世界のスーパーコンピュータとそれを動かす人々


5月 30, 2022

新HPCの歩み(第94回)-1990年(b)-

小柳 義夫 (高度情報科学技術研究機構)

計算流体力学研究所に最初のスーパーコンピュータFACOM VP-200が設置され、同所は時間貸しとコンサルティングを始めた。富士通研究所はCAP-IIを開発した。これが後のAP1000などに発展する。Supercomputing Japan 90が池袋サンシャインで開催される。

国内会議

1) 統計数理研究所
2月1日~2日に統計数理研究所で「統計パッケージのユーザインタフェース」という研究会があり、筆者は「SALSのユーザインタフェース」という講演を行った。

2) Supercomputing Japan 90
アメリカのSupercomputing会議をまねて表記の会議が、1990年3月27日~29日に池袋サンシャインで開催された。企業展示が主で、講演は招待講演のみのsingle sessionであった(同時通訳付き)。主催はGerald Parkerという人が社長のMeridian Pacific Groupという小さな会社(カリフォルニア州、Mill Valley市、SFO空港のすぐそば)で、日本側事務局はスペースメディアジャパンというイベント会社。参加費8万円と高かったので参加するつもりはなかったが、主催者から28日のモデレータ(司会者)を依頼されたので、出席し一日司会を務めた。会議の参加者は200人ほどであったが、展示(出展者の招待もしくは参加費2000円)には4000人も来ていた。この会議の展示を中心としたKahanerのレポートが、展示会場の雰囲気をよく伝えている。

ETA Systemsの最後の責任者Ledbetterが講演したので、座長として「日本では東工大がETA10を買って、往生したが、日本のユーザへのメッセージはないか」と質問した。「これは、アメリカの短視眼的な市場原理の犠牲になったのだ。(並列化)コンパイラもあとちょっとでできるところだった。」とか弁解していた。

この会議シリーズは、全部で3回開催されたが、4回目は1年延期の上、中止され、主催会社はつぶれたと聞いている。縁起のいい名前(meridian、子午線)なので、似た名前の会社はあるようだが。

3) HAS研
HAS研(Hitachiアカデミックシステム研究会)は1990年3月27日、「今後のシステムへの動向とメーカーへの期待」と題して第1回シンポジウムを開催した。

1990年7月24日には、第3回研究会を開催した。プログラムは以下の通り。

第1部 情報処理教育分科会、WS&ソフトウェア分科会の報告

情報処理教育

文理情報短期大学 鷹野 邦人

ワークステーション&ソフトウェア

帝京技術科学大学 神沼 靖子

今後の研究会のありかた

横浜国立大学 有澤 博

第2部 製品紹介及びディスカッション

・オープンネットワークBN100
・OSF
・VOS3/AS

 

 

4) JSPP 90
第2回目のJSPP 90は、5月17日~19日、つくば市の工技院共用講堂を会場として開かれた。筆者も参加した。情報処理学会のDB、ARC、OS、NA、PRO、ALG各研究会の共催。参加費は、正会員15000円、非会員20000円、学生5000円、論文集のみ4500円。特別セッションとして、「21世紀を目指した並列処理――超並列は可能か? 有効か?」「並列処理が直面する課題――正しい並列処理プログラムはどうしたら書けるか? 動かせるか?」を企画した。

5) 数値解析シンポジウム
第19回数値解析シンポジウムは、1990年6月12日(火)~14日(木)に、千葉県国民宿舎鹿野山センターで開催された。参加者89名。筆者も参加した。

6) SWoPP 90
3回目のSWoPPは、「1990年並列処理に関する『琉球』サマー・ワークショップ(SWoPP 琉球’90)」と題して、1990 年7 月18 日(水)-20 日(金) に、沖縄残波岬ロイヤルホテル(沖縄県)で開かれた。発表件数94、参加者数190であった。この回では、電子情報通信学会コンピュータシステム研究会と情報処理学会計算機アーキテクチャ研究会が共催している。筆者はまだ参加していない。

7) 日ソ流体力学シンポジウム
経緯は忘れたが、1990年8月28日に日ソ流体力学シンポジウムが筑波大学で開催され、講演を依頼されたので”QCDPAX, Dedicated computer for Lattice Gauge Theory”という講演を行った。ソ連の参加者から、「君たちはマシンを持っている、我々はアイデアがある。俺たちにも使わせろ。」と言い寄られたが、面倒なことになりそうだったので丁重にお断りした。

8) ISR
リクルートISRは、1990年2月、旧所在地のリクルートビルから500mほど北西の、勝鬨橋東詰めのイヌイビル・カチドキ15階(勝どき1-13-1)に移転し、1990年3月16日にはOpening Partyが開かれた。新しいオフィスでは、多くのセミナーが開催された。

3月22日

FORGEやMIMDizerについて

John Levesque (Pacific-Sierra Research)

3月30日

最近の性能評価の成果について

Jack Dongarra (Univ. of Tennessee)

4月20日

PAX, QCDPAXについて、とくに自然解法と近接メッシュ通信の関係について

川合敏雄(慶応義塾大学)

5月11日

大規模アプリケーションの最適化など

David Slowinski (Cray Research)

 

また、8月29日~31日には箱根観光ホテルで第4回ISRワークショップが開催された。プログラムは以下の通り(順不同)。講演の一部は日本語で行われた。

並列計算機上での偏微分方程式の解法

阿部譲司(ISR)

重力多体問題専用計算機の開発

戎崎俊一(東京大学教養学部)

QCDPAXにおける格子QCDの並列シミュレーション

小柳義夫(筑波大学電子情報)

スーパーコンピュータが可能とする偏微分方程式の標準解法

川合敏雄(慶応義塾大学理工)

Project Grape

杉本大一郎(東京大学教養学部)

A Design of Practical Language DFCII and its Data Structure

関口智嗣(電総研)

Coral Computerによる自動配線

高橋義造(徳島大学)

Tokyo Ising Spin Computer

伊藤伸恭(東京大学)

NEC SX-3

Akihiro Iwaya (NEC)

High Speed Parallel Processor

Shin Hashimoto (Fujitsu)

Hierarchical Algorithms

Tony F. Chan (UCLA)

Interactive Tools for functional and Data Decomposition: Creating Parallel Programs from Scratch, Transforming Existing Fortran Programs to Parallel

J. Levesque (Pacific Sierra)

 

Resource Management in Dataflow: A Case Study Using Two Numerical Applications

O. Lubeck (LANL)

The road to Network Supercomputing

R. Mendez (ISR)

パネルディスカッション“The Future and Evolution of Scientific Computing”

パネリスト

  Genki Yagawa (Univ. of Tokyo)

  Katsunobu Nishihara (Osaka Univ.)

  Shigeo Kida (Kyoto Univ.)

  Daiichiro Sugimoto (Univ. of Tokyo)

  O. Lubech (LANL)

  J. Levesque (Pacific Sierra)

  Tony F. Chan (UCLA)

  Yoshio Oyanagi (Univ. of Tsukuba)

 

9) 数理解析研究所
京都大学数理解析研究所の研究集会「数値解析と科学計算」は、名取亮(筑波大学)を代表者として、1990年11月20日~22日に開催された。第22回目である。報告書は講究録No. 746に収録されている。コンピュータシステム寄りの発表はごく一部で、他は数理的な研究である。

インターネット(JCRNの発足)

日本のインターネット関係では1990年に重要な動きがあった。現在、“.jp”をトップドメインとするドメイン名は株式会社日本レジストリサービスで登録管理されているが、2000年以前はJPNIC(日本ネットワークインフォメーションセンター)が行っていた。そのJPNICがどのように出来たか、という物語である。どういうわけか、筆者もいろいろ係わっている。

1) 情報処理学会30周年記念事業
情報処理学会は1990年に創立30周年を迎えることになったが、記念事業の一つとして、情報処理学会を中心に研究ネットワークの相互接続を整備しようという構想があった。当時、多くの全国的学術ネットワークといくつかの地域ネットワークが乱立しており、必ずしも連携がうまくいっているわけではなかった。

1989年から、当時の野口正一副会長を中心に、企業からの協力を得て、64 kb/sの(Mb/sではない)バックボーンのネットワークを構築し、相互の調整を行う計画を進めた。しかし、種々の検討の結果、独自のネットワークを物理的に構築するのではなく、研究ネットワーク推進のための連絡・調整機関の設置への方向転換し、各ネットワーク組織、各社の研究機関、および多数の学会に呼びかけて連合体を組織することにした。

2) 準備会
多くの学会からの回答を得て、1990年4月2日に、東京大学大型計算機センターで、第1回備会が開かれ、約30名(17学会、ネットワーク、その他)が出席した。精密工学会では学会自体で中型計算機を持ち、ネットワーク(パソコン通信のようなものか?)を運営していること、ソフトウェア科学会では査読をEmailでやりとりしていることなどが報告された。筆者は、物理学会の代表として出席し、高エネルギー物理では、bitnetやhepnetなどのネットワークが活用されていることを話した。

この構想が流れ始めた頃、JUNETやWIDE関係の若手などから、「われわれがこれまでがんばってきた成果を、大人が横取りするのではないか?」という疑問がわき上がり、激怒した面々もいたようである。これは結果的に誤解であった。

引き続き6月1日に第2回準備会が開かれ、「研究ネットワーク連合委員会(仮称)」の構想について議論を進めた。7月16日の第3回準備会では、各学会に送る趣意書について議論した。

当時、インターネットの資源の重要性は、政府のどの省も気づいていず、政府が動き出す前に自分たちで管理組織を作ってしまおうということであった。政府が動き出すと、文部省、郵政省、通産省、科学技術庁(いずれも当時)などの縄張り争いとなってしまい、世界の中で遅れてしまうという危惧を抱いていた。そのためには、商用ネットワークはひとまず置いて、学会を中心に管理組織を作ることが、政府からの魔の手に対する有効な防壁になるだろうと考えた。

3) JCRN発足
研究ネットワーク連合委員会(Japan Committee for Research Networks、本当はJointなのであるが、対外的な明確化を考えて、英語名ではJapanとした)の発会式ともいうべき第1回総会は1990年10月16日に機械振興会館で開かれ、目的、加盟組織と性格、役員、幹事会、技術部会などについて決定した。委員長に野口正一、副委員長には石田晴久と池田克夫を指名した。

4) その後
第2回総会(機械振興会館)は、12月21日に開催され、規約を決定した。1991年4月5日の第3回総会(機械振興会館)において、技術部会で、ドメイン割り当て、アドレス割り当て、国際接続の方針、国内相互接続の方針、国内ネットワーク情報の蓄積とサービス等について検討するという方針が了承され、技術部会は村井純主査のもと8月末まで精力的に議論を進めた。筆者も技術部会に加わった。

ネットワーク情報の管理のための予算を考えると、少なくとも初期投資300万円、年間経費300万円が必要であるが、どこからそんな大金が出て来るのか、村井主査を中心に思案したことを昨日のように思い出す。

このような作業を経て、ネットワークインフォメーションセンターをJCRNの下部機関として設置する構想が進められた。JCRNは、1991年12月に、各ネットワーク団体の協力のもとに、JNICを発足させる。従来、JUNET-adminが行なっていたドメイン名の割当を引き継ぎ、翌年6月からは、IPアドレスの割当と管理をネットワークアドレス調整委員会から引き継いだ。その後、JNICをJCRNから独立性をもった機関として運営する方向に議論が進み、日本ネットワークインフォメーションセンター(JPNIC)は、1993年4月9日(金)に第1回総会を開いて独立組織として発足し、1996年法人化に到った。詳細は、「JNIC発足前の資源管理とJPNICの設立」参照。

日本の企業の動き

1) 富士通(CAP-II、VP2000、M-1800)
富士通研究所は、この頃SPARCベースの超並列コンピュータCAP-IIを開発した。1984年に開発したCAPのノードはIntel 80186+8087であったが、CAP-IIのノードはSPARC (25MHz)で、主記憶は16 MB。最大1024プロセッサまで拡張でき、その場合のピーク性能は12.5 GFlopsであった。この前に、1988年頃、CGや画像処理などを目的にCAP-256(最大性能16 MFlops)を開発していたようであるが、詳細は不明である。日経産業新聞1990年6月19日号によると、富士通は1991年3月をめどに商品化するとしている。商用機AP1000が発表されるのは1992年10月である。

1988年12月に発表していたFUJITSU VP2000シリーズのうち、最上位機種VP2600のピーク性能を、1990年1月、従来の発表値4 GFlopsから5 GFlopsへと引き上げた。クロックが上げられたようである。VP2400以下は据え置き。このころ4並列の並列ベクトルコンピュータ(ピーク16 GFlops)を開発中という噂があったが、製品は出ず、次のベクトルはVPP500 (1992発表)となった。

9月4日、汎用機FUJITSU M-1800モデルグループを発表した。8 CPU密結合で主記憶最大2 GBである。この機種からFACOMという商標は使われなくなった。

2) 日本電気(ACOS 3600、3800、EWS)
1990年2月、ACOS 610/630の後継機として、大型機ACOS 3600を発売した。OSはACOS-4で、最大4プロセッサまで搭載可能である。

1990年7月4日、汎用コンピュータACOSシステム3800を発表した。最大6台のマルチプロセッサ構成が可能である。12月、SX-3を出荷した。

ワークステーションとしては、1990年5月、MIPS社のR3000と浮動小数プロセッサR3010 を搭載した、EWS4800/220 (30 MHz)と/260 (33 MHz)を発表した。OSはUNIX System V R4.0に準拠。

3) 日立製作所(M-880)
1990年6月6日、日立は汎用コンピュータM-880グループを発表した。4プロセッサ構成まで可能である。1チップ12,000ゲート、遅延時間70ピコ秒のECL LSIに加え、4MビットCMOS LSIを主記憶装置に採用。IAPはついていない。

4) 東芝(SPARC LT)
東芝は、1990年、世界初のRISC搭載laptop機SPARC LT/AS1000を発売した。CPUはSPARC 20 MHzを搭載し、OSはSunOSである。重さが7.9kgもあり、laptopとはいえ膝に乗せると拷問だという冗談が言われた。

 
   

5) アンリツ(DSV 6450)
筑波大学のQCDPAXを共同開発したアンリツは、QCDPAXを商用化したDSV 6450(最大16プロセッサ)を4月に販売した。4台売れたという記録があるが、そのうち一つは筑波大がQCDPAXのプログラム開発用に買ったものである(写真)。

6) 日本鋼管(PIAX)
日本鋼管は1983年にコンピュータ事業部を立ち上げ、LSI開発などを行っていた。PC-AT互換機にIntelのi860を4個付加したパーソナルスーパーコンピュータPIAXを1990年に発売した。流体解析や各種行列計算のための技術者用の専用コンピュータであった。このPIAXを利用した流体解析(NKKオリジナルのMT-FLOW)については、1991年6月のNKK技報に「パーソナルスーパーコンピュータと流体解析」という題で投稿されているそうである(facebookから)。

同社は自動制御のためのリアルタイム機の開発を構想し、1989年12月にConvex社と共同開発の契約を結んだ。これが1993年の超並列機Exemplar SPPの開発(1994年発売)へとつながって行く。

7) 松下電器産業(ADENA II、Solbourne、BTRON)
松下電器産業は、1984年から京都大学の野木達夫らとともに256プロセッサのADENA IIを開発した。1990年、これを商品化したADENA256を販売するとの報道があった。ピーク性能は2.6 GFlopsである。松下電器は1964年にコンピュータ事業から撤退したが、これによって再参入を果たすかと思われた。「汎用機も射程に」という報道もあった。また、1992年をめどに、25 GFlopsのCPU OHM256を発売する計画もあった。

Supercomputing Reviewの1990年10月号は、松下電器の確認が得られていないと断りながらも、同社が意欲的な製品を市場に投入する可能性を論じている。キーはソフトウェアであろうと指摘している。

これとの関係は不明だが、1990年2月、松下電器半導体研究センターは、アメリカのSolbourne Computer社(資本の52%は松下電器)と共同で、SPARC互換のRISC型64ビットマイクロプロセッサNM10501(コード名KAP)を開発したと発表した。CPU、FPU、MMU、ICU、DCU、BCUを1チップ化し、クロックは33/40 MHzである。0.8μCMOSプロセスで100万トランジスタを搭載している。10月には、これを搭載した64ビットワークステーションを発表した。

また、7月からBTRONを用いた教育用パソコンを売り出した。プロセッサはIntel社の80286である。コンピュータ事業部が機器を生産し、松下通信工業がシステム化を行う。

8) 三菱プレシジョン(MAGG)
この頃までに、三菱プレシジョンは、Z-buffer法による画像生成のための並列コンピュータMAGGを製作し、情報処理学会アーキテクチャ研究会(1990年10月12日)で発表している。これは、最大119個のtransputer T800を実装し、共有メモリ方式と、疎結合マルチプロセッサ方式を階層的に組み合わせたシステムである。商品にはしなかったようである。

9) シャープ(X68000)
シャープはMotorola社のCPUであるMC68000を使ったパソコンX68000を販売していたが、1990年5月にウィルス”NX68K IPL V1.02″が伝染することが報道された。これはFar Side Moonというゲームソフトに感染し、X68000のSRAMのバッテリー保持領域に潜んでいる。保護されていないフロッピーディスクからブートするとフロッピーが感染し、他のマシンに広がる。「いてこまし」(日コン連企画)など種々のワクチンが販売された。感染は1989年12月頃から始まっていたと言われる。

10) 日本IBM(IBM DOS/V)
1990年10月、日本IBMはPS/55シリーズでIBM DOS version J4.0/Vを発表し、日本語表示をソフトのみで実現した。PC/AT互換機上で稼動した。翌1991年にはマイクロソフトの日本法人も発表する。

11) 計算流体力学研究所
前に述べたように、宇宙科学研究所に所属していた桑原邦郎は、親の遺産を活用して、1985年11月に目黒の自宅で(株)計算流体力学研究所を創立した。1987年5月に最初のスーパーコンピュータFACOM VP-200を設置した。その後、富士通のVP2600、日本電気SX-2、日立S-820(3台)など最大7台のスーパーコンピュータを保有し、スーパーコンピュータの時間貸しとコンサルティングを行う。多くの若手研究者がたむろしており、梁山泊の様相を呈していた。

その一人が筆者の筑波大学での博士課程学生の張紹良氏(中国吉林大学出身)で、1990年3月、無事博士号を取得し、筆者が推薦して計算流体力学研究所の研究員となった。その後、名古屋大学、筑波大学、東京大学を経て、2005年から名古屋大学大学院工学研究科計算理工学専攻教授。

12) 任天堂(スーパーファミコン)
任天堂は、11月21日スーパーファミコンを発売した。CPUは16bitのカスタムCPUの5A22で、WDCの5C816互換である。

次回の話題は日米コンピュータ摩擦、ブッュ米大統領は、海部首相に、スーパーコンピュータや半導体などについて、一応低姿勢に助太刀を要請する。CERNのTim Berners-Leeは、”WorldWideWeb”を提案した。ヨーロッパでもスーパーコンピュータ開発の動きが始まる。

 

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