新HPCの歩み(第108回)-1992年(e)-
SC92の基調講演でLarry Smarrは、「スーパーコンピュータは人類を救う」と高らかに宣言した。Steve Chenは、製品開発におけるスーパーコンピュータによるvirtual prototypingの重要性を力説したが、彼のつくったSSI社はほどなく倒産する。CrayのChippewa Falls工場は色々な意味で印象深かった。 |
SC92
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1) 初めに
第5回Supercomputing会議は、11月16日から20日、Minneapolisで”Voyage and Discovery”というタイトルの下に開かれた。奇しくもこの年は1492年のコロンブスの新大陸到着(10月12日)の500周年であった(あえて「発見」とは言わない)。全参加者4636人、technical registrationは1805人、展示は82件。筆者は、11月初めに顔の右側のの帯状疱疹(ヘルペス)にかかり、3日ほど寝ていたが、当時かなり強力な抗ウィルス剤ができており、早期に発見し早期に回復してSC92に参加することができた。Minneapolisはかなり寒く、11月中旬だというのに、最高気温が0℃前後の日が多かった。時々雪もちらついていた。「大したことない」と強がりを言っていたら、「顔が凍傷になるよ」と脅かされた。街の中心部では、Skywalkという完全にシールドされた歩行通路が、2階の高さで続いていた。これを使ってホテルから会場まで全然寒気に触れることなく行くことができた。初めて会議録がCD-ROMでも受け取れるようになった。
2) 会議の流れ
会議としては、ますますお祭りの性格が強まりつつある。原著講演の比重がますます薄くなり、招待講演、ワークショップ、シンポジウム、そしてロビーやパーティに人気が移っている。Technical Session(原著講演)は入りが悪く、十数人のことさえあった。一つにはプロシーディングスが余りに立派で、原著講演は読めば分かるが、ワークショップやシンポジウムはその場にいないと分からない、ということもあるのだろうか。
3) Clinton-Gore政権
何人かのアメリカ人に、「日本ではクリントンの勝利をどのように受け止めているか」と質問された。「興味は持っているが対岸の火事で、日本にどのように影響するかは未知数だ。」と一応答えておいた。なぜそんなことを聞くのかと思ったら、「クリントンはどうでもよいが、ゴアが副大統領に選ばれたのはうれしい。」と。かれは、HPCCI (High Performance Computing and Communication Initiative) の提案者(推進者)の一人である。
4) 論文
SC92では、220件の論文が投稿され、査読により75件が採択された。採択率34%であった。日本からの採択論文は以下の1件だけのようである。これはCP-PACSのプロセッサのSlide Windowによるソフトウェア・パイプラインに関する論文である。
Kisaburo Nakazawa, Hiroshi Nakamura, Hiromitsu Imori, Shun Kawabe |
Pseudo Vector Processor Based on Register-Windowed Superscalar Pipeline |
電子版の会議録は、IEEE Xploreに収録されている。
5) NAS Parallel Benchmark
Technical ProgramのPerformance Evaluationのセッションは、大入り満員で立ち見も出るという状態だったそうである。NAS Parallel Benchmarkの数値結果が発表されたからであろう。
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6) 展示
今回初めて展示の開会式(Gala Opening)が行われ、お祭り騒ぎを行った。(写真は、ミネソタ州で有名なViking Helmetをかぶり、船らしきものに乗って開会式のあいさつをするBill Buzbee組織委員長。SCXY Photo Archiveより)コンピュータの歴史の展示もあった。まぼろしのCDC8600の外形が、Cray-1とそっくりだった(ただしスカートが15cmくらいの高さで腰掛けにはなっていない)のが印象的だった。また今回、展示の一角にかなりの面積を取って暗室CAVE (Computer-Assisted Visual Environment) をつくり、virtual reality を体験させていた。
企業展示では、だいぶ傾向が変わりつつある。日本のSupercomputing Japan(次年も4月に横浜で開催される予定であった)より面積は少ないが、活気はなかなかのものであった。富士通がVPP-500を掲げて(たぶん初めて)登場した。出展区画番号も500番をとるなど芸が細かかった。そのほか、SC92を目指して発表したものでは、CrayのMPP(通称T3D)、Meiko の CS-2、MasPar のMP-2など。高速ネットワークや、mass storage も目立った。
新しい超並列コンピュータが注目を集めていた。とくにCray社はT3Dという汎用チップのAlphaを搭載した超並列機を発表した。しかし、Thorndike 氏(CDC社の技術者で、ETA社の初代社長、当時はDataMax社のCEO)の個人的な発言が何人かの話題になっていた。彼によれば、「MPPは最後には実装技術の勝負だ。とくに、汎用チップで作る場合にはそれ以外では差がつかない。テラフロップスのMPPを最初に作るのはIBMではないか。」この予言は外れたが、実装技術に携わって来た彼の一流の見方であろう。
ちなみに、Thorndikeは1992年3月4日~14日に来日し、日本のスーパーコンピュータ各社の実装技術を調査して回った(Kahanerの報告package.scによる)。氏は日本の実装技術はアメリカに比べて遅れているのではないかと予想していたが、日本の3社はIBM社の工場に匹敵する高度な実装技術を保有していることを見分し驚いたと述べている。特に、アメリカとは異なり、垂直統合が実現していることを強調している。現在からみれば、それが弱点になったとも言えるが。
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7) 企業レセプション
またこのころから各社が顧客を集めるパーティが盛大に開かれるようになった。筆者は行かなかったがTMCはしゃれたレストランを借り切り、すばらしい料理とドイツビールや地ビールを提供していたそうである。筆者はIntelのパーティに行ったが、多くの人を集め、参加者は例のViking Helmetを被って酒を飲んでいた。筆者もその時のヘルメットを記念品として持っている(写真)。筆者は行かなかったが、その後Princess Clubでの豪勢な二次会付きのパーティを行ったそうである。「だからスパコンは高いんだ」などという「つぶやき」(もちろんTwitterではなく、ネットニュースで)も聞かれた。
8) Educational Program
筆者は気づかなかったが、この回からK-12プログラム(幼稚園から高校まで)が始まっている。
9) 基調講演
17日(火)にはLarry Smarrによる基調講演”Grand Challenges! Voyage of Discovery in the 1990’s”が行われた。前に述べたように、1983年のBlack Proposalの首謀者の一人である。Smarrは、アメリカの大学にスーパーコンピュータ設置の必要性を説いて回った一人で、Illinois大学(Urbana-Champaign)のNCSA (National Center for Supercomputing Applications) の所長を1985年から務めている。アメリカでは、原子力、軍事、宇宙などの国立研究所にはいち早くスーパーコンピュータが多数導入されたが、これらの研究所にコネのない一般の大学の研究者はスーパーコンピュータに触るチャンスがなかった。他方日本では、7大学の大型計算機センターや共同利用研究所に続々導入され、多くの大学の研究者がこれを駆使して成果を上げつつあった。Smarrはこのときスーパーコンピュータをアメリカの大学環境に導入すべきであると叫んだ重要人物の一人である。他には、Kenneth Wilson(当時Cornell大学、ノーベル物理学賞受賞者)、Feigenbaum(Stanford大学、日本の第五世代にもからむ)、故 Sidney Fernbach(元、LLNL)など。彼らは、「このままでは日本に負けてしまう」とNSFや議会などに強く働きかけた。彼らの運動によって、NSFのスーパーコンピュータセンターやNSFネットワークが整備された。この動きは、その後のHPCCにも受け継がれている。
彼の講演は、一口でいえば「スーパーコンピュータは人類を救う」というスローガンにまとめられる。これまでスーパーコンピュータ関連でなされたさまざまな成果を、きれいな画像で引用しつつ、このことを強く掲げた。一つ一つの話題はほとんど既知のものであるが、次から次へと見せつける説得力と高い調子はなかなかのものであった。振り返って当時の日本の状況を考えると、スーパーコンピュータはたくさん動いているが、これほど総合的に社会的意義を訴えられるキーパーソンはいないのではないか。層の薄さを痛感せざるを得ない。日本でもSmarrのような人がいたら、「二番ではだめなんでしょうか」などという不毛な議論はなかったのではないか。
10) 招待講演
招待講演の一つは、Steve Chen(陳世卿)(SSI、Supercomputer Systems Inc.)による、”Converging Parallel Worlds — An Architect’s Vision”であった。Chen氏は、かつてCray社の中心的な技術者であり、Lester Davisらとともに名機X-MP、Y-MPを設計した。しかしその次のMPの設計に当たって社の上層部と意見が合わず、スピンアウトして、SSI社をIBMからの資金援助を受けて創立した。このところしばらく沈黙していたので、彼の会社はつぶれるのではないかと危虞する向きもあった。久々の登場であったが、この講演では自社のコンピュータの話は一切せず、並列処理の社会全体に与えるインパクトを総合的に総括した。現在の言葉でいえばDigital Twinの概念を明確に述べた。アーキテクトとしての技術的内容を期待していた人は落胆したが、virtual prototyping をここまで明確に前面に押しだした議論はなかった、と評価する人もいる。講演後、面白い質疑応答があった。
Q: なぜ新しい会社を作ったのか。
A: My wife kicked me out!
Q: SSIはいつ機械を製造するのか?
A: Soon, very soon!
Q: IBMは独自にMPPを始めているようだが、あなたの会社を見限ったのではないか。
A: わたしはわたしのアーキテクチャをつくる。他の誰にも影響されない。
Q: それなら、あなたの機械のアーキテクチャを示せ。
A: それはしたくない。わたしの哲学を見てくれ。
噂では同社のIBMとの共同開発は1992年12月末で終了するとのことであった。結局SSI社は翌1993年1月26日には業務を終了し、最終的に破産することになる。
11) Gordon Bell賞
1987年から始まったGordon Bell賞は、以下の5件のfinalistsがMinisymposiumにおいてGordon Bell Prize Lecturesとして講演した。Gordon Bell賞のFinalistsの講演がSC会場で行われたことが確認できるのは、今回が最初である。
Tom Cwik (CalTech), Jean Patterson, David Scott |
Electromagnetic Scattering Calculations on the Intel Touchstone Delta |
Anton Gunzinger (ETH) et al. |
Achieving Super Computer Performance with a DSP Array Processor |
Mark T. Jones (ANL), Paul E. Plassmann |
Solution of Large, Sparse Systems of Linear Equations in Massively Parallel Applications |
Hisao Nakanishi (Purdue), Vernon Rego, Vaidy S. Sunderam |
Superconcurrent Simulation of Polymer Chains on Heterogeneous Networks |
Michael S. Warren (LANL), John K. Salmon |
Astrophysical N-body Simulations Using Hierarchical Tree Data Structures |
この中から以下の3件が受賞した。
Peak Performance |
Price-Performance |
Speedup |
Price-Performanceで1位を取ったPurdue大学のN. Nakanishiらは、地理的にも分散し、機種も多様なクラスタEcliPSeを使ったようである(要確認)。
12) SCinet
会場内のインターネットSCinetは2年目であるが、10以上のFDDI、20以上のHIPPIと無数のEthernetが張り巡らされ、全米各地のスーパーコンピュータセンターと接続されている姿は壮観であった。
13) Cray社見学
最終日(11/20)に、会議をサボってCray ResearchのChippewa Falls工場の見学ツアーに参加した。別項に記す。
14) 標準化
あと記憶に残っているのはHPFF (High Performance Fortran Forum)であるが、これはHPFの項で述べた。
筆者は全然知らなかったが、SC’92の最中にメッセージパシングの標準を作成するための委員会が形成された。このころは、まだどんなものになるか誰にも見当が付かなかったが、以下のような目標を立てた。
(1) ANSIのような公式の標準ではないが、システム作成者にもユーザにも魅力あるポータブルなメッセージパシングの標準を定義する。
(2) 議論は完全にオープンにし、会議に出席することにより、あるいはEmailの議論により、誰でも議論に参加できる。
(3) 1年以内に完了する。
合意形成のひな形としてHPFF (High Performance Fortran Forum)にならったそうである。同時に同じホテルで会合を行ったこともある。とにかく、既存のメッセージパシングシステムには依拠せず、白紙から始めることにした。主要な目標として、ポータビリティ、表現力、性能を重視し、使いやすさは二の次とした。アイデアとしては、ライブラリ、コンパイラなどのソフトウェアが支援することを想定していた。
15) 西海岸にて
会議のあと、11月23日にはBerkeleyに寄り、LBLのPDG (Particle Data Group)で打ち合わせを行った。この日の夜、Supercomputing Japanの主催者のParker氏とICS企画の鬼頭淳一氏と会い、3人でソーサリトのレストランでSC Japan 93について打合せた。鬼頭氏はその前にNapa Valleyでワインを楽しんでいたようである。このとき筆者は、組織委員長を頼まれていたSupercomputing Japan 93が延期になる(そして結局中止になる)などとは想像だにしなかった。
Cray Research, Chippewa Falls工場見学
SC’92 最終日(1992年11月20日金曜日)に、会議をさぼって、CRI (Cray Research, Inc.)社が企画したChippewa Falls工場の見学会に参加した。人数は各国の人計20名くらいであった。Chippewa Falls 工場は隣のWisconsin州で、州境からかなり入ったところにある。Minneapolisから170kmほど東で、高速道路(free way)を時速80マイル位で飛ばしたが、片道2時間もかかった。東京・静岡間ぐらか。
1) Manufacturing
まずY-MP C90 の組立工場を見た。一日24時間(5シフト)、週7日ぶっ通しで操業とのことである。従来のY-MPは、正方形のパッケージのICを半田でつけていたが、C90では、ICの金の導線を、プリント板の金の配線に、超音波で直接溶接して組立ている。半田をいっさい使ってないのが自慢。日本の汎用機のパッケージングからみると集積度はだいぶ低いが、Cray社の製品系列としては着実に密度を上げている。X-MP や Y-MP に比べて wiring がだいぶ減っている。次のTriton では wiring を完全になくす、と言っていた。「自動化の程度が低いのでは」という質問には、「製品の life cycleが短いので、この程度のロボット化が最適」という答えであった。
C90のメモリチップをみたら、日立のマークが入っていた。BiCMOSメモリをCray仕様で日立製作所から購入しているようである。
2) IC Fabrication
次にLSIの工場に案内された。Cray社は、初め市販品のICだけで計算機を作っていたが、1983年には16ゲートのチップ(X-MP用)、1984年には2500ゲートのチップ(Y-MP用)を作り、1988年には10000ゲートチップ(C90用)を作った。いずれも ECLのゲートアレイである。しかしここでは試作だけで、量産はMotorolaに外注していた。なぜ試作のラインを持っているかというと、急に新しいチップが必要になったとき、ここで試作できて、turn around time(待ち時間)が短いのがうれしい、と言っていた。いま、新しい13000平方フィートの本格的なIC工場が出来たところだそうだ。Triton のためか、MPP のためか?
3) Cray MPP
MPP-0 のコードネームで呼ばれる、Cray社初の超並列計算機 T3D は、3次元トーラスネットワークで、最大2000個のAlphaチップを結合し、300GFlopsを実現する。Cray社が得意のパッケージ技術で作っているので、まるで(ベクトル)スーパーコンピュータである。Alpha chip とメモリ以外はなんとECLチップで、冷却もY-MPやC90と同じく、冷媒を通した金属の板の両面にボードを張り付ける形である。なにしろ、Alphaだけで30Wも熱を出すと聞いてびっくりした。まあ今なら一桁上の熱を出すチップも珍しくないが。ボード上には、Alphaが4個、ドデンと乗っかっていた。目下、最初に火を入れたボードをテスト中。なんとそれを見せてくれた。電源が3種類の電圧で供給される。
さらにMPP-0 の制御用チップ、ルーターチップの配線図を見せてもらった。これは発表したものだからまあいいとしても、なんと次のMPP(MPP-1)用の石の配線図まで見せてくれた。キャッシュとそのコントローラだそうで、60%ほどがキャッシュ自体で占められている。私が「MPP-1も将来版のAlphaを使うのですか?」と聞いたら、にやっと笑って、”You will see.” (じきに分かるよ)とはぐらかかされてしまった。だれかが同じことを聞いたら、「その時点で最もよい石を使う」と言っていたそうだが、キャッシュコントローラまで設計が出来ている以上、決まっているのであろう。MPP-1は意外に速く出現するかも知れないと直観した。実際Cray T3Eが発表されるのは1995年11月である。
4) Museum(CRI Corporate Computer Museum)
工場の一角にある、コンピュータ博物館の展示を見た。いくつかの重要な品は、Supercomputing 92 の歴史展示に貸し出してしまっていた。Seymourの手掛けた、CDC1604から、6500、7600、8600、Cray-1, Cray-2, X-MP まで飾ってある。C90はないのか、と誰かが聞いたら、まだ廃品はでていない、といっていた。片隅には、Univacにいた27歳のSeymourが、暗号解読(?)用に作った真空管計算機まで展示されていた。
説明してくれた年輩の女性が、「わたしは、SeymourとともにUnivac, CDC, CRI と歩んで来た。Seymourのために紙テープのパンチもしたことがある。でも、来週retireする。」と淋しそうに、しかし誇らしげに語っていたのが印象的だった。
次回はアメリカ企業の動きなど。これまでミニコンを開発してきたDEC社は、CPUチップ Alpha 21064 (EV4)を発表し、9月から量産出荷する。超並列機として、Intel社はParagonを、MasPar社はMP-2を、TMC社はCM-5を、Cray社はT3Dを発表する。他方、Seymourが奮闘しているCray-3には暗雲が。
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