世界のスーパーコンピュータとそれを動かす人々


3月 14, 2022

新HPCの歩み(第84回)-1987年(c)-

小柳 義夫 (高度情報科学技術研究機構)

日本では新しいベクトルコンピュータが登場する一方、アメリカではTMCのCM-2やIntelのiPSC/2など超並列コンピュータが続々登場する。日米スーパーコンピュータ摩擦はますます泥沼に入る。東工大はETA 10の導入を決断する。最初のGordon-Bell賞はnCUBEの利用者に与えられた。

日本の企業の動き

1) 日立(S-820)
1987年7月1日、日立は第2世代のベクトルスーパーコンピュータS-820を発表した。最初の出荷は1987年12月。最大構成のS-820 model 80では、4個の加算・論理パイプラインと、4個の乗算・加算パイプラインを持つ。クロックは4 nsで、クロック毎に最大12個の乗算・加減算が実行可能で、ピーク性能は3 GFlopsである。スカラユニット等には、汎用機M-680Hの相当する部分を使っている。S-810と違い、要素並列パイプライン制御が行われるようになった。シングルプロセッサである。あと、どれだけ使われたかは知らないが、拡張記憶をビデオRAMとして使い動画像出力を行う機構はユニークであった。

筆者は、9月3日に神奈川工場(秦野市)で開かれたS-820披露に招かれ基調講演を行った。日立のマシンをいろいろ壊すような人をよく呼んだものと思う。

1993年11月のTop500からS-820の設置状況を示す。1.817 GFlopsというRmax値は、ピーク3 GFlopsのベクトルコンピュータとしては低めであるが、これはハードが、加減算と乗算が2:1でLINPACK向きではないからであろう。このとき東京大学はすでにS-3800に更新していた。

順位

設置場所

機種

Rmax

Rpeak

設置年

202位tie

北海道大学

S-820/80

1.817

3.0

1989

202位tie

分子科学研究所

S-820/80

1.817

3.0

1988

202位tie

高エネルギー研

S-820/80

1.817

3.0

1988

202位tie

日本大学

S-820/80

1.817

3.0

1993

202位tie

専修大学

S-820/80

1.817

3.0

1993

202位tie

日立社内(6台)

S-820/80

1.817

3.0

1988-90

 

S-820/60は320位tieで9件記載されている。HITAC S-820は、2020年3月6日、情報処理学会により2019年度情報処理技術遺産に認定された。

2) 富士通(VP-400E)
1987年7月にVPシリーズの改良型であるFACOM VPシリーズEモデルが発表された。最大構成のVP-400Eではピーク性能は1.7 GFlopsであった。またEモデルは仮想計算機機構AVM (Advanced Virtual Machine) やTCP/IP接続をサポートしている。1993年11月のTop500から設置状況を示す。

順位

設置場所

機種

Rmax

Rpeak

設置年

393位tie

KFK (Karlsruhe Nuclear Research Centre)(独)

VP-400EX

0.79

1.71

 

393位tie

航空宇宙技術研究所

VP-400E

0.79

1.71

 

 

VP-200E(200EX)は492位tieで6件記載されている。FACOM VPシリーズEモデルのMCCボードは、2020年3月6日、情報処理学会により2019年度情報処理技術遺産に認定された。

1987年9月の報道によると、富士通の提携先であるAmdahl社は、富士通の開発したAmdahl 1100 VP(VP-200相当か)が米国内で初受注に成功したとのことである。民間企業であろうが、受注先は不明。

5月には、ビジネス用のワークステーションFACOM G-100シリーズを発表した。G-140はMC68010 (10 MHz)、G-150とG-150AはMC68020 (16 MHz)、G-150 LT (Model 10, Model 30)はMC 68030 (16 MHz)を搭載している。OSはUNIX System VをベースとしたSX/Gを開発。

日経産業の報道によると、富士通のS. Kotaniらは、1987年12月6日~9日にWashington DCで開催されたInternational Electron Devices Meetingで、2.5-ps Josephson OR Gateの開発に成功したと発表した。通産省が1981年から始めた「科学技術用高速計算システムの研究開発」(通称「スーパーコン大プロ」)の成果の一つである。

3) 日本電気(SX-2A, MAN-YO)
日本電気は1987年末、SX-1/2にAモデルを追加した。これはメモリやI/Oバンド幅を改良した機種である。SX-2Aは4台までクラスタを組むことができる。また、AモデルはTCP/IPをサポートしている。また、1987年5月に最下位機種SX-Jを発表した。

1987年、オランダの国立航空宇宙研究所からSX-2を受注した。

日本電気C&Cシステム研究所は、1987年10月ニューラルネットワークの専用並列コンピュータMAN-YOの開発に着手した。チップ上に64000個のセルを搭載し、これを搭載したプロセッサ・エレメント128台をネットワークで接続する予定である。発表の時点で4台のプロトタイプが稼働している。

4) 三菱電機
三菱電機は、第五世代コンピュータプロジェクトで開発したパーソナル型逐次推論マシンPSIを1986年にMELCOM PSIとして製品化したが、1987年には性能が3倍でデスクサイド型のPSI IIを発表した。

5) ソニー(NEWS)
1987年1月、ソニーは、エンジニアリング・ワークステーションNEWS「NWS-800シリーズ」を発売した(発表は前年10月)。16~25MHzで動作する68020か68030を2基(1基はCPU、1基はI/Oプロセッサ)搭載していたが、パソコン並みの大きさで、従来のスーパー・ミニコンピューター以上の性能を、95万〜275万円という超低価格で実現した。OSはBSD Unix(1993年からはSystem V)。CPUは後にMIPS R3000やR4000に移行した。コストパフォーマンスの良さから、日本の大学や企業の研究者が、設計や編集、ソフトウェア開発のために利用する高性能コンピュータとして受け入れられた。国家プロジェクトである「シグマプロジェクト」(1985年発足)とほぼ同じ頃に開発を始めたが、それに先駆ける形となった。NEWSはNetworking Engineering WorkStationに由来する。

6) シャープ(X68000)
3月28日、シャープは16ビット・パーソナルコンピュータX68000を発売した。シャープは「パーソナルワークステーション」と呼んでいたようである。CPUはMotorola社のMC68000である。当時MotorolaのCPUを用いたPCはほとんど前例がなかった。

7) BUG (REDUCE on PC)
1977年に北海道大学OBを中心として創業したシステムハウスのBUG(1980年株式会社設立、現ビー・ユー・ジーDMG森精機株式会社)は、16bitのPC-9800上にLISPを搭載し、REDUCEを稼働させた。微分積分、ベクトル、行列、連立方程式、因数分解などをサポートする。価格は148000円。

8) 日本クレイ
1984年から日本フェアチャイルドの専務取締役であった堀義和が1987年日本クレイの代表取締役社長となった。日本シリコングラフィックスとの合併後、1997年4月、堀は社長を辞し、日本コダックの代表取締役社長となる。

 
   

9) FPS日本支社
筆者は昨年8月、オレゴン州BeavertonにあるFPS本社を訪問したが、フローティングポイントシステムズ日本支社ではT-seriesの日本への売り込みを図っていた。価格表を示す。モデル番号は八進法のようである。1024ノードで38億円である。筆者の知る限り日本国内では売れなかったと思う。

標準化

1) JTC 1発足
ISO(国際標準化機構)とIEC(国際電気標準会議)は、第一合同技術委員会(Joint Technical Committee 1)を1987年設立した。ISO/IEC JTC 1と呼ばれる。これ以前には、ISOとIECがそれぞれ独立にコンピュータや情報分野の標準化を扱い、一種の縄張り争いをおこしていたので、この状況を解消するため、両機関の間で話し合いが行われ、その結果JTC 1が成立した。第一回総会は1987年11月に東京で開催された。

2) FDDI
1982年頃から検討されていたLAN標準であるFDDI (Fiber Distributed Data Interface)がアメリカ規格協会(ANSI X3T9.5)で規格化され、その後ISOでも採用された。これは光ファイバを用いて100 Mb/sの転送速度を実現するもので、4 bitsの信号を5 bitsに符号化 (4b/5b符号) する。基幹網などに利用された。Ethernetに比べて機器の価格が高かったので、Fast Ethernet (100 Mb/s, 1995)やGigabit Etherent (1998) の普及とともに使われなくなる。

3) PCF (Parallel Computing Forum)
この頃、FORTRANを拡張して、共有メモリ上でのthreadに基づく並列処理を記述しようという動きがいろいろあった。1987年、これを統一しようとしてParallel Computing Forum (PCF)が作られた。1991年7月にはPCF Parallel Fortran Extentionが定義される。この成果の多くはOpenMPに引き継がれた。

4) Ada
Ada言語は1983年にMIL規格として制定されたが、1987年にISO標準 ISO/IEC 8652:1987 として標準化された。

5) Perl言語
Unisys社のプログラマであったLarry Wallはプログラミング言語を開発し、1987年12月18日にUnix newsgroupのcomp.sources.miscにPerl version 1.0を公開した。

ネットワーク

1) BITNET II
インターネットの普及によりBITNETは劣勢になってきたが、1987年、TCP/IP上でBITNETを稼働させるBITNET IIというプロトコルが開発され、インターネットと共存するようになった。1991年~92年には、BITNETのノードは、49か国1400カ所となり、最盛期を迎える。

性能評価

1) Perfect Club Benchmark
6月の第1回ICS会議において、David KuckとAhmed Sameh (Illinois Univ.)は、”A Supercomputing Performance Evaluation Plan”という講演でPerfect Benchmarkを提案した。これは短いカーネルではなく、13種類の実用規模のプログラムから構成されている。文書としては、International Journal of Supercomputer Applications and High Performance Engineering (MIT Press)(後のInternational Journal of High Performance Computing Applications)のVol. 3 (1989) 5-40に“The Perfect Club Benchmarks: Effective Performance Evaluation of Supercomputers”として発表されている。

その後、これを改良したPerfect Club 2が提案されている。

2) Gordon Bell賞
1985年にAlan H. Karp (IBM)は実用計算で200倍の加速率を初めて出した者に$100を授与するというKarp Challengeを公開したが、この賞金は誰かが取得したようである(要確認)。

 
   

Digital Equipmentの技術者としてVAXなどの開発を統括し、Encore Computer社の創立者、Ardent Computerのチーフアーキテクトなどを経て、NSFのAssisitant Directorなどを歴任したC. Gordon Bellは、1987年、ポケットマネー$1000/年を拠出して、Gordon Bell Prizeを設立した。Alan Karpはその審査員の一人となった。写真は、SC17におけるAlan KarpとGordon Bell(SC20でのスクリーンショット)。最初の受賞者はSNLのグループで、1024ノードのnCUBEを用いた計算である(このほか、3グループがHonorable Mentionを得ている)。賞の種類は年によって違うが、この頃は大体、Peak Performance, Price/Performance, Special Achievementの3種であった。現在はスーパーコンピューティング会議(SCxy)の主要イベントとして行われているが、最初はSCxyとは無関係に授与された。1992年からは、SCxyに特別なセッションが設けられ、そこで最終候補のプレゼンが行われ、それを聞いた上で審査を行い、受賞者が決定される形となる。年によっては、受賞者の発表と受賞者のプレゼンだけの場合もある。賞金は、1999年から$5000に増額される。

さらに2013年からは、ACMの賞一般のルールに厳密に従い、1種類の賞となり、Honorable Mentionもなくなる。そのかわり、論文審査でfinalists(最終候補)に入ることが、一種の準入賞とみなされるようになる。「スーパーコンピュータのノーベル賞」と間違って紹介されることがあるが、基本的に最近1年間の成果を表彰するものであり、ノーベル賞とは性格が異なる。敢えて例えれば映画のアカデミー賞最優秀賞であろう。第1回の受賞者は以下の通り。

General Purpose Computer
First Place: Robert Benner, John Gustafson, Gary Montry, Sandia National Laboratories; “Beam Stress Analysis, Surface Wave Simulation, Unstable fluid flow model,” 400 – 600 speedup on a 1,024 node N-CUBE

Honorable Mention: Robert Chervin, NCAR; “Global Ocean Model,” 450 Mflops on a Cray X/MP48

Honorable Mention: Marina Chen, Yale University; Erik Benedictus, Bell Labs; Geoffrey Fox, Caltech; Jingke Li, Yale University; David Walker, Caltech; “QCD and Circuit Simulation,” Speedups ranging from 39-458 on three applications run on CM hypercubes

Honorable Mention: Stavros Zenios, University of Pennsylvania; “Nonlinear network optimization,” 1.5 sec. Execution time on a Connection Machine

 

目的はHPC分野の推進と言われているが、Karp Challengeと同様、創始者としては超並列コンピュータが本当に科学技術分野で実用になるかという挑戦的な問いかけではなかったかと思われる。受賞者が使用したコンピュータも、Cray X-MPやY-MPなど初期のわずかな例外を除いて、超並列コンピュータである。

3) Columbia University
コロンビア大学の格子ゲージ専用計算機の2号機(64ノード、ピーク1 GFlops)は1987年完成し、Science誌の表紙を飾った。

アメリカ政府関係の動き

1) National Computing Initiative
アメリカのSIAM(米国応用数理学会)のPanel on Research Issues in Large-Scale Computational Science and Engineering(37人)は、1987年2月3日~4日にバージニア州Leesburgで開催され、”A National Computing Initiative”を発表した。これは1982年のLax Reportに続く重要な文書であり、進んだコンピュータ技術を用いて”Grand Challenge problems”の解決に向かう重要性が述べられている。パネルは$1.5Bの予算で5年間のNational Computing Initiativeを開始し、並列アーキテクチャ、半導体回路、光回路などの研究とともにHPCを確立すべきと主張している。とくに、「日本はすでにスーパーコンピュータの製造について大きな発展を実現している。スーパーコンピュータの利用は、日本、英国、西ドイツ、フランスなどの産官学において進められており、アメリカはかつての指導的地位を取り戻さなくてはならない。」と述べている。

日米スーパーコンピュータ摩擦

1985年のNCARでの日本製スーパーコンピュータ導入キャンセル事件に続いて、1987年にも似た事件が起こった。1986年のところに書いたように、1986年12月10日、アメリカ通商代表部は、日本製スーパーコンピュータの対米輸出について、通商法に基づいて調査すると発表している。日経コンピュータ1988年2月29日号の記事などを基に見てみたい。

1) MIT事件
MITは、スーパーコンピュータの入札を行い、富士通(VP-200)、日本電気(SX-2)、Cray、CDC等が応札した。日本電気(正確にはHNSX、1986年10月に日本電気とHoneywell社の均等出資により設立)が落札し、5年リースで950万ドルという条件で契約寸前まで行った。しかしそのとき、米国商務省ブルース・スマート長官代理が、MITのポール・グレイ学長に対して書状を送り、婉曲に脅しをかけてきた。「私は外国製のスーパーコンピュータの購入に対し、異議をもっていないことをお知らせします。しかしながら、輸入製品は米国のダンピング防止法による関税措置の対象になり得ることをご承知おきいただきたい。」HNSX社は事情を察して直ちに競争から手を引いた。

イリノイ大学NCSAのLarry Smarr所長はこう述べている、「もし米国政府がMITを止めたのなら、もうだれも日本製のマシンを導入しなくなるだろう。MITがあまりにもふがいないので驚いた。彼らは圧力に屈服したのだ。MIT事件による冷却効果は、我が国にとって非常にマイナスになる。MITの行動は5~6年先まで影響を及ぼすだろう。このことにより、米国が世界から完全に遅れを取るようになるかもしれない。」「人々は波風を立てないように行動するだろうし、日本製のマシンを公平に考慮しなくなるだろう。SX-2は非常に優れたマシンだけに、これは本当に困ったことだ。」「こうした米国の行動は、経済的に勝つことにはつながらない。我々は地球規模の経済共同体の中で暮らしている。そこで勝つためには最高の頭脳に最高技術のツールを持つことが必要なのだ。」「これは、米国が自分の足を撃ってしまったという最新の例に過ぎない。しかしもう足の数もあまり残っていない。」

UCSB (University of California at Santa Barbara)物理学科のRobert Sugar教授もこう批判している。「政府はMITの件で、非常に悪い規範を作り上げてしまった。外国企業との競争から保護しようとする政府のやり方は米国コンピュータ産業にとって良いこととは思わない。外国企業との競争があった方が、米国のコンピュータメーカが刺激を受け、一層努力するようになる。そうなれば、より良い製品をより安く手に入れられるので、我々科学者にとっては結構なことだ。しかし、ユーザの選択肢が減れば、必ずメーカは努力を惜しむようになる。」「現在、スーパーコンピュータの需要は急上昇し、供給は急降下している。しかし、各大学のユーザは、SX-2が世界最高速のシングル・プロセッサ・マシンとして一般に認められているにもかかわらず、HNSX社にサヨナラのキスを送ることにもなりかねない。そして、アムダ―ルやNAS社も、あきらめずに店を開けていたとしても、そのうちに店じまいしてしまうかもしれない。」

2) BYU事件
同じ頃、Brigham Young大学(ユタ州)も、言語学科の研究で使うスーパーコンピュータについて、NHSXとCray Researchの2社との間で商談を進めていたが、87年10月に大学は両社を選考対象から除外した。Evans and Sutherland社のグラフィックコンピュータに関心が移ったためだと広報担当者は説明するが、大学の上層部に対して政治的圧力が及んだとの報道がなされている。

3) 導入手続き
アメリカは、スーパーコンピュータをめぐる交渉の場において、日本の政府関係機関や国立大学が国産品優遇政策を採用しており、米国企業を排除するため、大幅な値引きを行っていると主張した。日本側では、1987年7月に第10回アクションプログラム実行委員会が開催され、「スーパーコンピュータ導入手続き」が決定された。導入手続きは、各調達期間がその導入目的に最も合致したスーパーコンピュータを導入できるよう定められたものであり、透明、公開、かつ無差別の競争的手続きを設けている。

4) 訪日視察団
米国商務省は、1986年8月に締結したスーパーコンピュータ協定の効果を調査するためということで、1987年6月28日、スーパーコンピュータメーカ等13社からなる大型貿易使節団を日本に送り込んだ。30日には、都内(たしか私学会館、現在のアルカディア市ヶ谷)において、スーパーコンピュータセミナーを開催し、国内の需要家に対してアメリカのコンピュータメーカが自社の製品を展示し、その特徴などを説明した。参加企業は、CDC、Cray Research、FPS、DEC、Apolloなど11社であった。筆者も参加し、ここでETA 10の積層ボードを初めて見た。44層という厚いボードであったが、これを液体窒素に浸けて大丈夫かと心配になった。Ledbetterによると、この44層のプリント基板を常温の状態から液体窒素に漬ける技術を開発したとのことである。ただし2-3日掛かるので、ボードを修理するのは往復で1週間掛かりと思われる。

貿易開発担当のジョアン・マックエンティ副補佐官は、「我々はあの協定が張り子のトラにならないよう念を押したかっただけである。例のMIT事件と今回の視察団は無関係だ」とわざわざコメントした。

5) 東京工業大学
東京工業大学は、1987年9月22日、日本の国公立機関では初めてETA 10の導入を決めた。販売担当は日本CDC社。システムの価格は27億円、補正予算による導入であった。一応公開入札の手続きが取られていたものの、「OSはUnixに限るなど」実質的に「国内勢は門前払い」であり、米企業優遇措置だとの批判があった。もちろん当事者側は、「こちらとして必要な条件を並べただけで、国内勢外しの意図はない」という公式の見解を表明した。「仕様書を見て、日本メーカを外したいという苦心のほどがよくうかがえました」と外資系のスーパーコンピュータメーカの営業幹部は語った(朝日新聞1987年9月25日号)。

同新聞の記事によると、東京工業大学のセンターのこれまでの年間予算は2億円と少なかったが、この案件に手を上げることにより、膨大な補正予算が認められた。まさに「棚からぼた餅」であった。

9月7日に入札を締め切ったが、日本勢はすべて応札を見送り、米国のCray社とETA社の2社だけが応札した。

6) 工業技術院
同じく補正予算のついた工業技術院情報計算センター(つくば市)に導入するスーパーコンピュータの入札が1987年9月28日締め切りとなり、日本クレイ1社が応札した。これで事実上Cray Research社製に決定した。仕様書には「中央演算処理装置が並列動作できるものに限る」という条件をつけたので、国産メーカは応札できなかった。購入価格はハード20億円、ソフト10億円といわれる。導入は翌年3月。

7) 日米半導体摩擦
1985年から続いている日米半導体摩擦では、1987年2月21日、アメリカ上院は日本が半導体日米協定を破っているとして、通商法301条による大統領に報復措置を要求する決議案を可決した。制裁の直前に日米緊急協議が開かれ、米側は日本の努力が足りず、1986年9月2日のサイドレターに明記された20%にほど遠いと主張、日本側は、20%は(達成を約束した)数値目標でなく制裁は不当と訴え、決裂した。1987年4月17日、アメリカ政府は日本からの「カラーテレビ、パソコン、電動工具」に対し、一律100%の報復関税をかけると発表した。日本政府は関税貿易一般協定(GATT)に訴えた。事態が緊迫する中で4月30日から開かれた日米首脳会談でも決着しなかった。6月に、レーガン大統領が報復措置を一部解除し、11月にはダンピングの改善を理由に解除品目を拡大した。1991年になって、日米両政府は新しい協定を結び、アメリカ政府は制裁を中断した。

この後、日本ではパソコン事業が総合電機メーカの一事業にすぎなかったため設備投資の意思決定が遅れ、パソコン市場の拡大に乗り遅れた。また、日米半導体協定による高値安定に安住して競争力をそがれ、メモリは韓国サムスン電子にシェアを奪われた。水平分業への対応が遅れ、半導体製造は台湾のTSMCが主導権を握る。結局、日本はアメリカの規制がかからない素材や製造装置に資源を集中することになる。日本には、信越化学工業やSUMCOなど半導体素材の主要企業があり、世界市場的な競争力を持っている。また、半導体製造装置でも東京エレクトロンなどが存在感を持つ。

8) 三好甫氏の懸念
日米スーパーコンピュータ協議に1987年から参加していた航空宇宙技術研究所の三好甫もこの問題に大きな関心を抱き、当時のビジネス界の取材に「スパコン摩擦を巡る米国の動きは、スパコン技術でリーダーシップを保持したいという技術覇権主義の押しつけである。」と語っている(『地球シミュレータ開発史』p.18)。

9) 「週刊宝石」の特集
『週刊宝石』は芸能系の週刊誌であるが、1987年10月2日号には「ビジネスマン最先端講座267」として、『日米スーパーコンピュータ戦争』という記事を6ページにわたって掲載した。「スーパーコンは強いアメリカの象徴であり、今やスーパーコンなしではノーベル賞は難しいし、今や、日本メーカー3社、アメリカ2社、それにIBMの争いとなった」と述べている。「自動車くらいだったら、日本だろうが、NICSだろうが、黄色人種がつくってもよい。ところが、コンピュータのように精密なもの。しかも、そのトップクラスのスーパーコンピュータで負けることは、文明のリーダーシップが損なわれる。白人社会の崩壊につながる。大げさでも何でもなく、そのくらいの心配をマジで感じている。だからこそ、日本に負けないための策略を次々と打ち出しているんです。」という唐木幸比古教授(専修大学)のコメントを載せている。ちなみに、NICSとは1980年代の用語で、アジアを中心としたNewly Industrializing Countries(新興工業国)のことである。

 

ヨーロッパの政府関係の動き

1) Forschungszentrum Jülich (HLRZ, JSC)
1956年11月11日に西ドイツのNorth Rhine-Westphalia州の研究所として発足し、1967年にはKernforschungsanlage Jülich GmbH (Nuclear Research Centre Jülich)となった。1987年、Höchstleistungsrechenzentrums (HLRZ、高性能計算センター)が、DESYとGMDとKFA (Kernforschungsanlage Jülich)という3つの研究センターによりJülichにおいて設立され、最初のコンピュータとして、1987年4月にCray X-MP/48がHLRZのために設置された。1989年7月以来、KFAはHLRZのためにCray Y-MP/832を運用している。このCray Y-MP/832の計算時間は、研究プロジェクトのために無償で提供された。

Kernforschungsanlage Jülich GmbHは、1990年、Forschungszentrum Jülich GmbHと名称変更し、1993年にセンターの中に正式にJülich Supercomputing Centre (JSC)ができる。

HLRZの機能は、1997年、The John von Neumann Institute for Computing (NIC)という組織に継承される。NICのスーパーコンピュータは、JSCが運転している。

ETA 10の1号機がフロリダ大学に納入される。TMC社がCM-2を、Sun Microsystems社がSun-4を、Intel社がiPSC/2を、Inmos社がT800を発売する。ベンチャーとしてはMasParやTeraが設立される。

 

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