表するコンピュータ会社の一つに成長する。後で述べるように、天河1号、2号などの中国のスーパーコンピュータのいくつかは、浪潮が国防科技大と協力して開発製造したものである。
3) Samsung
韓国の三星(Samsung)電子工業は1969年1月に親会社三星商会によって設立されたが、1983年2月、DRAM事業に進出した。1984年にはMicron社から設計技術移転の支援を受け、6か月でMicron社と東芝に続く世界で3番目の64k DRAMを開発した。同年、光州電子を合併し、社名を三星電子 (Samsung Electronics Co. Ltd.)に変更した。
4) 台湾中央気象台
交通部中央気象局は、1983年の気象業務全体のコンピュータ化計画に基づき、数値気象予報システムとして、初めてのスーパーコンピュータCDC Cyber 205を導入した。
世界の学界の動き
1) Cedar Project
このころIllinois大学でDavid KuckらによりCedar projectが始まった。これは高性能結合網 (multipath omega network) と多階層共有メモリを持つMIMD並列コンピュータを開発するプロジェクトである。VLSI技術により独自プロセッサを自主開発し、最終的には1990年頃1024以上の並列マシン(10 GFlops級)を開発することが計画されたが、1985年に商用のAlliant FX/8 の4セットをCedar clusterとして使用することが決まり、32プロセッサで終了した。ソフトウェア、とくに自働並列化コンパイラ(Parafrase)の開発に力を入れた。
2) Ultracomputer Project
同じ頃(開始は1979年頃)、New York UniversityではAllan Gottliebを中心にUltracomputer projectが始まった。これもomega networkにより共有メモリ並列処理を実現するものであり、4096ノードまで拡張可能であると主張していた。プロトタイプとして実際に製作したのは8ノードと32ノードである。このプロジェクトではメモリ衝突を減らすために、fetch-and-addのようないわゆるアトミック命令をネットワーク上でcombineする技術が強調された。
3) RP3 Project
Ultracomputer Projectと共同して、IBMのWatson研究所ではRP3 (Research Parallel Processor Prototype) プロジェクトが始まった。ノードは32ビットのRISCである。当初は512ノードを計画し、1.3 GIPS、800 MFLOPSの性能、1~2 GBのメモリ、192 MB/sのI/Oバンド幅、13 GB/sの相互接続網を予定していたが、64ノードの開発で終了した。アトミック命令(fetch-and-addなど)をネットワーク上で処理するCombining networkが売りであったが、その効果は大きくないことがわかった。
4) Project Athena
1983年、MITとDEC社とIBM社はProject Athenaという共同開発プロジェクトを開始した。MIT内の教育環境の向上のために、異機種のWSを最大10000台まで拡張できる統合環境を目指した。この中から、X Window SystemやKerberos認証などが生まれた。プロジェクトは1991年6月30日に終了した。
5) イジング専用機
筑波大でPAX-128を開発していた頃、Ising模型シミュレーションのための専用機の開発が世界各所で行われていた。Ising模型は統計物理学モデルとして単純であり、汎用コンピュータがあまり得意でないビット演算が頻出するので専用ハードウェアを作るには適している。Journal of Computational Physics 51巻2号(1983年8月)には、UCSBのPearson等の論文と、Delft大学のHoogland 等の論文が並んで掲載されている。その後、1985年にはOgielski等がBell Labsにおいて、1988年には泰地真弘人等が東大において、特徴のあるIsing専用機を開発し、研究に用いている。
6) Simulated Annealing
IBM Thomas J Watson Research CenterのS. Kirkpatric, C. D. Gelatt, Jr., M. P. Vecchiは、1983年5月13日のScience, New Series, Vol. 220, No. 4598, pp. 671-680において、“Optimization by Simulated Annealing”を発表した。これは、Metropolis法(1953)を最適化に応用する手法である。現在、量子アニーリングと対抗しているディジタルアニーリングの原点である。
7) Bus Snooping
共有メモリ並列コンピュータでは、複数のプロセッサがメモリに書き込むので、各プロセッサにあるキャッシュメモリが、共有メモリと同一内容であること(coherency)を保証する必要がある。そのため、自分のキャッシュデータに対応するアドレスに他のプロセッサが書き込んだことを検知し、書き換えまたは無効化しなければならない。1983年、University of Wisconsin, MadisonのC. V. RavishankerとJames R Goodmanは、論文 ”Cache Implementation for Multiple Microprocessors” (February 28, 1983)において、Bus Snoopingを提唱した。後に述べるように、筆者はこの年の夏にWisconsin大学Madison校に1週間ほど滞在していたたが、統計学科と物理学科しか訪問せず、コンピュータ科学科は覗いただけだったので全然知らなかった。Snoopingについて鈴木則久は、Xerox Palo Alto研究所においてDragonプロジェクトの中でThackerとともに1980年に発明したが、完成前に二人ともXeroxを辞めてしまったので公表しなかったとbit誌1988年2月号に書いている。
8) 「本物のプログラマはPASCALを使わない」
“Real Programmers Don’t Use Pascal”という刺激的なエッセイが、Tektronix社のEd PostによりDatamation誌1983年7月号に投稿され、Usenetでも流布され話題になった。「本物のプログラマはリスト処理をFortranで書く」「本物のプログラマはストリング処理をFortranで書く」「本物のプログラマはGO TOを使うのを恐れない」「Fortranで書けなければアセンブリ言語で書け。アセンブリ言語で書けないならやる価値はない」など言いたい放題で、当時のある種の雰囲気を表出している。
9) 星野力教授のアメリカ視察
1983年夏アメリカを視察した星野力教授の報告によると、このころアメリカでは、大学、研究所、企業を併せて50ものスーパーコンピュータ・プロジェクトが進行しているとのことである。商用機では、ETA社が10 GFlopsのマシン(後のETA 10)を、Denelcor社が4 GFlopsのHEP IIを、Cray社がクロック1 nsのCray-3を開発している。
「日本の第五世代やスーパーコン大プロは、ソ連のSputnikの役割を果たし、アメリカは独自にApolloを打ち上げた。危機を感じるべきは日本である。このままでは日本は負けそうである。スーパーコン大プロは、よりambitiousなものに挑むべきである」と強調している。この報告は何人かの大プロ関係者の注目を集めたが、役所に既定の方針を変更させるのは困難であった。
10) 筆者のアメリカ視察
筆者も7月26日から久しぶりにアメリカに出かけ、1月弱ほど各所を廻った。Wisconsin大学(Madison校)では統計学科に8月3日まで1週間ほど滞在しSALSの宣伝をするとともに、物理学科にも出かけて専用並列計算機によるスピン系のシミュレーションについて講演した。このころ、同大学のコンピュータ科学科には、十数台のVAX 11/750の箱が山積みになっていた。なんでも、これをつないで並列計算機を作るとのことであった。今でいうWorkstation Clusterであろう。当時筑波大学ではたった1台のVAX 11/750をありがたく使っている状況だったので、あまりの違いにびっくりした。
8月3日~10日にはCornell大学で高エネルギー物理の“Lepton Photon Conference”(2年に1回、奇数年)があり、出席した。前年の1982年にノーベル物理学賞を受賞したKenneth G. Wilson教授が招待講演を行った。その中で、「日本もスーパーコンピュータでいろいろがんばっているようだが、これはリトル・リーグに過ぎない。アメリカのコンピュータはメジャー・リーグだ。本気でやれば一ひねりだ。」とかいうような問題発言を行った(残念ながら筆者の英語力では聞き取れなかった)ので、日本人の参加者が質問でかみついた。座長が「講演者は何をしゃべってもいいが、質問は物理に限るように」とか制止していたので笑ってしまった。筆者は講演後の会場でWilson教授と会い、「私たちは日本で格子ゲージのために専用並列計算機を計画しているが、その予算獲得に苦慮している」と言ったら、「オレが何をやっているか知っているか。日本に負けるぞと煽って、政府から予算を引き出そうとしている。君たちも同じことをすればよい。」というご託宣であった。噂では、その頃Wilson教授は政府関係者や企業関係者と会うために初めて背広をオーダーしたとか。
Cornell大学のあるIthaca市は氷河の爪痕でできたFinger Lakes地帯にあり、風光明媚なところである。広いキャンパス内には渓谷や滝などもある。Lepton Photon Conferenceの最中に、日本人参加者の何人かは、当時Cornell大学院に在学していた岡本祐幸氏の車で自然豊かな周辺を案内していただいた。Watkins Glen State Park(渓谷)とかConrning Museum of Glass(コーニング社のつくったガラス博物館)などが印象に残っている。
帰りにLBNLに1週間ほど滞在して、Particle Data Groupの共同研究に参加した。ある朝、グループの一人が「ヨシオ、Gershwinが亡くなったの知っているか」というので、「ああ、“An American in Paris”とか“Rhapsody in Blue”とか作曲した人ね。」と答えると、「それは弟だ。亡くなったのは兄のIra Gershwin(作詞家)の方だ。」とのこと。亡くなったのは8月17日。まあ、会話にはなったので恥をかかないで済んだ。
わたくし事ではあるが、アメリカから帰った翌日8月21日から、編集委員十数人と日光グランドホテルに数日缶詰めになり、最終段階に入った培風館「物理学辞典」のゲラ読み合わせの合宿に加わった(合宿そのものは二三日前から開始)。この辞典は翌年9月28日に発行される。
次回は国際会議やアメリカの企業の動きである。当時MITの大学院生であったW. D. HillisはThinking Machines Corporation (TMC)をマサチューセッツ州中部の工業都市Walthamで創立した。
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